36.『毒蛇』のクルト
「背負い込めるものではない、と忠告したはずだがね」
そういうクルトは、いつもながらに気だるげな絵描きさんのままだった。
「おいあんた、絵描きのあんたが口を出す話じゃないぞ」
「これからこのあたりは戦場になるかもしれない。あなたは早く逃げたほうがいい」
マルカとヴォルフ。
ふたりをぐいっと押しのけて、クルトはわたしの前に立つ。
「間違っているって、わたしが、よね」
「いった通りだよ。姫君だけじゃない。ここにいる全員が間違ってる」
クルトはぐるりを見回した。
あれ、今、クルトさんの背筋がスっと伸びたような……
ふたたびわたしを見たときには、彼のまとう雰囲気が、がらり、と変わっていた。
「クルト、さん?」
「まずは姫君に少年。おまえさんたちだ」
ふたりの視線が、クルトで交わる。
「ふたりとも、今度のことは一切合切、気に病む必要なんてないんだぞ」
「え?」
クルトは、なにをいっているのだろう。
リットくんはともかく、わたしも?
もしかして彼、酔っ払っているのだろうか。
「そもそも、だ。帝国はな、少年の引き渡しなんぞ、承諾しようが断られようが、どっちでもよかったんだから」
「……???」
「結局のところ、帝国は少年もこの国も、どっちも手に入れようって腹なんだからな。姫君のあれこれで、たまたま国のほうが先になったみたいだが」
この国? リュミエール王国のこと?
貧乏なことでは、まわりの国に比べられるところはない。
そんなリュミエールを欲しがるだなんて。
いつかの、お父さまの言葉が思い起こされた。
『なにしろなんにもない国だからね。こんなところを併合してもメリットなんてまるでないから、みんな放っておいてくれているのさ。だから平和。それだけは誇れる国なんだよ』
あのころは、リュミエール国民がみんな、甘いお菓子を食べるだなんて、ずいぶんな贅沢だった。
でも、今は?
追放者さんたちのおかげで、あめ玉なら、毎日食べられるようになった。
もう少ししたら、もしかして……
「甘いお菓子を、毎日食べられるような国なら、帝国も欲しがるって、そういうことなの?」
「そうだ。姫君、あんたは頑張りすぎたんだ」
「頑張って、ちょっとだけ幸せになったから、攻められるっていうの? そんなの、そんなの許せない」
強い言葉は、行き場を失って、みんなの沈黙の中を漂う。
だって、許せないなら、どうすればいいんだろう。
帝国の軍隊は強力で、リュミエール王国のそれとは比べものにならないっていうのに。
「じゃあ、わたしが謝りに行っても、どうにもならないのね?」
「そうだな。よくて牢獄。悪ければ斬られておしまいだろう」
重苦しい空気を振り払うように、ヴォルフがばん、と両の手を打ち鳴らした。
「なら、もうやることは決まりだな。最初の予定通り、俺たちがおとりになって姫さんを逃がす。それでいいんだろ?」
「阿呆が」
「なんだと?」
ヴォルフの巨躯に睨まれても、クルトはまったく動じなかった。
「だから、おまえらも間違っているんだよ。死を賭して姫君を逃がす? 今時はやらんぞ? そんな物語は」
「では、どうしろと? 勝てぬ相手に愛と勇気で立ち向かえとでもいうつもりか?」
マルカがいうのに、クルトはただ、苦笑で答えた。
「勝てぬ勝てぬと、どうしてそう決めつけるのだ? 帝国軍全軍が攻めてきたというならともかく、相手はただの一軍ではないか」
「そうはいうがな。相手はかの帝国軍だ。いっちゃ悪いが、リュミエールを滅ぼすなら、その半分でも充分にすぎるだろ?」
クルトはヴォルフに近寄ると、その肩に手をのせた。
「なんだ、この身体は飾りか? たしかに、リュミエールはおせじにも戦って強いとはいえん。だが、おまえらの力が加われば……」
「勝てる、の?」
わたしの言葉に、クルトははっきり頷いた。
「勝つんだよ。少なくともおまえらにはその力がある。そして、この俺が勝たせてやる」
クルトはもう一度、わたしの前まで歩いてくると、そうして急に膝をついた。
「名乗りが遅れて、申し訳もございません。俺は『毒蛇』のクルト。かつて、シタニア教国にて、大将軍を拝命していた身であります」
ま、追放されたんですがね、と彼は続けた。
「この戦の勝利、かならずや貴女にささげてみせましょう」




