10.もふもふと執事と
「安心しろ、手加減はしてやるから、よ」
狼の顔をしたヴォルフが少しくぐもった声でそう言った。
次の瞬間、マルカが大きく仰け反って、その勢いのまま後方に宙返りする。
「え、なに?」
わたしは目をぱちぱちとした。
いつのまにか、マルカのそばにヴォルフが現れ、振り切った拳を胸もとに納めた。
ヴォルフがマルカを殴りつけ、それをマルカが避けたみたい。
わたしには、ぜんぜん見えなかったけど。
「これも躱すかい。なかなかやるじゃないか、あんた」
ヴォルフは笑うと、そこから続けて拳を繰り出す。
マルカの避ける様子で、わたしにはかろうじてそうとわかるだけ。
もふもふと化したヴォルフは、そのくらい速かった。
「くっ、この馬鹿力め」
それでも、ヴォルフの拳はマルカを捉えてはいない。
でも、マルカには先ほどのような余裕は感じられなかった。
避けることはできていても、反撃する隙はないみたいだ。
「この姿に変じて、ここまで耐えた相手は久しぶりだぜ」
とん、と間合いをとりながら、ヴォルフが言った。
その手には、またもやなにかが握られている。
さっき彼が飲んだ、あの薬だ。
ヴォルフはそれを空に放ると、器用に口でうけとめた。
「さて、続きをやろうか」
突進、横薙ぎ。
そこからはじまるヴォルフの連続攻撃を、マルカはやっぱり避けるばかりだ。
それから一分ほど、だろうか。
袖口に髪のひとふさ。
そんなところを切り裂かれながらも、マルカはまさに紙一重、
ただひたすらに、躱し続ける。
けれど、
ヴォルフの突きをすんででくぐり、その胸脇をすり抜けようとした瞬間。
マルカの顔に向け、ヴォルフの膝が跳ね上がる。
「あっ」
とあがったわたしの声にあわせるように、マルカの身体が宙を舞った。
「だだ、大丈夫、マルカ」
「ご心配なく、アンネローゼさま。きちんと防ぎましたから」
そう言ったマルカだったけど、その唇の端から一筋、紅いものが伝っている。
血、だ。
マルカは手早くそれを拭うと、なんでもなかったようにヴォルフへと向き直る。
「どうしたよ? そろそろおつかれかい?」
ヴォルフがそう言って、また笑う。
そうして、彼の右腕が懐を探った。
「む?」
しばらくの後、ヴォルフの目が訝しげに細められた。
「ない、まさか・・・・・・」
「捜し物は、これかな?」
いつのまにか、手品のように、マルカの手に小さな箱のようななにかが現れていた。
マルカはそれを軽く振ってみせる。
からからと、中から乾いた音がした。
「薬か。感心しないな。こういうものに頼るのは」
ヴォルフの攻撃を躱しながら、彼の懐からそれを抜き取ったのだろうか。
マルカはそう言うと、それを自分のポケットにしまい込む。
「馬鹿、それがないと・・・・・・」
「おおかた、変身が続かないとでも言うのだろう。さ、続きをやろうか」
「違げえよ、かえせ、早く!!」
「なら、取り返してみるんだな」
なぜか焦ったように言うヴォルフだったが、マルカはとりあわなかった。
「クソ。どうなってもしらねえぞ」
ヴォルフが言う。
その彼の目が、こころなしか赤く、光ったように見えた。
「ああ、もう遅い。こうなったら、止まんねえからな」
「なに?」
マルカが怪訝そうにそう尋ねたけど、ヴォルフはもう応えない。
「グルルルルルルルル」
かわりに、ほんとうの獣のようなうなり声が、彼の口から漏れて出た。
ドン、と続けて音がする。
ヴォルフが床を蹴った音だ。
その大ぶりの一撃は、こんどはわたしにもはっきり見えた。
当然のように躱すマルカ。
「ヴ、ガァァァァァァ」
ヴォルフが吠える。
さっきの彼の言葉通り、ヴォルフはそこから止まらなかった。
上から、下から。そして横から。
めちゃくちゃに振るわれる拳に爪。
さっきに比べてぜんぜん正確じゃなかったから、やっぱりマルカにはあたらない。
でも、あれがもし一回でもあたったら・・・・・・
手加減のひとつもない、ただ全力で振るわれる拳は、さっきよりも単純で恐ろしかった。
「見誤ったか。仕方ない。これで終わらせる」
マルカの手が腰に伸びた。
もしものために、と。
彼がいつも帯びている二本の短剣。
そのとき、マルカの目がはっとしたように見開かれた。
今にも抜こうと、短剣の柄を握った手から力が緩む。
『ようこそ、追放者のみなさん』
そう書かれた横断幕が、彼の視線の先にあった。
暴れているとはいえ、ヴォルフもまた追放者。
短剣を抜き、生き死にの戦いまでいってしまうことを、ちょっとだけためらってしまったのか。
それはマルカのやさしさだったけど、
その一瞬の隙をついて、ヴォルフの突進がマルカを捉えた。