21話:東日本大震災の教訓
また、液状化対策については、埋め立て用材について、粒径の異なる土砂を用いることにより対策を行った。地震などの災害時に避難路や物資輸送路として重要な役割を果たす道路についても「深層混合処理工法」という、軟弱な地盤にセメントなどの改良材を混ぜ合わせることによって地盤を固める工法を採用し、耐震性を強化した。これらの対策により、みなとみらい地区では、東日本大震災においても液状化の被害はなかった。
地区内の建物についても、1981年に施行された新耐震基準「震度7程度の揺れでも倒壊などの被害が生じないことを目標に設定されたもの」が適用され、高い耐震性を備えた建物となってる。そして、快適な日常生活を送る上で欠かせないライフラインについては、幹線道路の下に耐震性に優れた共同溝を整備し、その中に電力・通信・上水・ガス・地域冷暖房などの都市活動に必要なインフラを収容している。
そのため、災害時のライフラインへのダメージが少なく、地上に電柱や電線がないので電柱などの倒壊やそれによる電線の切断・交通遮断といった二次災害を防ぐこともできるという訳。また、みなとみらい地区には災害時に活躍する防災関連施設が整備されている。
このエリアは、道路が寸断された場合でも空や海上から物資の輸送が可能だ。その際に活躍するのが、臨港パークの北側に位置する「内貿『耐震』バース」。岸壁に耐震化が施されており災害時も安全に船の接岸「5000トンクラスの大型船2隻の接岸が可能」なため緊急物資の輸送などの役割を担える。 災害時に不足しがちな飲料水については、臨港パークや高島中央公園など4つの公園の下に耐震型循環式地下貯水槽が設置されている。
そのため災害時には50万人分の飲料水を3日間供給することができる。さらに広域避難場所となる公園や病院もそろっており、新港地区には東京湾および関東一円の海上防災拠点であり、災害の発生時には被災者の救援活動などの拠点として機能する海上保安庁の横浜海上防災基地があることも頼もしい。また東日本大震災後には帰宅困難者への支援として、臨港パーク内に帰宅困難者用備蓄倉庫が新たに整備された。
今回の東日本大震災の教訓として、20Lのポリタンクを5つ購入して、常時、飲料水として使うことにした。地元の酒屋さんに、お願いして4Lの焼酎の空いたペットボトルを4ついただき、水の運搬用に使うことにした。更に、目の細かい水用の活性炭を30kg単位で購入して、目の細かい紙袋に入れてポリタンクの中に沈めた。そして貯めておいた水を使い、20Lのポリタンクを使い終わったら、すぐに、新しく水を入れ順番に使うのだ。
そうすることによって100Lの水が常時在庫されることになる。これにより、珈琲と紅茶、お茶が、おいしくなった。また、施設で避難訓練を月に1回、行うことにして、その手順書を事務所の机の上に置き、全員が参照できるようにした。火の点検、電気の点検、水の点検を2人が必ず行うことにして、間違いが起きないようなシステムを考案して、実施し始めた。
やがて、2011年も暑い夏を迎えて、入所者の体調管理に注意を払った。昨年の東出芳子の小説の売り上げも順調で、今年4月に発売した、日本の旅行を題材にした小説も出だし好調らしく、今年も5千万円を「富士の園」に寄付してくれると言ってくれた。また、東日本大震災の孤児と遺児に対しても5千万円の寄付金を送ったと聞かされた。そして、2011年も12月を迎えた。
12月24日、大きなクリスマスケーキを三井賢治が2つ購入し、人数分に切り分けて、介護職員の部屋の冷蔵庫に入れて、ご自由にお食べくださいと書いておいた。そして2012年が明けた。正月があけてから、「富士の園」でインフルエンザで高熱となる患者さんが増えだし10人を超えた。これはまずいなと、消毒、換気などに注意するように職員にちゅいい喚起したが、勢いは衰えるどころか2月になると一気に20人を超えた。
あまりの流行に、東出芳子を含め高齢のパート介護職員に出勤停止をかけたほどになった。施設の2人運転手は、入所者の病院への搬送で忙しくなり、運転席と後部の座席の間と透明なプラスチックのカーテンで仕切ったほどだった。2月14日、入所者の11%がインフルエンザで入院して、あまりに多くて、以前、サナトリウムとして使っていた結核隔離病棟を再開するほどの患者さんとなってしまった。
その規模は、過去2番目と言うほどのひどさだった。神奈川西部、静岡の西部は富士市、北部は山梨県境の方まで、救急車でインフルエンザ患者を迎えに行き、函南、伊豆長岡、伊東、伊豆高原のサナトリウム病院が清掃、消毒して、隔離病棟が再開されて、精神科の看護婦さんまで駆り出されて、患者さんの手当、看護にあたる羽目になった。もちろん、介護職員にも多少感染したが、若者は、免疫をつくり、回復が早かった。
4月を迎えるころから徐々に、患者さんが減って、回復する人が増えだした。それでも5月連休過ぎまでは、油断できない状態であった。しかし、6月を迎えて、介護施設の患者さんのうち7人が帰らぬ人となったが、23人が回復して、施設に戻ってきた。「富士の園」出なくなった人の数としては過去最高で、今までは3人が最高だったので、2倍以上の患者さんが亡くなったことになる。




