1話:三井賢治は、修理屋
伊豆修善寺は、わさびが名産品で修善寺温泉と川端康成の小説「伊豆の踊子」で有名である。この物語の主人公の三井賢治は、この地で1976年10月1日に誕生した。父は、三井祐蔵と言い、昔からわさび農園を経営する家の長男。10人を雇いわさび田と野菜を栽培し、それらを修善寺に店を持って販売していた。1972年6月に手伝いに来ていた地元の吉田克子と結婚した。
その後、1972年4月5日結婚、長男、三井浩一、1974年1月9日、長女、三井明美、1975年10月11日、次男、三井賢治、1976年10月1日と3人の子供をもうけた。長男、三井浩一と長女、三井明美は、地元の小学校、中学校を卒業して、成績も優秀で韮山高校に合格した。三井浩一は、理数系が得意科目で、三井明美は、国語、社会など文系が得意だった。
高校を卒業すると、三井浩一は1992年4月、東京都立大学、理工学部電子科へ入り、2年遅れて、妹の三井明美が同じ大学の経済学部に合格した。そして目黒の都立大学前から徒歩10分と大学から近い、学生アパートに入った。大学を卒業後、三井浩一は、NECに入社し、三井明美は、イトーヨーカー堂に入社した。そして、年末に帰って来る位で、東京での都会生活を楽しんでいた。
一方、三井賢治は明るく、やさしい性格で手先が器用で近所の家の自転車、電球の交換、滑りの悪い窓の修理など困りごとがあれば直してやる心優しい若者で近所の高齢者に、特に可愛がられ、何かしてやるごとに、お駄賃をもらった。それがうれしくて何でも手伝ってあげた。祖父母にも可愛がられ、お年玉、お小遣いをもらうとすぐ郵便局の定額貯金する、しっかり者で友達も多かった。しかし勉強よりも遊びが好きだった。
特に父に買ってもらった5段ギアの自転車で中学時代の友人達を伊豆を走り回っていた。勉強では、理数系が得意で記憶力も良かった。しかし、よく遊んでいて家に帰ってくると風呂に入って直ぐ寝るという健康的な生活を続けた。中学時代には近所の老夫婦の農機具を修理したり自転車を修理したり野良仕事を手伝ったりして勉強する時間が少なかった。
そのため中学を卒業し修善寺工業高校に入学し1995年3月に卒業。三井賢治は、中学卒業すると、修善寺の西藤モータースで農耕具やオートバイ、自動車の整備のアルバイトをした。そのうち三井賢治の愛想の良さ、人なつっこさが、お客さんに好かれ、かれのファンが増えてきた。その後バイクの免許を取った。バイク、車の整備に興味を持ち修理の腕を上げた。
1994年5月8日、白髪交じりのメガネをかけた男性がホンダのスーパーカブ、を押して西藤モータースに入ってきた。
「バイクのエンジンから変化音がして調子が悪くなったので、大至急、点検し、修理できれば、お願いしたいと店に飛び込んできた」。
そのインテリ風の男性は、函南に住んでいる田川泰介を言うものですと自己紹介し、修理代は、修理後、現金で払いますから宜しくお願いしますと丁寧に言った。店で応対した三井賢治が見てみないと修理できるかどうかわかりませんが良いですかと聞くとお願いしますと言った。そして店の中でお待ちくださいと言うと、店のおかみさんが、お茶を運んできて、大変でしたねとねぎらいの言葉をかけた。
40分位して三井賢治が良くなったと思うので、ちょっと近くを走ってみてと田川に言った。
「田川が、ありがとうございますと言い、店の前の道をを数百メートル走り戻って来た」。
「快調ですと笑顔で言い、何が原因だったのですかと田川が聞いた」。
「エアクリーナーが汚れていてビニールが溶けて固まり、こびりついていたと説明した」。
「丁寧に掃除しておきましたのでこれで大丈夫だと思いますと答えた」。
「助かった、本当にありがとうと言い、おいくらと聞くので基本料金の500円で良いですと答えた」。
「すると君の手間賃入っていないと言い千円札を差し出し、おつりは、とっておいてと言った」。
「週に3回ほど修善寺で家庭教師に来ていると言った」。
「何を教えているとと聞くと中高生の受験勉強、全般を教えてると答えた」。
「賢治に向かって、君は瞳がきれいで本当に正直な若者だねと語った」。
「たまにバイクをみてもらうかも知れないのでまた宜しくと笑顔で話した」。
「困ったら、いつでも寄ってと言うと心強いと言い、僕は、手先が不器用でねと笑った」。
「その後、田川は、お世話様と言って颯爽とバイクを飛ばして去って行った」。
その後、近所の人からの電話を受けると賢治が工具を持って修理に行くケースが増えた。修理が終わると、お菓子や果物、おはぎ、農産物などお土産をもらって帰って来た。アルバイト料は、1日3千円で月に20日で6万円。土日、忙しい時には1日5千円で働いた。それでも三井賢治は酒も煙草もギャンブルもしないし無駄遣いせずに給料は全部預金して金がいるときだけ下ろす生活を続けた。