陽子と千春と
4月、新しい生活、新しい学校、新しい環境、それぞれの人々が緊張と期待に胸を膨らませて始まる季節。
その緊張も少しばかり収まり始め、5月を目前にしたとある日曜日の朝。
目が覚めて、まだ眠い目をこすりながらベッドから起き上がりキッチンに向かう1人の女性。
昨日の夜はなんだか眠れなくて、まだなんとなく身体が重い。
そんな重たい体を引きずりながら冷蔵庫から冷水を取り出してコップに注いで体内に流し込む。
「今日は休みかぁ。」
誰かがいるわけでもない部屋でぼそっと呟いた声は今飲んだ冷水よりも冷たく響いて、胸の奥にずしっと突き刺さった。
私、秋野陽子はこの春に新生活をめでたく迎えた新社会人。
不慣れな日々の生活にも少しずつ慣れてきて、ただ追われるように過ぎていく時間も今や懐かしいくらい。
職場の先輩たちはみんないい人達で、久しぶりに採用された新入社員の私にとてもよくしてくれている。
と、これだけ聞くとそれはそれは素敵な春のように見えるのだけれど…。
「まるで5月病みたい。」
なにもすることがない、というわけではないのだけれどなぜか力が入らない。
仕事へのやる気も、新しい人間関係の良好さも、これが崩れて欲しいと願うわけではないのに何かが物足りない。
コップを持ったまま何気なく窓際から外を見る、2階のこの部屋から見える景色もすっかり見慣れてしまってなんてことない風景になっていた。
都会の様に思えるこの街も、少し中心部から離れれば日曜の朝を十分に満喫できるくらいの静けさを保っている。
「静かなのも落ち着かないし、むやみにうるさいのもかんべんしてほしいし。」
我ながらワガママを言ってる、と思いながらコップの水を飲み干して今日という1日をどう満喫してやろうかと脳内を一気に動かし始めた。
「でさぁ、そこで言ったのよ。私は勉強は出来ないけど、お前ほど人間的に落ちぶれてるわけじゃないから!って。」
「へぇ~。」
生返事をする陽子のことはお構いなしで目の前の女性はその返事に満足しながら喋り続けている。
「陽子だったらなんて言う!?」
「私は別に…その先輩?に普段はお世話になってるわけでしょう?だったら大人しく言うことは聞いておいて、後々数年後とかに成長してから、先輩ってこの程度の仕事の事でガミガミガミガミ言ってたんですから鼻で笑っちゃいますね。とか言うかなぁ。」
「陽子ってさぁ…何にも興味無さそうで人畜無害な顔してるくせに、たまにものすごく強烈に冷たいよね…。」
「え!?ウソ!?今のダメだった!?」
目の前でやや引き気味にジト目になって呆れ顔で陽子を見つめる女性は、朝月千春
陽子とは小学校からの付き合いでお互いに新社会人になった今年はこうして週末になると2人で出掛けては千春の愚痴を聞いて、たまに強烈な一言を放つ陽子にそれは言い過ぎ、と逆にたしなめられる恒例のやり取りを繰り返していた。
「そんなんじゃ彼氏の1人も出来ないぞ~。」
「千春もいないじゃん。」
「私は陽子がいればいいよ…。」
「え!もっと冗談っぽいトーンで言って!!」
昼過ぎに入ったカフェ、窓際の席から見える空は晴れ渡り机に置かれたアイスティーは話が盛り上がるたびに氷の音がカランと響く。
少しずつ日が落ちていく中、ふと外を見た陽子の目に1羽のツバメが映った。
「あ、ツバメ。」
思わず大きくなった陽子の声に千春も窓の外を見る。
「ほんとだ!ツバメの巣ってさぁ、幸運を運んでくれるらしいよ。あと、わざわざ人のいるところに巣作るじゃん?カラスとかの天敵がこないから作るらしいんだけど、賢いよね。」
「そうなんだ…あんまり静かだと子供が産まれるまで寂しいからかと思った。」
「なにそれ急にちょっと感傷的、むしろ寂しそうにしてる人の家に作ってにぎやかにしてくれてるのかもよ。」
うちらのとことかね~、なんて笑いながら言う千春を軽くスルーしてその後も再び盛り上がった会話を続けながら陽子の目はツバメから離れなかった。
「じゃ、また来週ね~。」
すっかり話しきって満足したのか千春は意気揚々と手を振りながら軽くスキップなんかしながら帰っていく。
その後ろ姿を見ながらほんの少しの友との別れに少しだけ感じた寂しさを隠すように陽子も足早に家に向かった。
明日からはまた、いつもと変わらない日常が始まる。
「寂しそうにしている人の家に巣を作る…か。」
帰宅途中になんとなく思い出したツバメの話。
「まさかね…。」
きっとそこには何かしらの期待があった。
新生活に追われる日々を一緒ににぎやかにしてくれるのではないか?
ツバメに期待しなければならない程、陽子自身は疲弊していたわけではないけれど。
ほんの少しというには大きすぎる期待感はあった。
「…まぁ、そうよね。」
帰宅して真っ先に向かったベランダにはいつもと変わらない街と、いつもと変わらない夜。
ツバメの巣も、鳴き声も、そもそも姿も、そこには当然なかった。
「今日は寝よ。」
そのまますぐにお風呂に入り、夕飯を食べる事なくベッドに横になる。
目を閉じた瞬間に一気に襲い来る睡魔にあらがうこともなく意識が真っ暗に溶けていった。
夢を見ることもなく、不快な目覚めでもなく、なんてことない普通の朝。
寝起きに小鳥のさえずりでもあればどこかリッチなモーニングの雰囲気だけでもでるだろうに。
そういったものとは全く無縁のいつも通りの朝。
「いつもと何にも変わらない朝。」
ただ1つ、前日までは無かったものが街のあちこちにあふれかえっていたことを除いて。
「で、いつもと何も変わらない朝、って思いながら鏡の前に立った時からおかしいと思ったのよ。」
「え、それだけ??衝撃はそれだけなの??」
相変わらずアイスティーをずずっと吸い込む陽子の言葉に千春は思わず目を見開いて聞き返した。
その日から一週間、街の人々はあまりに大きな変化を経たその珍事をあっという間に受け入れて少しだけにぎやかになった日常を過ごしていた。
「衝撃は凄かった!朝目が覚めて鏡を見たらこんな…頭の上にツバメの巣があるとか…。」
「なんかいまいち、陽子は表情筋が活動停止してるとしか思えないのよね…。」
街の人々の中でも一部の人の頭の上に一斉にツバメの巣が出来ていた朝から一週間。
本当に衝撃的できっと人類史上にも例を見ないこの珍事も、人類の素晴らしい適応能力の前には一週間しか持たない出来事だった。
「このツバメの巣、今も研究自体は続いてるらしいんだけど切り離したり出来ないみたいで、でも悪影響とかは無いらしいのよね…今のところ。」
「それを淡々と話してる当事者の陽子が一番怖いんだけど…それはともかく、あの日ツバメの巣の話をした私にはないってどういうことなの!?」
「このツバメの巣は、きっと心のキレイな人にだけ作られた素敵な巣なのかもしれない。」
「一昨日逮捕された無銭飲食の常習犯にも頭にツバメの巣があったらしいけど。」
ふふん、と誇らしげに話す陽子に千春からの冷静な一言が突き刺さる。
「…ま、ロマンティックな理由なんてなくても日常に支障がなければいいのよ。」
「もしなにかしでかしても、犯罪者は一発でわかるから便利よね。」
その話やめて!と、陽子が叫びかけた時。
「ぴぃーーーー!!!」
いつものカフェの店内に大きな音が響き渡った。
その音は甲高くまるで鳥の声のような、それもあちこちで店内中を一斉に賑やかしていく。
「え?え?なになに?すごい声?音?なにこれ??」
「いやいや!陽子!あんたの頭の上だから!ツバメ!」
相変わらず動かない表情筋のまま、店内をきょろきょろ見渡す陽子の頭を指差しながら片耳をふさぐ千春。
声の主はツバメ、店内にも数人いたツバメの巣の宿主(?)の頭の上から一斉にツバメが飛び出して大きな声で鳴き始めたのだ。
「おおおお客様!他のお客様のご迷惑になりますので!!!」
盛大にテンパった店員に、お代はいいから!と陽子と他数人、そしてなぜか千春までもがお店の外に放り出された。
そしてその先には、何十人もの人々の頭の上にあるツバメの巣から何十ものツバメたちが空に飛び立っていく姿。
「えーー!?なにこれ!?すごくない!?ねえ!陽子?あれ…え?陽子だよね!?」
その時の千春の顔は、凄く驚いた何かを見ているように見えた。
ちょっと驚くような出来事じゃなくて、それこと店内でツバメが一斉に鳴いた時ですらそんな驚いた顔ではなかったと思う。
千春はそのくらい驚いていて、その驚いた千春の目には確かに私が映っていた。
今までにないくらい、大爆笑している私が。
「あは、あはは、ね、ねえ!あはは!ち、千春、わ、わらいが、あははは!止まら、ないんだけど、あはは!ほんと、おかしくて、さぁ!」
「え?笑ってる?驚いてる?どっち!?」
きっと人生の中でも一番笑ったんだと思う。
自分でもわけがわからなくなってしまうくらいに、盛大に大きな叫び声の様に笑っていた。
それをまるで大喝采で後押しするようにツバメたちは一斉に飛び、鳴いていく。
新生活が始まって5月を目前にした4月半ばを過ぎたころの出来事だった。
あれから二ヵ月、すっかり陽気は春を通り越して6月の梅雨にさしかかる。
全国的にも、全世界的にも大きな反響と話題を呼んだ頭頂ツバメの巣事件。
あまりに短い期間だったことと、目撃者や自ら告白する人が少ない事であっと言う間にその話題は消え去っていった。
「あの時の陽子の顔ったらなかった、本当にあんな笑顔もう一回見たいなぁ。」
「そうなの?そんなに笑ってた?」
にーっと自分なりの笑顔を千春に見せても、それじゃない、と首を横にふられてしまう。
「ちょっとあの笑顔のためなら、みたいなとこあるもん。」
「よっぽどじゃん!どんなことしてくれるの?」
相変わらず週末は二人で集まってカフェでただただ話す。
あれ以来、千春は陽子に事あるごとに当時の笑い顔を絶賛する。
陽子としても長年の友の頼みならばと、自分なりに笑ってみたり表情を作ろうと必死だ。
「でも陽子、昔より全然、表情筋がいきいきしてる。」
「表情筋がいきいきってどんな状態!?」
これは個人的な、あくまで陽子が一週間で感じた個人的なこと。
あのツバメの巣が出来た人たちにはきっと、日常の中に何か大きなものを見失っていた人たちなのかもしれない。
笑えなくなっていたり、寂しさに支配されてしまっていたり、明るく前が見えなくなっていたり。
無銭飲食で捕まった人も、もしかしたらただ一人で食事をするのが寂しくて嫌だったのかもしれない…結局犯罪はダメだけど。
そんな人たちに幸運を、笑いと活気を届けてくれたのかもしれない。
「…なんてのは、ちょっとロマンチックすぎるかなー。」
「え?なに?私に今後一生、陽子の笑顔を隣で見せてほしいって告白が?」
「私の聞いてないところで私に告白しないでほしいなぁ…。」
「忘れられなくて呼吸をするようについ言っちゃうんだよね。」
変わらない退屈で窮屈な日々に、少しだけ見えた光のような時間。
一度見えたあの時の光景が忘れられなくて、今もまだバカみたいに笑って過ごせている。
そして千春はあの笑った日よりももっとずっとそれはそれは昔から、呼吸をするようにその告白もどきを言ってる気がする。
「で、陽子、私の告白の返事は?」
「だから、このネタ毎回トーンがまじめすぎてもうちょっと冗談っぽく言ってくれないとさぁ…。」
ちぇーっと、口をとがらせる千春を見ると我ながらちょっと意地悪だな、と思ったりもする。
ツバメがくれたあの一瞬の輝きを超える笑顔をいつか千春に見せられたら、その時はいったいどんな顔でどんな言葉を私に言ってくれるのか、遠い未来かはわからないけれどもしその時がくるのであれば、少しだけ今から楽しみなのだ。
テーマはツバメです、そして内容は、どういうこと?って、きっとなる。
ツバメの巣って幸運を運んでくれる、って言われていたりします。
この作品を書いてるときにとにかく明るい作品にしたい、と思って書いていました。
当初は恋愛ものにしようとしていて、ただそうすると結構な長編になりそうで。
正直ずいぶん書いてないこともあってリハビリみたいなところもあったので短編にしたかったのです。
幸運を運ぶ、ツバメ、恋愛、なんかいい感じになりそうでしょう?
でもちょっとうまくまとめられる気がしなかった、だからとにかく前向きなワードを詰め込んで、明るい、笑い、輝き、みたいな。
どことなく物憂げな陽子と明るい千春、この2人にツバメから幸運を運んでもらいたくなったわけです。
もう少し感覚が取り戻せて来たら、もう一度同じテーマで恋愛ものに取り組んでもいいかなって思います。




