序幕
其奴は『記憶』と書かれた記録帳、いわゆる日記の対処に困っているようである。人間らしい苛立ちの合図、物に当たって自身を無性に落ち着かせるという行為の犠牲者となったのは、やはり日記だった。其奴の器に似合わぬただ広い空間、いや、その器に比例しないことを許されないのか、その空間は一方で不規則に見える書物や雑貨の配置のおかげで非常に狭く感じられる。物々からなる要塞の防御的側面を思わせられるほどの散乱加減の象徴とも見て取れる、書物からなる塔が決壊した。それに対して其奴は外見に似合わぬ女々しさ漂う行為を処すのだから非常な気味の悪さ、そして後先を考えていないようにみえる支離滅裂さ、これが其奴を称するにふさわしいであろう。
不器用を体現したような塔はいつの間にか再建され、その頂には『記憶』、まるで記憶をなす器官そのものを体現したようにも見える。この不器用な象徴とこれを取り巻く城壁は、一切の介入を許してくれないほどに器用に感じられる。
其奴は器用にできた城から抜け出しベッドに身を預ける。
これを以て其奴は其奴でなくなった。
彼女を取り除いた城は神聖な雰囲気を失い、いささか人間を思わせてくれる。彼女を放した反作用で崩れそうにも見えるその脆い城は、いつか真に崩れることがあるだろうか。いや、彼女が『記憶』を幻滅することでしか陥すことはできないだろう。人間は非常に脆いが、その脆さを支える芯を内に秘めていればその脆さは考えるに値しないのである。つまり、彼女が芯として其奴を以つ限り、城は崩れない。
彼女の色鮮やかで、しかし不透明な眼差しは同じく象徴に注がれている。その潤んだ瞳を舐め取っている無粋で滑稽な様は見るに堪えない。
欲に塗れた不格好な其奴を軽蔑する。
この他者の介入を許さない、いや、他者の存在を気にも留めない異様なこの空間、現にたった今開いた扉から差し込む緊張感を匂わせる光を、空間の象徴が特異点として働いているかの如く、その堂々たる気配を彼女に感じさせない。空間へと侵入した異物は襲いかかってくる城壁、今では小惑星の役割を担っているようにも見えるが、これを次々とかわしていく。その機動性を全く感じさせない、装者の心身を具現化したような純白の着物、これと対照的な幼稚さ或いは真摯さを表せそうな朱色の袴、を纏う異物は決して小惑星の軌道を見破るほどの運動性を持っていないように見える。これを助けているのはきっと無意識、つまり勘と言えるものだろうか。その身の在り様は惑星、特異点の中心に対して円運動する様にも見える。
異物は小惑星団を何とか抜け出し、そして彼女の引力に身を預けた。この旅の成功を当然のことのように思っているのか、終始表情を変えずにいた異物は、ベッドに吸い込まれている彼女を助けようともせず、むしろそのまま彼女とともに吸い込まれることを決心したのである。そして、異物の口は餌を待ち続ける魚の如く、開閉を繰り返している。そのまま、彼女の口に吸い込み、そして吸い込んだ。これを以て異物は異物でなくなった。
動物の営みを覗く趣味など持っていない、ここで消えるとしよう。
ここまで読んでつまらないと思った方々は多いはずである。前回の後書きに物語がはじまる、と書いてあったからと、我慢して読んだらこのざまだと思われた読者が多いことであろう。
逆に、少数派だと思われる、ここまでの私の文章を気に入ってしまった読者にはお伝えしなければならない悲報がある。残念ながら次回からまた雰囲気異なる描写がはじまるのだ。