『記憶』最終章
この物語はゴミ箱から拾ってきたものである。といっても出来ているのは一万文字程度であり、話の進展はあまりない。その約一万文字を五話分に分けて投稿するが、それ以降の物語についてはまだ考えていない。そもそも、筆者がこれを書いたのは数年前のことであり、この一万文字に紛れている伏線を筆者自身でさえ思い出してない状況である。結末もどうするのか忘れてしまった。
前置きはさておき、ここに記したものはご覧の通り難解である。理解する必要はないが、じっくり、立ち止まりながら、読み返しながら、時には休憩を挟みながらでもよし、是非読み通していただきたい。
『生を罪』と説いた奴は嘸かし変人だろう。並の人間が之を想い着く等、二十年を生きて来た俺にとつては、想像し難い。即ち其奴はすつぽんの様な脳を持つた俺たち人間とは比に為ら無い程の、其こそ月の様な濃密な味噌を持つていたのだろう。
其んな変人が之を機に、自身が磔られ、崇められるのを想像出来なかつた事も俺たちには同様に、想像し難い。然し其奴は生き還つたが故に神として転生したらしい。
抑々(そもそも)、神の脳味噌を測る事自体が無意味の様な気がし無いでも無いが、此処で重要なのは其奴が神として認識されている事では決して無い。重要なのは、素が人間、則ち脳味噌を測る意味を持つ者で在つた事だ。そして、神に成る為には生き還る必要が有る事だ。
其の元人間は何を、併せて何処迄考えて其の様に説いたのだろうか。之を答えられるのは其奴のみ、否、其奴自身も不可能かもしれ無い。之は其奴も俺達の仲間だつたか、或いは根本的に其奴の意識が確認出来無いからだ。之こそが無意味な問題だ。
若し月を以て神を獲たならば、更に之を持たざらば神を獲られ無いならば、俺は神に成れ無い。
逆に、其奴が月を授かつている事自体が幻想である、つまり其奴は根本からすつぽんで在つたならば、神に成るには其奴を真似れば良い。
若し千五百円にも満たない脳味噌、奇跡、併せて変人を以て神を獲たならば、俺は神に成り得る。
其の条件を既に二つ満たしている俺は、俺が其奴を変人とした様に、誰からか其の様にされる事で、俺が抱く神の像、即ち其奴を構成する要素を満たすのだ。然し其奴は勿論、すつぽん共の意識が確認出来ない以上、俺の意識が其の三要素を以て神と認める事を同様にしてすつぽん共の意識が俺を――特に変人である事を――認めるのを、認められない。
此の問題は変人が位置を表す事に依る。位置を表す事は比較に他成らない。即ち変人という称号は神の其れと同様に自身に依つて位置を与えられる物で無い。其れが為されたとしても、自身に依つて付与された位置を比較出来る物は他でも無い、自身に依つて付与された位置だけだ。
即ち、俺が其奴の様な神で在る為には、其等の称号を他人に与えられる必要十分が在る。
『生を罪』を捉えられたのは、当に俺が神へ至ろうとした時だ。称号を得るが為に他人に比較される事が、更に望む称号を得るが為に其れに似合つた行動を行う事が、必要だと思われた。然し、今と成つては之を真とは言え無いと強く捉える。抑々、之を認めることを無理で在る事は何度も言つて来た。
即ち『生を罪』に感激し、尚生きるすつぽん共は、其が故にすつぽんで在るのだが、之を間接的に否定する仮定をも建てられ無いのだ。
俺は当然、其奴は『生を罪』に自らすつぽんとして達した。達す事、之自体に意味が在る。即ち俺と其奴が他のすつぽん共とは違うという事だ。
其して其奴が『生を罪』の誤りを悟つて居る事を強く期待する。
其れは即ち、俺が神で在る事の証明材料へ成すが所以だ。
然し抑々、其奴が之等を認めた事を認められ無い。だが、俺は其奴の俺の勝手な妄想を真とし神を与え、此の妄想を包括して在る自分にも神を与える。
然し之は他からは同様では無い。意識を覗く事は当然、確認する事は出来無い。口依り出る言葉に意識の存在を肯定する要素など皆無な事は自明だ。
然し俺は神に成りたい。其奴の様に崇められる必要は無い、単純に神を与えられたいのだ。他人の意識を知る事で俺の称号を知る事が出来る。因つて、他人の意識を知る事を模索する事にした。俺が神で在る事を確認する為にだ。
他人なら誰でも良い訳で無い。俺を神と称したい、否、称させたい対象の意識が認めるのを、認める必要が有る。其れを以て、俺に神を与えられた意味と意義が達成される。
今日は其奴の生誕祭、万人が其奴に神を与えて居る。其奴は自ら万人の神に成る事を選んだのだろうか、単成る偶然だろうか。どちらでも、此世に神を示し、万人、特にある対象に其奴の存在を認識させたのは感謝に値する。
この文章は数年前の私が書いたエッセイをもとにしたものである。(ここでいう私とは、これからはじまる物語には一切関係のない私自身、すなわち筆者である。先に断っておくが、この作品の外の世界には筆者が神として君臨していて……、などと、メタフィクショナルな物語を書くつもりは一切ない。)黒歴史ノートに収められていたエッセイを、作品の最初に呼び起こしたのは、私が神を語るうえでは欠かせない思索の跡を、他人と共有するためである。(ここでいう他人とは、読者はもちろんのこと、物語中で偶然全く同じ文章を書いてしまった人物でもある。)
さて、次回からは物語がはじまります。