ヤンデルタイル
売り物件の看板には、あの言葉は書いてない。
ここまでの運転手も兼ねてくれた不動産屋さんの云ってくれたように【若い新婚さんたちにピッタリ】、そんな言葉を探す私を、あなたは白くて長い首を向けて顧みてくれる。バカだなぁと語る瞳がまた私をとろけさせるんだよ?
あなたの手に光る指輪が私とペアだと云うのは何かの嘘。私の子供みたいな手に添えられたアルミニウムの丸めものとあなたの白く長い手に燦然と輝くプラチナリング。その差が持ち主の差だと云うのは驚くほど簡単な落とし処で。
不動産屋さんが設備の説明をしてくれるが、私が雛鳥が餌にするように意味を反芻している間に、あなたは疑問を確認するの。開けてみて良いか、中は新しい部品に換えてあるのか。巣の外では生きられない私と違う、あなたは大きな翼の渡り鳥。どこへだって飛んでいけるんだものね。
リフォーム済みの台所は私の低い背でも使えそう。浴室を覗けばあなたも足を伸ばせる大きなバスタブ。ふたりでも入れそうだけど、それならもっと小さな方が良いのにと、はしたないことばかり考える頭をあなたの言葉はいつも一掃してくれる。
「カワイイね」
あなたの呟きが私のことだと錯覚するのはあなたがベッドでその言葉を汗と一緒に私の肌に摩り込むからだもの。
そんなところで笑顔の向こう新品タイルが鏡と一緒に私に笑う。カワイイのは白い私のサクラ柄。そんな風に。私以外に彼にカワイイと呼ばれたタイルに釈然としないものを覚えながらも、私はいつものように相槌を打つ。
けれども、私はあなたが居ればどこでどんな雷雨でも耐えられるし、あなたが帰る巣ならタイルも鏡も私が毎日磨いて清めてあげる。あなたの体を洗うところが汚れているなんて、そんなの考えられないから。
いつから恋が始まってたかを運命だなんて云ったら、どこか変になったかって心配掛けちゃうかな?
でも仕方ないよね、私とあなたが結ばれるのは物が下に落ちるのと同じくらい自然なこと。恋は愛の重力に惹かれて落ちていくことを云うんだもの。
友達からは美人だって云われて、私と付き合いたいていう男の子も何人か居たけど、断ったに決まってるでしょ? 他の人はあなたじゃないもの。
私とあなたの出会いはいつ? 私は覚えてるよ、忘れられるわけ無いよ。
私が大学二年の春、あなたは私が四時間シフトで入っていたコンビニでジュースとタバコを買ったよね。
声が小さいと店長に注意される私よりハッキリした声でありがとうと云ってくれたあなたが四日後にまた来店したとき、まだレシートを手渡したときの温もりを覚えていたもの。
私が陳列した商品にあなたが触る。あなたが買おうかと視線を振り掛けた商品が他の客を通じてレジを打つ私に手渡される。
そして、私がいつもの五番のタバコをカウンターに置いてあなたの服のシワを数えに戻ったとき、あの言葉。
「カワイイね」
レジ越しでのあなたの言葉は甘すぎて危険すぎるの。頭の中にスルリと流れ込んで私を微睡ませる封印めいた福音。
「このバレンタインのポップ、すごいカワイイよね」
あなたの付け加えた言葉に、私の心と体は浮かれるという意味を知り、空の斥力に弾かれて大地に足が付いた。
そんなわけもない、ポップは正社員さんの深夜業務時の内職だもの。
私はただ違いますよと返し、茶色のレジ袋を出しかけた。違う、暖かいものがないんだから、白い中くらいの袋だ。
「カワイイポップだから、カワイらしいキミが作ったと思ったよ」
一度、浮いた心がまた飛び上がり、制御できなくなった。何かを口走っていた。
「喜んで。なら、五時にこの店の前に向かえに来るよ」
バイトの終わり時間を伝えたんだと推理ができたのは、彼がお釣りを盲導犬募金箱に入れて自動ドアが閉まり、彼の後ろ姿を見送ってからだった。
バイト終わりまでの長すぎる三時間十二分は、あなたに出会う前の全ての人生より長くて。
息がしたいと溺れてもがいた後、あなたの姿が戻ってきてくれたとき、海原はその役割を果たした。全ての海とそこから生まれたものは私とあなたが出会うためだったんだもの。
初めてのデートで行ったところはあなたの膝の上。そこで交わした初めてのキス、その先の初めてををあなたは受け取ってくれた。
私はあなたに出来る限りのキレイな私を捧げたけど、あなたは私を歓ばせるためにしたくもない他の女で練習してきてくれたんだね。優しいあなたらしい。辛かったよね。
でも大丈夫だから。私があなたの全身を磨くから。他の女が触って嗅いで見て感じて、あなたの身体中に付いてる他の女の名残を全部私が引き受けるから。
あなたもそれが気持ち良いんだもんね。あなたのことは全部わかるよ。
本当の愛ある繋がりはこれが初めてだもん。清らかなあなたと澄んだ私は、ふたりの神話にとって最初のアダムで最後のイヴ。
そこで私は大事なことに気が付いた。私はアダムの名前を知らず、アダムはイヴの名前をコンビニの写りの悪い写真の名札でしか知らない。そう告げるとあなたはこの世界で一番輝いている名前を教えてくれた。私の名前もあなたにとってそうだよね。
あなたが私の名前を呼んだとき、高鳴った私の心臓はさっきまでの疲れを忘れた。もう一度、あなたを愛するために。
あなたは女を全部忘れるまで、離してあげない。
私の大学卒業に合わせたようなあなたの昇進。あなたは今しかないと思ったと云うけれど、私にすれば私で良いのかと疑問符で。あなたは素晴らしい人だけど運命だものね。やっぱりやめたと云われるのが怖くて訊けないけど。
私たちは土曜日に新居を見に来たけれど私以上に私のことを知っているあなたへ返事はハイかウンだけだよね。
カワイイタイルの貼られたお風呂の平屋は、二週間後には私とあなたの自宅になった。
あなたは肉より魚が好き。だから魚料理を勉強したけど、お肉も食べなきゃ元気でないよ。
あなたが美味しいって云ってくれるのは何より幸せ。あなたが私の旦那様で私はあなたの奥様。世界中のどんな夫婦より幸せなふたりよね。
唐揚げは片栗粉が多めの方が好きなんだよね。今日も唇を通った私の料理があなたの豊かな歯茎に支えられた白いダイヤに出会う度にあなたは私の料理を噛みしめて、私の心は幸せに占められるの。
最初は左側に行った唐揚げ、二回か三回噛んでから真ん中に置いて左右へ広げて、ビールを足すか、そのまま飲み込む……たまに固いところだと左で噛む回数が増えるのも知ってる。愛するあなたのことはなんでも知ってる。当たり前だよ。
食事のあとは、一緒にお風呂に入る。私が服を脱がすのも受け入れてくれたもんね。
白いタイルの中、あなたの広い背中を流すのは大変だもの。背中の黒子は八個、全部に名前を付けてるけど、あなたにだって教えない。あなたも知らない私とお風呂場のタイルだけの秘密。
私はあなたの家であなたの食事を作りあなたのためにお風呂を沸かし、あなたのモノになる。
広いお風呂場でも好きだけど、やっぱり愛はベッドが良い。あなたがカワイイと呼ぶのは私だけが良い。タイルにはあなたのあの姿を見せてあげないんだ。
ベッドの中、耳元で、胸の下で。あなたが私をカワイイと囁くほど私の肌は白いタイル貼りになった。私はあなたの床で壁。タイルの溝を水滴が伝いあなたを暖める。出しっぱなしのシャワーが冷たくなるまで。
あなたはいつも私に似た女の子が欲しいとタイルに呟いた。タイルはあなたに似た男の子をとウソを吐く。
この浴室はあなたを濡らすための部屋、他の誰の垢も付けたくないんだとカランを捻るあなたには云わないね。
子供みたいな不純物は要らない。私とあなたはそれで完成していて、子供なんか邪魔なだけだもんね。
永遠の幸せを何年か続けた頃、不思議な匂いがあなたに付く日が増えて、あなたは私に入ることが減ってきた。この匂いは嫌い、落としても落としてもどこかで付いてくる。
あなたの匂いじゃない匂い、どこで付けてくるの? 冒険したいの? 仕方ないよね、あなたも男の子だもんね。檜のようにくすぐったいけど香る、私とは違う匂い。
そんなある日、お風呂場のタイルが割れた。欠かさず研いてカビひとつなかったタイルは、音もなくサクラの柄が外れるように。欠かさず磨き続けて減ってしまったのね。手入れをしても時は過ぎるもの。ただ、あなたがタイルをカワイイと呼ばなくなったことだけを焦燥と呼んで。
あなたは変わらず素敵なのに私はタイルのヒビが多くなっていく。カワイイ柄の落ちたお風呂場はみすぼらしい?
あなたが通う銭湯、私も行ってみたらお金は要らないと云うの。とっても素敵な檜風呂なのに。
小さい子はお母さんと一緒に入れるんだよね。あなたにちょっとだけ似た男の子、湯冷めしちゃったのかな。私、檜風呂も埋めちゃったから。暖かいお風呂は埋めると冷たくなるものね。
あなた、お風呂場で寝ちゃダメよ。白いタイル、あなたのアカがよく見える。