壁の向こう
白いスーツを着た男性だった。
いたるところに動物をあしらったスーツはしかし、妙に調和していたが、どこかくたびれた雰囲気があった。そして具体的にどこかとはいえないが、その一方で生活感は無いのには、なんとも不気味でもあり、奇妙で、不思議だった。
「ようこそ、XXさん、世界移転ゲート、ターミナルロビーへ」
まるでゲームのNPCのように、まったく同じ言葉を繰り返して、彼は立ち上がった。
スーツの胸ポケットから、金色の万年筆のクリップがひらりと光り、ふわりとラベンダーのにおいが香った気がした。
「えっと・・・それで・・・その・・・え・・・」
私は困惑した。
一体全体何がどうなっているんだろう。これは疲れ果てた中年が見る幻なのかそれとも・・・それともなんなのだというのだろうか。いずれにせよ、少なくとも私にはこの状態に対して何もできないように思えた。
相変わらずがらんどうな部屋だ。
真っ白な四角には、明かりなど見当たらないのに明るくって、それなのにまぶしさをあまり感じさせない。そんななか白いスーツを着たおっさんは、なんともいえない表情で立っていた。
白い服と白い部屋が溶け合って、ともすれば見えなくなってしまいそうなのに、私は彼をはっきりと、それはもうはっきりと見えている。
「初めての方は、本当に珍しいのですよ。」
朗として響く声はしかし、聞きなれたような気もした。
「とはいえ、本当の意味で初めての方は存在しませんがね」
口角をわずかに吊り上げて、彼はそういって私のほうへ歩みだした。
「あなたの初旅の担当者、グレックです。Gとでもお呼びください」
いよいよ本当にわけが分からなくなった。ゆっくりと恐ろしさがみぞおちから小さな顔をのぞかせ、瞬く間に私の首元まで駆け上ってきた。今すぐにでも叫びだしそうで、後ろへ駆け出しそうになったのを思いとどめたのは、十数年来の社会人としての常識という名の束縛と、わずかな好奇心という名の小さなえさだった。
しかし口の中は乾いていく。首元の筋肉がかっちりと石のように固まって、舌の根っこにはセメントが生えたようだった。いくらでも聞きたいことがあるのになぜか動けない。小学生のときに思いがけず、授業中に先生に朗読の続きを読むよう言われるが、ボーとしていたためどこから読めばいいのか分からなくなったことを、そんな本当にくだらなくって自分でも忘れてしまっていたことをなぜか思い出した。
まあ、現実逃避だな。
もっとももはや現実ってなんだか分からなくなった。
蝋人形のように固まってしまった私とは裏腹に、グレックと名乗った彼は実にゆったりとした歩調で、私の三歩前に歩み出た。
金色のメガネに、白いスーツ、ロマンスグレーの髪は品よくまとまっているのに、疲れのせいか何本もの枝毛がメガネの足の外に飛び出していた。白いスーツのいたるところには何かの動物が描かれているような気がするが、色が淡すぎてそこにいるのかいないのかが正直よくわからない。
胸ポケットには、どう見ても高そうな万年筆がクリップを覗かせていた。そして座っていたときには分からなかったが、ズボンも白く、スーツとまったく同じ柄だった。グレーのネクタイをゆるく締めて、ニビ色のネクタイピンがついていた。ラベンダーの香がちょっとだけ強くなった。
ふと息が苦しくなったことに気づいて、そして自分の呼吸が止まったことに気づいた。あわてて息を吸い込んだのとともに、私は深呼吸をした。
そしてたっぷりと5呼吸の間、彼は私の前にただただ、静かにたたずんでくれた。
「っ・・・はじめまして、XXです」
すっと鼻で息を吸い込み、建材のような喉をどうにか腹筋の力でこじ開けた。
「はじめまして、グレッグです。
落ち着かれたようで、一安心いたしました。」
彼はそういって、おもむろに左手で右手の白い手袋をはずし、右手を差し出した。
戸惑いずつも、私は彼と握手した。
その手の感触はなぜかどうしても思い出せないが、しかし確かに彼は微笑んでいたので、これで正解だったとほっとしたものであった。
「それで、えーと・・・グレック、さん?ここはいったい・・・?」
「世界移転ゲート、ターミナルロビー。そして私があなたの案内人、グレッグでございます。」
微笑みながらグレッグは、その朗とした声で、あいも変わらずわけの分からないことを言っていた。
「とはいえ、言葉ではご不明なところも多いでしょうから、こちらへいらしてください。」
そういって彼は、まさに私を案内するかのように、ゆったりと机を横切り、その向こうへ踏み出した。
そうして彼についていった。大きな部屋ではあったが、それでも10歩もすると、壁に突き当たる。そして当然のように、ここにもわずかながら黒い線があり、グレッグがその線をやさしくなぞると、人二人分のドアの形に、壁が消失した。
最初に感じたのは草のにおいだった。
わずかな風がほほをなでいき、やがてはサクラのにおいが混じっているのが分かった。
そこには草原が広がっていた。
太陽が誰かにそうしろとでも命令されたかのように、春の休日の昼下がりのような、暖かな顔をしてまどろんでいた。
遠くには、巨大なサクラの木に、花と葉が同時に枝を飾っていた。
かすかに聞こえる弦楽器が奏でるのは、これもまたそのまんま、ヴィヴァルディの「春」。
「ようこそ、春の間へ」
ゆっくりと目が慣れてきた頃に、私はグレックにまた質問をしようとして、不気味な光景に凍りついた。
「ここが皆様がお通りする、最初でもっとも多くの人々がいる移転世界ターミナル、春の間です」
遠くのサクラの木の周りには、無数のロッキングチェアーが前後左右に並んでいた。その一つ一つに人が座っていた。
皆が一様に、だらしの無い気持ち悪い笑みを浮かべながら、ゆらゆらとゆれている。