2
私は森の中を歩いていた。
森の中を彷徨っていた。
気がついたら歩いていて、どこからどこへ向かっているかは分からないけど、とりあえず歩いていた。
気がついたからには現状を把握しようと思った。
現状を知るためにはその過程を思い出すことが大切だね、と思った。
……うまく思い出せない。
私の名前は思い出せる。
故郷も、家族も思い出せる。
仕事も、好きだった人も思い出せる。
だけど、なぜ私がここにいるかということが思い出せない。
まるで、鋭利な刃物で一部の記憶をすっぱり切り取られてしまったように。
思い出せないものはしかたがない。
たぶん、それほど重要なことじゃないんだろうと諦めて、私の身体を見下ろしてみる。
靴がなくなって飛び散った泥をくっつけ素足で歩いている。
高かったブーツなのになくなって残念だ。
せっかくあの人に買ってもらったのに。
……あの人って誰だろう?
なんとなく姿を思い浮かべることができるが、想像の中のあの人の顔が霞みがかって思い出せない。
強くて、優しくて、背中を任せたこともあったような気がするけど……。
まあ、思い出せないものはしかたがない。
ブーツを履いてないことで気がついた。
私はズボンも履いていなかった。
なぜそんな状態で歩いているのだろう?
疑問に思うが、しかし不思議と恥ずかしくはなかった。
おそらく、周りに人がいないからだろう。
腰に襤褸のような腰巻きと愛剣である刺突剣をかけているだけでは街の中は歩けないなと思った。
苦笑しようとしたが、頬が引きつっているのか顔の筋肉の感じがない。
喉から空気が漏れるような音がするだけで終わってしまった。
しかたがない。
今はなぜか寒さを感じないが、この森は日中であろうとかなり冷える。
寒さで頬が悴んでしまったんだなと頬をほぐす為に手を上げる。
……?
なんだか自分の腕とは違うような気がする。
反応が、鈍い。
だるさは感じられないが、鍛錬で木剣の素振りを朝から晩までしたかのように鈍い。
それに、異常に白い気がする。
私の肌は白い方だったが、こんなに……まるで死体のように白くはなかった。
後ろにまとめていた背まである金髪が、なぜか解かれている。
赤黒いものがこびり付き、ともすれば白髪にも見えるソレに穢らわしい髪留めを飾り立てている。
爪も、手入れはしてはいなかったが剥がれているなんてことは――
左腕を見る。
白い肌から割れたように赤が目に入り、その下の白が露出している。
胸を見る。
金属でできていたはずの胸当てが切り裂かれ、右肩から左の脇腹まで線が引かれていた。
下に着ていたチェインメイルも、みすぼらしくボロボロになっている。
足を、再び見る。
泥かと思ったものは、血だった。
かさぶたのように固まったそれが、足にまとわり、こびり付いていた。
絶叫した。
獣のように絶叫した。
しかし、喉から空気が漏れたような音をさせ間抜けな声を出すだけで、胸に湧き上がる黒いものを吐き出すことはできなかった。
泣きたかった。
しかし、涙は出なかった。
パニックになるが、まるで微睡んでいるかのようにそれも長続きしない。
わけがわからないが、なぜか私がアンデッドになってしまったというのが、ストンと理解できた。
街へは戻れない。
戻れば、私は討伐されてしまうだろう。
今まで私がしてきたように。
――そう、私は騎士だった。
民を守り、街を守り、主を守る騎士だった。
しかし、魔物の討伐を言い渡され仲間と共にこの森に足を踏み入れて……。
思い出せない。
きっかけがあれば思い出せるかもしれないけど、今は無理だ。
剣の扱い方や書類の書き方は覚えているが、人の顔は忘れてしまった。
さっきまで家族の顔を覚えていたはずだったが、今はもうあやふやになってしまった。
これからどうしようかと考える。
街にも、故郷である村にも戻れない。
となると、せめて騎士の矜持として依頼の魔物を打倒して、人知れぬ森へと沈もうかと思う。
魔物……。
姿形の詳細は教えられていなかったが、おそらくひと目でわかるほどの異形のものなのだろう。
この森のどこかにいるらしいので、遭遇するまでひたすら歩くことにする。
……気がついてからしてることと変わりがないじゃないか。
他にもなにか私ができることがあるのではと考えてみるが思いつかない。
剣は研いでおきたいが、手ぶらなので砥石がない。
死んでいるのでお腹が空かず、疲れもしないのでいつまでも歩いていられそうだ。
深く考えようとすれば頭の中に霧がかかりうまく考え事ができない。
生前は頭が良くて色々考えられてたんだけどなあ。
――多分。
と益体もないことを泡が生まれ消えるように次々と頭に浮かぶが、ふとそんな思考をと切らせる物音が聞こえる。
狼の遠吠えだ。
狼は夜行性なのになぜ?
と疑問に思うがすぐにその疑問は解決された。
くだらないことを考えているうちに夜になっていたのだ。
後悔していても仕方ない。
この身体から漂う血の匂いは否が応でも狼を引き寄せてしまうだろう。
なのでここは、おとなしく――迎撃することにする。
どうせ逃げてもすぐに追いつかれるだろう。
腰から血の穢れが付いたままであった愛剣を抜くと、水を探し当てる金属の棒のように剣先を揺らしながら、私へと近づく足音へと向ける。
来る。
木々の合間を縫うようにして影が幾つか向かってきた。
その間隔はバラバラで、疑問に感じて首を傾げるも、余計なことを考えるほど彼我の距離に余裕があるわけでもなし、取り敢えず一直線に向かってきた狼の鼻面に揺らめいていた剣先を置く。
刺さった。
右の鼻の穴を抉って、骨を滑るようにして弾力のある眼球に入り、その奥の脂肪の塊のように手応えのないモノを貫通したと思うと、カツンと硬い手応えでもって行き止まりを宣告されたので、素直に引き抜く。
引き抜く際に、剣先を傾けて脂肪の塊をグチャグチャにかき混ぜておくことも忘れない。
こうしておかないと、稀にだがそのまま襲ってくる獣もいるのだ。
剣にまとわりつく血と脳漿を振り払うと、次に飛びかかってくる狼の喉を切り裂いて半歩横にズレる。
その場に立ったままだと飛びかかってくる勢いのまま押し倒されてしまうからだ。
残りの――2匹の狼は、私を睨んだかと思うと走ってきた方へ頭を向けてなにかを確認すると、そのままどこかへ行ってしまった。
その様子は、本来群れで狩りをするはずの狼が統率が取れていないままに襲ってきたことと合わせて、何かから逃げてきていたかのように感じた。
なんだろうと不思議に思うが、考えてもわからないので考えるのをやめた。
それよりも、喉を切り裂いた狼が苦しそうだったので、地面に這いつくばっているそれの心臓を一突きして楽にしてあげた。
私はやさしいから。
剣はまだ血に濡れているけど、拭くための布がないのでそのままにする。
あんまりこのままにしておくのは良くないけど、しかたがない。
錆びてしまいそうで残念だったけど、鞘にしまえないのでこのまま手に持ったままにしておくことにする。
いや、近くの木の皮に擦りつけて拭おう。
ぐしぐしする。
うん、なんとなくマシになったような気がする。
そうだ。
狼の毛皮を使わせてもらおうと、ひらめく。
私って天才なのではと自画自賛しながら拭き始める。
ゴワゴワしていてあまりいい毛の質ではなかったが、拭く。
一心不乱に拭いて、拭いて、拭く。
丁寧に脂の汚れを拭っていく。
――ん?
夢中になって自慢の愛剣を綺麗にしていると、狼とは違うなにかが聞こえる。
なんだろう。
なにかが近づいてくる。
這いずり回って近づいてくるような……。
獣ではない、なにか。
目を、向ける。
見ても、よくわからなかった。
月明かりに照らされていても黒いそれは、光によりテカっていて、少しだけ綺麗だと思った。
ソレは狼の死体に覆いかぶさると、ぐにぐにと蠢いて跡形もなく消し去ってしまった。
食べたのだろう。
なんとなく分かった。
呆然としている中、さらに近づいてきてさっきまで剣を拭いていたほうの死体にも覆いかぶさり、同じように食べてしまう。
手を、伸ばしてきた。
いや、手かはわからないが体の一部を伸ばして手に触れてくる。
思わずビクッと反応してしてしまうと、ソレもビクッと反応して引っ込む。
か わ い い
何を思ったのか、撫でてみることにする。
もう私は死んでいるのだし、行動に躊躇が無くなっているのだろう。
大胆だなと私は私に思いつつ、手を伸ばす。
ソレの表面に触れてみると、たぽたぽした感触がする。
撫でてみると、水の中に指先を差し入れたように波紋を描きながらすんなりといった。
手のひらを見る。
濡れていない。
水よりも不純で重く、ふるふるしているソレが、不意に音を出す。
「ティケリ・リ、テケァリ・リゥ」
?
よくわからない。
そんな出会い。