性
まず最初に作法ありき、と美和子は云った。それから数十分にわたって、作法こそが人物の人となりを見極めるための重要なファクターであり、特に食事におけるそれはその最たるものである、といった事を滔々として述べた。省吾は酒を飲むふりをしながらも、その言葉にじっと耳を傾けていた。
彼らの横を酔った若者たちが騒がしく通り過ぎたときこそ美和子は目を伏せ口をつぐんだが、彼らが会計を済ませ、誰にも彼女の小さな演説を聞かれる心配がないとわかると、また滑らかに口を動かした。なんて他人の悪意に敏感な女であることだろう、そう思った省吾はふと彼女の目の前にあったマティーニが減っているのを見つけて、苦笑した。
――美和子の口数がこんなにも多い日は珍しい、あたかも興味を惹かれているような顔をする一方で、省吾はそんなふうにも考えていた。彼が口にグラスを運んでも、美和子は自分の前に置かれたグラスに口につける素振りすら見せない。美和子と知り合って十一年になるが、彼女がこんなにも饒舌に語る姿を見るのは初めてだった。
演説を終えると美和子は省吾を見つめた。省吾もまた彼女を見つめ返すと、美和子は小さく笑い、静かに煙草に火をつけ、まるで初めて呼吸をするかのようなぎこちなさをもって、ゆっくりと煙を吐き出した。
美和子の表情には一滴の憂いすら映らないが、その内にただならぬ思いを抱えていることに、省吾は気付いていた。その右手の火先が微かに揺れ動いているのは決して酔いのせいではない、彼はそう確信していた。
実は省吾は店に入る前、待ち合わせ場所でたたずむ彼女の背中を見つけた時点で、彼女の心の揺らぎを見抜いていた。省吾が目敏く美和子の仮面に気が付くことが出来たのは、やはり美和子のことを愛しているゆえに違いない。元来快活な気質でない美和子が、わざと平然を装うことで、逆説的に彼女の抱く憂い、太陽を仰ぎ見る事さえ出来ぬほどに深い海に棲む、孤独な魚の抱くようなそれを省吾に連想させたのはいささか皮肉的であるとも云えるだろう。
「あのさ……」
何かを言いかけたまま、省吾は言葉を濁す。
「……どうしたの?」
美和子は左手に半分ほど燃え尽きた煙草を持ち、右手にマティーニのグラスを掲げながら、耐えるような面持ちで問い返した。
彼女を慰めようとした省吾は、すんでのところで口をつぐむ。
『――でも、まさか』。頭の中で意地の悪い声が囁かれる。『美和子がお前にだけ解るような何らかの合図を投げかけるなんてことが、あるものか。仮にあったとしても――いや仮定の話にすら、あるまいよ。それはお前が一番よく知っているはずなのだから。あの、あの美和子がお前を特別扱いするはずがない。お前は気付かぬ内に、あまりにもお前自身を買い被りすぎていたではないか?』。長い間熟成させた美和子への愛情が省吾の口から言葉を奪い去ってしまったのもまた、皮肉である。
グラスの中の氷が溶けて一口ほど残されたマティーニが静かに薄まる。省吾は美和子の細い指がマドラーに絡まり、静かに楕円を描く様をぼんやりと眺めながら、彼女の真意を探ろうと思案を巡らせていた。思案を巡らせる、というのも彼を慮った表現であるかもしれない。彼は言葉の裏側を読み取ろうとする傍らで、過去の自らの行為において不手際があったかどうかを考えていたのだから。
突然の呼び出し、しかも半年ぶりの再会だというのに、美和子は何故こんな話をしたのだろうか。婉曲的な言い方を好む美和子の事である。いつかの俺の振る舞いに対して、これまた婉曲的に責め苛んでいるのではないだろうか。作法、作法とはなんだろう。テーブルマナーのような、わかりやすい作法のことではあるまいよ。もっと別の、彼女の中で大事な何かを婉曲的に表現しているに違いない……。
省吾は酒を舐めるふりをしながら考えるも、身に覚えのないことゆえにまるで見当がつかなかった。
『俺は美和子のために手を尽くして気の利いた話を用意してきたつもりだったし、酒が進む前までは、それらを肴にして華々しい会話を咲かせていた。腹を割った話などするつもりは毛程もなかった。むしろ半年という時間の隔たりが薄めたであろう俺への好感度をどのようにして回復するか、という一点のみに心を砕いていた。そんな俺の何処に、いったい何処に、不手際があったというのだろう?』。……思考の果てで自省のみが生まれて消える。前提ともいうべき心構えや先入観が妨げとなっていることに、気付くことすら出来ぬままに。
美和子は窓に目をやった。静かに降り注ぐ雨は、暗闇の中に紛れ、少し窓から離れたところに見える濡れそぼった葉叢に、僅かな水滴を垂らすことでのみその存在を主張していた。屋根を伝う水滴が紡がれる糸のように細く、また絶える事無く流れ落ちる様は、省吾の知るところなく、彼女の眼前に不思議な二重の世界を描いていた。ガラスの上に、背後から灯る微かな光によって、美和子の顔が半透明に浮かび上がる。糸のような小さな滝を、ちょうど瞳の部分に当たるように顔を動かしてみると、まるで自身が泣いているようにさえ見え、美和子は顔を曇らせた。『万物が逆らうことの出来ない大きなものがあって、その前では私もこの水滴もきっと同じように見えるのだわ』。そんな突発的な、宗教めいた考えが彼女の頭を掠める。
『もし酔いに任せて省吾に体を委ねたとしたら……』。葉叢に覆いかぶさるようにして覗く枝の先に彼女は紅の実房を見つける。『この焦燥も少しは薄まってくれるのだろうか?』。暗い二の腕が色濃く翳を落とすも、実房は艶めかしく濡れてはっきりと見える。雨が脚を強め、二の腕がまるで大きな蛇の腹のように見えた頃にはもう、美和子は窓に映る自分の顔が泣いていることを忘れていた。
ふいに風が大きく喘ぐと、涙は身を震わせ、飛散した。散り開いたそれが室内から差す光によって驚くような反射を見せたとき、美和子の目には遠くの葉叢の揺れ動く様がひどく男性的――まるで船上の情事における野性的な指の動きのような――に映り、複雑な感情が彼女の心から湧き出でた。
美和子には『男とは可愛いものだ』といった母性的な考えを良しとするきらいがあった。しかしその感情は母性とは一線を画す、別の何かであった。一定の距離感を保った上で、自らが観測者としての立ち位置を保持出来る場合に限り発揮される美和子のそれは、あくまで母性的な感情、ともすれば一種のサディズムに袂を委ねていると云ってもいい。美和子の抱く母性的な何かは、男性に対する慈愛を含むという点でのみしか、母性という感情と重なってはいない。
美和子は、このように真なる母性と解離した部分を、自身が持ち合わせてしまっているということに、気付いてはいなかった。彼女は自身の持つ母性的な感情を母性だと信じていたし、またそれが自身のコケットリーな一面であるとさえ思っていたのだった。
しかし美和子は自らの心情に対して明哲であると信じていた。ゆえに内に拭い去ることの出来ない違和感があることを、彼女は承知していた。
そんな美和子の鼻に、窓の隙間から微妙な苔の匂いが衝いたとき、先ほど頭をよぎった「男性の指」が急に生暖かく、まるで目の前に実態を持ち現れたかのように思え、彼女は少しだけ顔をしかめた。
『これだ』。臭いは窓を揺らして喘ぐ。『この違和感を呼び起こす何かは、あたしの無意識の何処に働きかけているのだろう?』
美和子は遠くを見るようにして、じっと考え込んでいる省吾の方へ目を戻す。
『省吾』。目の前のバツの悪い顔をして座っている男は、答えるように美和子を見た。
『省吾、あなたにはわからないでしょうね。今日あたしがどういう思いであなたの誘いに乗ったのか、あなたにはきっとわからないでしょうね』
省吾はただ、美和子の仕草を眺めていた。美和子と目が合った時は少しばかりの気後れを見せたが、彼は良い意味でも悪い意味でも純朴な青年であった。美和子の滑らかな白い肌を飽きることなく眺めることを好み、彫刻のような鼻筋を崇拝にも近い形で愛していた。一方で、女性のギリシャ彫刻のような顔を好まない男性は数多いことや、それが形としての美には程遠いことを彼は承知していた。古今東西問うことなく、女性的な美は豊饒に例えられるほどに多少の肉付きが必要とされていることは云うまでもない。しかし省吾は青年特有のナルシズムによって美和子を解釈し、等身大以上に彼女を愛していた。俗な言い方を用いるならば、省吾は自分の女性の好みが少しだけ「変わっている」ことを十分に知っていたのだ。
また『叶わぬ片思いだったとしても自分にとってそれは些末な問題でしかない』と彼は考えていた。省吾は「愛し続けている」ことだけを至上の目的としているのであって、「愛される」ことを望んではいないのだった。それゆえに美和子の体には爪先ですら触れたことはなく、また美和子は彼を信用していた。
省吾の一見真摯にも見える姿勢は、美和子からしてみれば非常に面白くない奉仕の形でもあるということに、読者はお気付きになるだろうか。また省吾のような愛し方は非常に紳士的である一方、暴力的ですらあるということにも、お気付きになられるだろうか。省吾は無意識下で、愛されることを要求しない代わりに、愛し続けている権利を美和子に強要しているのだから。
しかしその女性が最も苦手する愛し方を、最も愛する女性に用いる省吾を愚鈍と断ずることに、作者は異論を呈さなければなるまい。むしろ彼はドンファンですらあると云えるだろう。何故か? 作者はその理由として、男性的な愛情を肌で感じ取ることの出来る女性は数多くとも、省吾の用いるような粘ついた愛情というものに対して抗することの出来る女性は少ないという点を挙げよう。極端に云ってしまえば、省吾は美和子の持つ良心につけ込んでいるのだ。良心の名は母性である。美和子の持つ、彼女の知覚しえない母性である。
彼らのような関係を長引かせることで、女性はいつしか心理的な側面において屈服させられ、絡め捕られていることに気付くことすら出来なくなる。女性がどんな無意識下の嫌悪を用いて抗うも、そこに気の長い時の作用が加わってしまえばそれも貧することは云うまでもないことだが、むしろ倒錯した日々の中で、むしろ女性が『私が男性を支配している』といった錯覚に陥ってしまうことが、この方法の中で最も性質の悪い点だといえるだろう。ましてやそれが傍目には少年のように無垢な愛情として、女性の目に映るように微妙に誂えられた手法として用いられるに至っては。これらは男性的なエゴイズムを異性に要求する、最も理に叶った方法であると作者は感ずる。
彼らの他に客もなく、水を打ったように静かな深夜のバーには微かに聞こえる程度のジャズが流れ、時折跳ねるようなピアノソロが雨音に溶けて消えた。初老のマスターが空のグラスに目配せをしているのに気付いた省吾は手を挙げて彼をテーブルに呼び、美和子に酒を勧めた。彼女は決めていたかのようにオーヴェルニュを注文し、次いで省吾がトム・アンド・ジェリーといった、有名なアニメの名を冠したカクテルの名を口にすると、美和子は小さく笑いながら「小洒落たあたしと子供のあなたじゃいつまでたっても付き合うことなんて出来ないわね」と省吾をからかった。彼は「いつでも童心を忘れないことが、楽しく生きる秘訣なんだよ。君は長生きしそうだからな、君が死ぬまでは生きていなくちゃ」と嘯き、美和子の目が更にほころぶのを認めて、内心嬉しくなった。
「さっきの話の続きだけど」
酒が届いてから、省吾は云った。
「どうしてまず最初に作法ありき、なんだい?」
マドラーを細い指先で弄んでいた美和子は目を伏せて、
「どうしてって言われてもねえ……」
と答えた。省吾が続けて小さな声で、
「作法とはテーブルマナーの類かい?」と訊くも歯切れの良い返事はない。
彼が少し熱っぽく、
「例えば俺は育ちの悪さもあってか、君ほど食事のマナーを知っているわけじゃない。別段、知ろうとも思わなかったしね。でもそれは君がさっきみたいなことを口にする前までの話だ。君が重要視していることは俺も重要視したいと思うんだよ。……なあ、何か別のことを伝えたかったんじゃないのか?」
美和子はしっかりと省吾を見据えて、
「あなたには決してわからないわ」――と断定的に云った。
芳しからぬ美和子の決意に触れた気がした省吾は慄きながら「なぜ?」と返すも、
「……そうね、例えばここで訳を云わずに別れたとするでしょう? そうしたらあなた、きっとあれこれと思案を巡らせるに違いないわ。それで心理学の本でも引っ張ってきて『人間の三大欲の中で最も人目につく食におけるマナーを重要視しているのは、彼女が睡眠や性に関して淡泊であることの逆の表れなのかもしれない』なんて、思うでしょう?――それじゃ、駄目なのよ」
「……それは確かにあるかもしれない。でも、」
「でもじゃないのよ、だってこれはもっと感覚的な問題なんですもの。それにあなたはほら、毒を囁くのがお上手じゃない。調教師のようにあたしに愛を囁いて、あたしにあたしを類まれなる美人だって思い込ませることが非常にお上手だわ。その調子で諭されたらあたし、きっと付き合っていこうっていう気にすらならなくなっちゃうのよ」
「付き合う? 付き合うって、俺と?」
「いいえ……省吾とじゃないわ。第一、あたしは省吾と付き合いたいと思ったことすらないわ」
「そうかい」
「……やめましょう。こんな話をしても仕様がないし、もっと別の楽しい話をしましょうよ。大丈夫、大丈夫だから」
そういって美和子は黄緑色の液体をあたかも自然な動作で唇の中へ滑らせた。その動作の中には何処か放心した翳があったことを、省吾は見逃さなかった。