第3話 下級貴族の家に、公爵令嬢の噂が降ってきた
フィオナ・ベルクという伯爵令嬢は、見た目どおりの人間ではない。
それが、彼女と数分向かい合っただけで分かった。
柔らかい笑顔。親しげな声。ふわりと春風みたいに人の懐へ入り込んでくる距離感。いかにも誰とでも仲良くなれそうな、学園の人気者という雰囲気をまとっている。だが、その実、こちらの反応を一つも見逃していない。目が笑っているのに、観察は止まっていない。
つまり、かなり厄介だ。
「噂の新しい恋人さん、って言われても困るんですけど」
俺がそう返すと、フィオナはくすりと笑った。
「困るの? でも、昨日あれだけ堂々と言ったじゃない。大広間の真ん中で」
「言ったのは事実です」
「ええ、みんな覚えてるわ。きっと今日中に学園中へ広がると思う」
「すでに広がってません?」
「広がってるわね。だから楽しいの」
楽しまれてたまるか。
心の中でそう毒づくが、顔には出さない。いや、出せない。隣にいるセレスティアは相変わらず背筋一つ崩さず立っているし、周囲の視線も相変わらず痛い。ここで俺だけが露骨に嫌そうな顔をすれば、たちまち“釣り合っていない下級貴族の小物感”が際立つだろう。
恋人役って、思った以上に面倒だな。
「フィオナ」
セレスティアが静かに口を開く。
「朝から随分と機嫌がいいのね」
「ええ。だって、退屈しなさそうなんだもの」
「あなたの退屈しのぎに付き合うつもりはないわ」
「でも、昨日の件で学園が大騒ぎなのは事実でしょう?」
フィオナは悪びれず肩をすくめた。その仕草すら妙に絵になるのが癪だ。
「王子殿下と公爵令嬢の婚約破棄。その直後に、下級貴族の男の子が飛び出してきて“俺が恋人役になります”なんて言うのよ? 噂好きの子たちが放っておくわけないじゃない」
「よく聞いてましたね」
「すごく通る声だったもの」
にこっと笑ってそう言われる。やめてほしい。こっちはできれば忘れたいんだ。
セレスティアは表情を変えなかったが、彼女の目だけがわずかに冷えた。
「用件がそれだけなら、私たちは先へ行くわ」
「ええ、もちろん。あ、でも一つだけ」
フィオナがこちらへ半歩だけ寄る。香水はきつくない。花というより、柑橘に近い軽い香りがした。彼女の雰囲気によく合っている。
「エイト・アルヴェルくん、だったかしら」
「はい」
「気をつけてね」
「何にですか」
「全部に」
軽い口調だった。だが、その内容は妙に真面目だった。
思わず俺が目を瞬かせると、フィオナはそれ以上何も言わず、くるりと踵を返した。
「またあとでね、セレスティア様。……それから、恋人さんも」
最後の一言だけ、少しだけ面白がる色を混ぜて。
彼女が去っていくと、周囲の生徒たちもさすがにあからさまには近づいてこなかった。けれど視線は残る。こちらを見ている。確かめている。値踏みしている。
セレスティアが歩き出したので、俺も隣へ並んだ。
「今のは」
「フィオナ・ベルク」
さっき聞いた通りの名前を、セレスティアは改めて口にした。
「ベルク伯爵家の令嬢。人当たりがよくて、誰とでも上手に話すわ。だからこそ、侮らない方がいい」
「はい。なんとなく分かります」
「勘がいいのね」
「前世……じゃなくて、まあ、なんとなく」
「?」
一瞬だけ不審そうな視線が来たが、今は説明のしようもないのでごまかす。
前世の会社員時代にも、ああいうタイプはいた。表面上は愛想がよく、誰にでも平等そうに見えて、実際には場の空気と人間関係の流れをものすごい速度で把握しているタイプ。敵に回すと面倒だが、味方にいると心強い。どちらに転ぶかは、まだ分からない。
「教室は?」
「私とあなたは同じよ」
「えっ」
「昨日、名簿を見ていなかったの?」
「式の途中で人生が急展開しすぎまして」
「そう」
まるで感心のない返事だったが、内容は大きい。つまり、同じ教室。同じ学年。同じ空間で今後ずっと視線を浴びるわけだ。
逃げ場がない。
学園の本校舎へ入ると、さらに空気が変わった。石造りの廊下は高く広く、朝の光が大きな窓から差し込んでいる。だがその明るさとは裏腹に、そこを行き交う生徒たちの気配は落ち着かない。視線。囁き。会話が不自然に途切れる音。誰かが笑いかけたと思えば、その笑いは別の方向へ流れる。
貴族社会ってこういうところなんだろうな、と変に納得してしまう。
面と向かって殴ってくるならまだ分かりやすい。だが大抵は、露骨に手を汚さない。言葉の端、視線の置き方、距離の取り方、その全部で「お前は異物だ」と伝えてくる。
前世の会社でも似たようなものだった。違うのは服がスーツか制服かくらいで、集団の空気のねっとりした嫌らしさはだいたい同じだ。
「緊張しているの?」
セレスティアが前を向いたまま訊く。
「かなり」
「顔には出ていないわ」
「出したら負けだと思ってるので」
「その判断は正しいわね」
褒められた……のか?
そんなことを考えているうちに、教室へ着いた。扉の上には一年A組の表示。いかにも上位貴族の子弟が集まりそうな場所だ。下級貴族の俺がここにいるのは、入学試験の成績が思ったよりよかったからで、家格で選ばれたわけではない。つまり今この瞬間、俺は教室の中でもわりと珍獣に近い。
扉を開いた瞬間、空気が止まった。
さっきまで普通に話していたであろう生徒たちが、見事なほど一斉にこちらを見る。いや、正確にはセレスティアと、その隣にいる俺を見る。
ああ、これはもう完全にだめなやつだ。
「おはようございます」
俺が無難に言うと、何人かがぎこちなく返事をした。何人かは無言。何人かは露骨に目をそらす。反応が分かりやすすぎる。
セレスティアは一切気にした様子もなく、自分の席へ向かった。窓際の前方。いかにも彼女らしい場所だ。俺の席はその少し後ろ、同じ列の斜め後方だった。近い。近いな。これ、周囲から見たらかなりあれでは?
いや、実際あれなのか。仮恋人だし。
席へ座ると、数秒の静寂のあと、教室のざわめきが再開した。だが内容は当然、こちらのことだろう。ひそひそとした話し声が耳へ届く。聞こえないふりをしていても、断片くらいは拾ってしまう。
「本当に一緒に来た……」
「まさかあそこまでやるなんて」
「アルヴェル家って聞いたことないけど」
「下級貴族らしいわよ」
「氷姫様、どういうつもりなのかしら」
「遊ばれてるだけじゃない?」
最後の一言だけ、少し強く耳に刺さった。
遊ばれている。
その言い方自体は、ある意味正しい。セレスティアが俺を“使う”と言ったのは事実だ。俺も恋人役としての体裁を保つためにここにいる。なら、外から見ればそう映っても仕方がない。
だが――仕方がないと割り切るには、少しだけ気分が悪かった。
自分でもよく分からない感情だ。昨日の今日で何を気にしているのかと言われればそれまでだが、少なくとも見世物扱いされて心地いい人間はいない。
「おい」
低い声で話しかけられ、顔を上げる。
前の席の男子だった。短く整えた茶髪に、いかにも真面目そうな顔。家格はそこそこ高そうだが、王子様系というより堅物寄りだ。
「……はい?」
「お前、昨日のあれ、本気なのか」
直球だな。
教室のざわめきが一瞬だけ弱くなる。皆、聞き耳を立てているのが分かる。勘弁してほしい。
「本気かどうかで言えば、言ったこと自体は本気です」
「意味が分からん」
「俺も半分くらいそう思ってます」
「は?」
男子が眉を寄せた。冗談のつもりはなかったが、余計に分かりづらかったらしい。
「ええと……昨日の場で言ったのは、冗談ではないです。今も撤回するつもりはありません」
「……そうか」
納得はしていない顔だったが、それ以上は何も言わなかった。代わりに後ろの方から、女子の含み笑いが聞こえた。失礼な話である。
その時、教室の後方の扉が開き、教員が入ってきた。中年の男性で、細身の眼鏡をかけている。いかにも几帳面そうな雰囲気だ。
「着席しなさい」
いや、全員すでに座っている。けれど、その一言でざわめきがかなり収まるあたり、きちんと統率は取れているらしい。
担任だろうか。彼は名簿を手に教壇へ立つと、教室をぐるりと見渡した。
「改めて、一年A組を担当するフェルナーだ。昨日の入学式では諸々あったが――」
そこで一瞬だけ、教員の視線がこちらへ来た。やめてくれ。教師までそれを言うのか。
「本日からは学園生としての自覚を持ち、節度ある行動を心がけるように」
節度ある行動。耳が痛い。ものすごく痛い。
ホームルーム自体はごく普通に進んだ。配布物、授業日程、学園内の規則、魔術演習場の使用条件、寮生と通学生の扱いの違い。内容はまともだ。まともなのだが、教室全体の空気がまともではない。
いや、むしろまともに見せようとしているぶん余計に変だ。
何人かはちらちらこちらを見る。何人かはセレスティアだけを見ている。何人かは最初から興味を隠そうとしない。教員もそれに気づいているはずだが、正面から触れる気はないらしい。まあ、触れたところで余計にややこしくなるだけだろうしな。
問題は休み時間だった。
鐘が鳴って教員が出ていった瞬間、教室の空気が一気に解凍された。
「ねえ、本当に付き合ってるの?」
「昨日のって、勢いじゃなかったの?」
「アルヴェルくんって、どこの領地?」
「セレスティア様と前からお知り合いだったんですか?」
「王子殿下の前であんなこと言うなんて、すごいですね」
すごいのではない。馬鹿なのだ。
だがそんな本音は飲み込んで、俺はできるだけ穏便に返すしかない。
「いえ、知り合ったのは昨日がほぼ初めてで」
「ほぼ?」
「ええと、同じ学園の入学予定者として名前くらいは……」
「嘘が下手ね」
すぐ横から、涼しい声が飛んできた。
見ると、いつの間にかセレスティアが立っていた。教室の女子たちは一歩引く。男子たちも目に見えて口数が減る。すごいな、この人の制圧力。
「余計なことを言わなくていいわ、エイト」
「余計なことですかね、これ」
「あなたは黙って立っていればいいの」
「要求レベル高くないですか」
「そのくらいもできないの?」
できるかどうかで言えば、できなくはない。だが人権がだいぶ削られる気がする。
そんな俺たちのやりとりを見て、周囲の空気がまた微妙にざわつく。多分、「本当に距離が近いのか」「それとも一方的なのか」を測られているのだろう。恋人役というのは、こういう観察の対象になり続けることなのか。しんどい。
そこへ、教室の扉からまた明るい声が割り込んできた。
「わあ、やっぱり囲まれてる」
フィオナだった。
彼女はまるで用事があって来ました、という顔で教室へ入ってくると、ためらいなくこちらへ歩いてきた。周囲の女子たちが少し道を開ける。人気者というのは、こういう時も自然と人の流れを作れるらしい。
「セレスティア様、お昼一緒にどう?」
「遠慮するわ」
「即答ね」
「用件は?」
「様子見」
様子見って言うな。
フィオナはくるりと俺の方を見る。
「エイトくん、大丈夫? まだ朝なのに、顔がちょっと疲れてる」
「お気遣いどうも」
「気遣ってるわよ、本当に。だって今、学園で一番注目されてるもの」
「それは嬉しくないですね」
「でしょうね」
彼女はけらけら笑った。悪意はなさそうだが、面白がっているのも事実だろう。多分、この人は面白いものを面白いと隠さない。
「フィオナ」
セレスティアの声が一段低くなる。
「必要以上に彼へ近づかないで」
「必要以上って、どのくらい?」
「今がすでにそうよ」
「厳しいなあ」
そう言いながらも、フィオナは素直に半歩だけ下がった。完全に引かないあたり、線引きは分かっていても従う気は半分しかないらしい。
だが、そのやりとりの中で、俺は少しだけ違和感を覚えた。
必要以上に近づくな。
その言葉はもちろん、仮恋人としての体裁を守るためだろう。余計な誤解を増やさないため、もしくは自分の周辺に不用意な情報を増やさないため。合理的に考えればいくらでも説明はつく。
つくのだが、ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、言い方が棘っぽかった気がした。
「何?」
セレスティアがこちらを見た。
しまった。じっと見ていたか。
「いえ、別に」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「いや、本当に大したことじゃ」
「はっきりしない男は嫌われるわよ」
「嫌われたくない相手には気をつけます」
「……そう」
会話がそこで切れた。今の返しは良かったのか悪かったのか分からない。
フィオナだけが面白そうに目を細めている。やめてくれ、その“あ、今何か見えた”みたいな顔。
結局、午前中の授業はほとんど内容が頭に入らなかった。
魔力理論、王国史、礼法基礎。どれもこの世界で生きるには必要な学問なのだろう。だが今の俺の脳の大半は、「公爵令嬢とどう並んでいれば自然に見えるのか」「周囲の敵意をどの程度まで無視すべきか」「王子派とやらが本格的に動いたらどうするのか」という、もっと切実で面倒な問題に持っていかれていた。
昼休みになり、ようやく少しだけ人の波が落ち着いた頃だった。
セレスティアは自席で昼食の用意を受けていた。公爵家付きの侍女見習いらしい黒髪の少女が、無駄のない動きで布を敷き、箱を並べる。その仕草にいちいち隙がない。昨日控室へ俺を連れていった子だ。
俺は自分の席で、家から持ってきた簡素な包みを広げる。パンと薄い肉と野菜。味は悪くない。悪くないのだが、この教室で広げると途端に生活感が際立つ。向こうは公爵家の食事、こっちは慎ましい下級貴族の昼食。比べるなと言う方が無理だ。
その時、黒髪の侍女見習いがこちらへ向いた。
「エイト・アルヴェル様」
「はい」
「お嬢様がお呼びです」
またか。
というか、この呼ばれ方をされるたびにちょっと心臓に悪い。
俺が立ち上がると、教室の空気がまた少しだけざわつく。勘弁してくれ。そんなに毎回見どころ満載な関係じゃないんだ、こっちは。
セレスティアの机の前まで行くと、彼女は昼食の手を止めることなく言った。
「午後の実技演習、私と組みなさい」
「はい?」
「耳が遠いの?」
「いや、聞こえましたけど」
「なら返事を」
「……どうしてですか」
当然の疑問だ。
するとセレスティアは、まるでそんなことも分からないのかとでも言いたげに青い瞳を上げた。
「恋人が常に離れているのは不自然でしょう」
「演習中まで?」
「むしろ演習中こそよ。ペア行動の時間は印象に残るもの」
「印象操作が徹底してますね」
「生き残るためには必要よ」
言い切り方に迷いがない。
俺は思わず黙った。
生き残るため。
その言葉は、今の状況をずいぶん端的に表していた。仮恋人ごっこだの、噂だの、じれったい距離感だの、そういうラブコメじみた言葉にすると軽く聞こえる。だがセレスティアの中では、多分これは最初からもっと切実な話なのだ。
婚約破棄され、公の場で断罪され、その後どう見られるかで家の立場も、自分の価値も、今後の動き方も大きく変わる。貴族社会はそういう場所なのだろう。
「分かりました」
俺がそう答えると、セレスティアはわずかに頷いた。
「それから」
「まだありますか」
「あるわ」
きっぱり言われる。
「今日の放課後、ルーヴェン家の迎えで帰るわよ」
「……えっ」
「登校だけ一緒で帰りは別、なんて中途半端な真似をすれば、余計な憶測を呼ぶでしょう」
「理屈は分かりますけど、心の準備というものが」
「昨日のうちにしておきなさい」
「無茶言うなあ……」
つい本音が漏れた。
すると、セレスティアの向かいに立っていた黒髪の侍女見習いが、初めてはっきりとこちらを見た。冷たい。ものすごく冷たい視線だ。
「お嬢様に対して、その口の利き方はどうかと思います」
「……すみません」
「当然です」
即答だった。
怖い。
この人、多分セレスティアより別方向に怖い。
「ミレーユ、いいわ」
セレスティアが静かに制した。
ミレーユというらしい。彼女は一礼して引いたが、こちらを見る目の冷たさは変わらない。ああ、これは完全に警戒されてるな。まあ当然か。昨日突然現れた下級貴族の男子が、お嬢様の仮恋人を名乗ったのだから、疑わない方がおかしい。
「改めて言っておくわ」
セレスティアが俺を見る。
「勘違いしないで。あなたはただ、今の私に都合がいいから隣に置くの」
「はい」
「余計な期待もしないで」
「してません」
「即答が気に障るわね」
「どうしろと」
思わずそう返したら、セレスティアがほんの少しだけ目を細めた。
怒ったのかと思ったが、よく見ると違う。笑う寸前――とまではいかなくても、何かがわずかに揺れた顔だった。
「……口答えだけは一人前ね」
吐き捨てるように言われたが、声はさっきよりほんの少しだけ柔らかかった。
ミレーユがわずかに眉を動かす。フィオナが遠くの席からこちらを見て、いかにも面白そうに目を細めているのも見えた。教室の空気もまた妙にざわつく。だめだ。俺たち、思っている以上に観察されている。
「分かったら戻りなさい」
「はい」
「午後、遅れないで」
「善処します」
「しなさい」
「はい」
朝も同じやり取りをしたな、これ。
席へ戻る途中で、前の席の男子が振り返った。
「お前」
「はい?」
「本当に命知らずなんだな」
「自覚は少しあります」
「少しかよ」
呆れ顔でそう言われた。
俺だって好きでこうなっているわけではない。だが、気づけばじわじわと逃げ道が塞がっている。公爵家の馬車で登校し、教室で並び、昼休みに呼ばれ、午後の演習も一緒。放課後も一緒に帰るらしい。
噂を定着させる、という意味ではそりゃ有効だろう。
有効だろうが、俺の精神はだいぶ削られる。
昼食を食べ終え、午後の実技演習に向かうため中庭を横切った時だった。
春の光は柔らかい。噴水の水音が遠くで鳴り、花壇には色とりどりの花が咲いている。絵に描いたような学園の昼下がりだ。だが、だからこそ、その違和感は余計にはっきり見えた。
中庭の一角、回廊の陰。そこに立っていた数人の上級貴族の男子が、こちらを見ていた。
見ているだけではない。
値踏みしている。
露骨にだ。
その視線の冷たさは、朝から浴びてきたものとは質が違った。好奇心ではない。面白がりでもない。もっと明確な敵意に近い。
俺は思わず足を少しだけ止めた。
セレスティアは前を向いたままだったが、小さく言った。
「見ないで」
「……はい」
「こういう時に視線を返すと、相手は“気づかれた”と認識するわ」
「もう遅い気もしますが」
「それでもよ」
言われた通り、俺は前を見る。
だが、背中に刺さるあの視線が消えることはなかった。
午後の演習場へ向かいながら、俺は小さく息を吐いた。
どうやらただの噂好きだけでは済まないらしい。
王子派――さっきフィオナが言っていた“全部に気をつけて”の意味が、少しだけ具体的な輪郭を持ちはじめる。
俺はちらりと隣を見る。
セレスティアは変わらず真っ直ぐ前を見て歩いていた。冷たくて、綺麗で、隙がない。けれど、その横顔はどこかひどく張りつめてもいた。
この人は、多分ずっとこうやって歩いてきたのだろう。
周囲の視線も、悪意も、値踏みも、全部まともに受けながら、それでも背筋を曲げないまま。
「何?」
視線に気づいたのか、セレスティアが小さく尋ねた。
「いえ」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「……いや、思ったより大変そうだなって」
「今さら?」
呆れたような声だった。
けれど、そのあとに続いた言葉は短かった。
「だから言ったでしょう。あなた、死にたいのって」
俺は思わず、少しだけ笑ってしまった。
「訂正します」
「何を?」
「死にたくはないですけど、思ってたより簡単な話でもないですね」
「ようやく理解したのね」
その返事は冷たい。
でも、ほんの少しだけだけれど、最初より話しやすくなっている気がした。
もちろん、それが気のせいである可能性は大いにある。
それでも、昨日の大広間で見た“遠い氷の令嬢”と、今隣を歩く“現実に面倒を共有している相手”とでは、少しだけ距離が違って見えた。
……だから余計に、ややこしいのだが。
演習場の扉が見えてくる。
その前に、俺たちの前へ一人の男子生徒が立ちはだかった。
金髪に、どこか芝居がかった整った顔立ち。制服の質も着こなしも、家格の高さを隠す気がない。後ろには取り巻きが二人。表情には露骨な余裕と、うっすらした軽蔑。
ああ、これ絶対よくないやつだ。
男子生徒は俺を見て、それからセレスティアへ視線を向ける。
「失礼。少し、お話をしても?」
口調は丁寧だ。
だが、その目は最初から笑っていなかった。




