第2話 勘違いしないで。あなたは仮の恋人よ
翌朝、目が覚めた瞬間、俺は天井を見上げたまましばらく動けなかった。
夢であってくれ。
切実にそう願った。
だが現実は容赦がない。見慣れた木目の天井、薄い朝日、まだ少し冷たい空気、そして昨日起きた出来事をきっちり保持した俺の頭。つまり、王立アストレア学園の入学式で第一王子の婚約破棄劇に割って入り、公爵令嬢セレスティア・フォン・ルーヴェンの“仮恋人役”を名乗った件は、残念ながら全部現実だった。
「……最悪だ」
声に出して確認してみても、状況は一向に改善されない。
むしろ、自分の口から出たことで余計に現実味が増した。
俺は寝台の上で片手で顔を覆った。どうしてあんなことを言ったのか、いまだに自分でもよく分からない。いや、分かってはいるのだ。あの一瞬、彼女が傷ついた顔をしたからだ。見てしまったからだ。放っておけなかったからだ。
しかしそれは、行動の理由にはなっても、合理的な説明にはならない。
前世の俺だったら絶対にやらなかった。いや、前世の俺も、本質的にはそういう厄介なものを拾ってしまう側の人間だったからこそ、最後に擦り減って死んだのかもしれない。
学ばないな、俺。
「エイト様、起きておられますか」
控えめなノックとともに、廊下側から母の声がした。
「起きてます」
「では朝餉の支度が整っておりますよ」
「今行きます」
返事をしながら起き上がる。窓から差し込む朝の光は穏やかで、こんな日に限って天気がいい。人生が詰んだ翌朝に快晴とは、世界もなかなか皮肉が利いている。
制服に着替えながら、昨日の控室でのやりとりを思い出す。
――今だけは、その言葉を借りることにする。
――あなたは恋人ではない。あくまで仮よ。
――明日から忙しくなるわよ。仮恋人の仕事よ。
何一つ分からない。
仮恋人の仕事って何だ。恋人というものに仕事が発生する時点で、もうだいぶおかしいだろう。
そんなことを考えながら食堂へ向かうと、空気が重かった。
父ガイアス、母、兄。三人とも揃って席についていたが、いつもの朝食の穏やかな空気とは明らかに違う。皿の上には焼いたパン、野菜の煮込み、薄切りの塩肉。慎ましいが温かい、下級貴族の家らしい食卓だ。なのに、場の空気だけがひどく張っている。
原因は言うまでもない。
「……座れ」
父が低い声で言った。
「はい」
素直に着席する。逃げたいが、逃げたところで話が消えるわけではない。
父はしばらく俺の顔を見ていた。元より寡黙な人だが、今日の沈黙はいつもよりずっと重い。昨夜も遅くまで何か考えていたのだろう。目の下に、うっすら疲れが見える。
「昨日、学園で妙な噂が飛び交ったそうだな」
妙な噂、で済ませてくれるあたり優しさを感じる。
「はい」
「妙な噂ではない、という顔をしているな」
「はい」
父のこめかみに血管が浮いた。
怒鳴られないだけありがたいと思うべきかもしれない。
「説明しろ。最初からだ」
俺は息を吸った。どう説明しても途中から頭のおかしい話になる未来しか見えないが、黙っていても悪化するだけだ。
だから、できるだけ順を追って話した。
入学式。大広間。第一王子レオンハルトによる婚約破棄宣言。公の場で断罪されるセレスティア。誰も助けない空気。そして、自分がつい口を挟んでしまったこと。
途中で母が何度か口元を押さえ、兄が額に手を当てた。父は最後まで黙って聞いていたが、話が進むにつれて表情がどんどん厳しくなっていく。
そして俺が「……というわけで、仮の恋人役という形に」と締めた瞬間、父は深く息を吐いた。
「馬鹿者」
低く、はっきりした一言だった。
ぐうの音も出ない。
「申し訳ありません」
「謝って済む問題ではない。分かっているのか」
父の声には怒りだけではなく、切実な疲労が滲んでいた。
「相手はルーヴェン公爵家だ。王国でも指折りの名門だぞ。その令嬢と、婚約破棄された直後に下級貴族の次男が恋人役を名乗った? しかも相手は第一王子。お前、自分がどれほど危うい場所へ片足を突っ込んだか理解しているのか」
「片足どころか両足ですね」
「冗談を言っている場合か!」
珍しく父の声が荒くなった。母が心配そうに父を見る。
俺は背筋を伸ばした。
「……はい。分かってます」
本当は全部は分かっていない。だが、危ないことだけは分かる。
父は俺を睨むように見ていたが、やがて椅子の背にもたれた。
「お前は昔から、妙なところで他人のことを見過ごせない」
それは責める声ではなかった。呆れと、諦めと、少しの苦味が混じっていた。
「だがな、エイト。正しいことと、生き残れることは違う。貴族社会では特にそうだ。誰かを庇うのは結構だ。だがそれで家族まで巻き込むなら、それはただの独りよがりだ」
胸に刺さる。
その通りだからだ。
アルヴェル家は裕福ではない。名門でもない。父が地道に領地管理と税のやり繰りを続け、ようやく体面を保っている程度の家だ。そんな家の次男が、公爵令嬢と第一王子の間へ割って入る。文字に起こせば正気とは思えない。
「ごめんなさい」
今度の謝罪は、さっきよりずっと重かった。
母がそっと口を開く。
「エイト、あなたが優しい子なのは分かっていますよ。でも、優しさだけで渡れる橋ばかりではありません」
「……はい」
そうだ。分かっている。前世でも散々思い知った。善意は万能じゃない。むしろ、悪意がちゃんと構造を持っている場所では、善意ほど食いものにされやすい。
兄が苦い顔で言った。
「それで? ルーヴェン家の方は何と?」
「セレスティア様本人は、昨日の場では否定しない方が都合がいいから、当面は仮恋人という体裁を使うと」
「使う」
「はい。使う、って言われました」
兄の顔が引きつる。母は困ったように目を伏せ、父はこめかみを揉んだ。
「なるほどな。向こうは冷静だ」
父が言う。
「お前の突拍子もない発言を、その場を凌ぐ手に変えたわけか」
「……多分」
「多分ではない。確実にそうだろう。公爵令嬢ともあろう方が、あの場でただ感情的に否定すれば、王子の思うつぼだ。利用されたこと自体は、お前にとってむしろ幸運かもしれん」
「幸運、ですか?」
「少なくとも、その場で切り捨てられて終わりではなかった」
それは確かにそうだ。
あの時セレスティアが「何を言っているの」と完全に切り捨てていれば、俺はただの頭のおかしい下級貴族で終わっていた。笑いものどころでは済まず、学園生活そのものが崩壊してもおかしくなかった。
いや、今もだいぶ崩壊しかけているが。
「問題はここからだ」
父の言葉に、食卓の空気が再び張る。
「向こうがどこまで本気でお前を使うつもりなのか。王子側がどう出るのか。学園の貴族たちがどう反応するのか。そして何より――」
父は一拍置いた。
「お前自身が、どこまで踏み込む気なのかだ」
俺は視線を落とした。
どこまで。
その問いには、すぐには答えられない。
助けたかった。それは本当だ。見ていられなかった。それも本当だ。でも、それでどこまで責任を持てるのかと問われたら、胸を張れる自信はない。
相手は公爵令嬢。王都の中心。王子と政争の気配まで絡んでいる。俺はただの下級貴族の次男で、前世の記憶を思い出したばかりの、半端な人間だ。
「……分かりません」
正直にそう言うと、父はそれを責めなかった。
「だろうな」
短く言ってから、父は卓上のパンを一つ取り上げた。
「分からないなら、なおさら軽々しく動くな。相手の言葉に乗せられるな。情で全部を決めるな。いいな」
「はい」
「それと」
父はじろりと俺を見る。
「どうしても関わるなら、家の名を忘れるな。お前一人の勝手では済まない」
「……はい」
朝食はそのまま静かに進んだ。パンの味も、煮込みの味も、いつもより薄く感じた。
食べ終える頃には、覚悟とまではいかなくても、逃げても無駄だという種類の諦めが腹の底に沈んでいた。
学園へ行かなければならない。セレスティアとも顔を合わせるだろう。仮恋人の仕事とやらも、多分そこで始まる。
いや、始まってほしくはないが。
食堂を出る前、父が背中越しに言った。
「エイト」
「はい」
「……無茶だけはするな」
怒りの奥にある本当の気持ちが滲んだ一言だった。
俺は振り返り、少しだけ頭を下げた。
「善処します」
「善処ではなく、するな」
ぴしゃりと言われた。ごもっともである。
屋敷の玄関を出ると、朝の空気はひんやりとしていた。吐く息は白くならないが、まだ春の終わりには少し早い。馬車寄せの石畳を掃き清めた使用人が、こちらに小さく会釈する。
いつもなら、学園へ向かうアルヴェル家の馬車はもう少し後に回される。兄が先で、俺はその次だ。下級貴族の家らしく、急がず、無理せず、必要な分だけ。
だが今日は違った。
門の前に停まっていた馬車を見た瞬間、俺は足を止めた。
白を基調とした艶やかな車体。銀の縁取り。扉に刻まれた精緻な紋章。揺れる旗印。御者の制服に至るまで、見ただけで格の違いが分かる。
ルーヴェン公爵家の紋章だ。
「……は?」
間抜けな声が出た。
門番も、使用人も、みな遠慮と緊張を混ぜた顔でその馬車を見ている。そりゃそうだ。うちみたいな下級貴族の家の前に停まる類いのものではない。
御者台から降りてきた男が、完璧な所作で一礼した。
「エイト・アルヴェル様でいらっしゃいますね」
「え、はい」
「ルーヴェン家よりお迎えにあがりました。本日より、学園への登校はお嬢様とご同乗いただきます」
心臓が変な音を立てた。
後ろで見送りに出てきた母が小さく息を呑み、父は無言のまま眉間を押さえた。兄はものすごく嫌そうな顔をしている。気持ちは分かる。俺だって嫌だ。いや、嫌というか、怖い。
「ご、同乗?」
「はい」
「毎日?」
「お嬢様のご指示では、その予定でございます」
その予定、で済ませるのか。
さすが高位貴族はやることが早い。昨日の今日でもう外堀を埋めにきた。仮恋人の噂を事実として定着させるなら、確かに登校から一緒の方が効率はいい。効率がいいが、俺の心臓には最悪だ。
父が低い声で言った。
「行け。ここで拒めば、それこそ余計な波風が立つ」
「……はい」
分かっている。分かっているが、せめて心の準備というものをさせてほしい。
俺はぎこちなく一礼し、馬車へ向かった。扉が開かれる。
中は広かった。柔らかな座席、上質な布、品のいい香り。アルヴェル家の馬車とは比較にならない快適さだ。そして、向かい側の席に、その人は当然のように座っていた。
セレスティア・フォン・ルーヴェン。
今日も完璧に整っている。銀髪は一筋の乱れもなく、制服姿すらどこか別世界のもののように見える。窓から差し込む朝の光が彼女の横顔を淡く照らし、青い瞳が静かにこちらへ向いた。
「遅いわ」
挨拶代わりの第一声がそれだった。
俺は扉を閉めてもらいながら、苦笑に近いものを浮かべた。
「いきなり公爵家の馬車が来たので、さすがに驚きました」
「驚く程度で済んでいるなら結構ね」
「済んでませんけど」
「そう」
そこで会話が切れるのがこの人らしい。
馬車が静かに動き出す。石畳を進む揺れさえ、うちの馬車よりずっと小さい。金をかけるべきところに金をかけるとこうなるのか、と妙なところで感心してしまう。
だが落ち着く暇はない。
目の前にセレスティアがいる。昨日、公開婚約破棄されたばかりの当人であり、俺の人生を盛大に狂わせつつある張本人でもあり、そして俺が勝手に余計な口を挟んだ相手でもある。
何を話せばいいのか分からない。
すると、そんな俺を見透かしたように、セレスティアが先に口を開いた。
「昨日の件、改めて確認しておくわ」
声音は冷静で、まるで契約条件の読み合わせだ。
「あなたは今後しばらく、私の仮恋人として振る舞う」
「……はい」
「勘違いしないで。これはあくまで必要な処置よ。情でも好意でもないわ」
「昨日も聞きました」
「大事なことだから、何度でも言うの」
きっぱり言い切られた。
そこまで念押しされると、逆にこちらが何か勘違いしそうになるのを先回りして潰されている気分になる。いや、実際その通りなのだろう。
「あなたの役目は単純よ。私の隣に立ち、周囲に“私は一方的に捨てられたわけではない”と印象づけること。必要以上に喋らない。勝手に熱くならない。独断で場を乱さない。昨日のような勢い任せは二度としない」
最後の一文だけ妙に強かった。
「耳が痛いです」
「痛いなら覚えておきなさい」
セレスティアはそこで腕を組んだ。長い睫毛の下の青い瞳が、まっすぐに俺を見据える。
「私はあなたを守れないわ」
「……はい?」
「正確には、いつも守れるとは限らない、という意味よ」
予想外の言葉に、俺は少し目を見開いた。
てっきり、「あなたは私を守る駒になりなさい」くらいのことを言われると思っていた。いや、それはそれで困るのだが。
セレスティアは淡々と続ける。
「昨日の発言で、あなたは王子派に目をつけられた。学園内での嫌がらせ、陰口、挑発程度で済めばいい方ね。貴族は面子に敏感よ。特に、自分たちが当然のように見下していた相手が立場を乱すと、露骨に反発する」
その説明は、ひどく実感がこもっていた。
彼女は最初からそういう空気の中で生きてきたのだろう。見下し、値踏みし、利用し、切り捨てる貴族社会の中で。
「だから昨日、言ったはずよ。あなた、自分が何をしているか分かっているのかと」
「……はい。今さらですけど、かなり重かったなって」
「今さらね」
冷たい返事。だが、その冷たさの奥に、ほんの少しだけ疲れた色があった。
「でも」
俺は言葉を選びながら続ける。
「昨日、あの場で完全に否定されなかったのは、正直ちょっと意外でした」
セレスティアの視線がわずかに細くなる。
「どういう意味?」
「俺みたいな下級貴族、切り捨てた方が簡単だったでしょう」
「簡単ではあったわ」
「やっぱり」
「でも、それではあまりに王子殿下の望む形だったもの」
そう言った彼女の横顔は、朝の光の中でもやはり冷たく整っていた。
「私は、あの場で哀れな敗者として俯くつもりはなかった。何を失っても、せめて立っている姿だけは崩したくなかったの。あなたの発言は無謀で愚かだったけれど、使えた。それだけよ」
「なるほど」
納得はした。したが、胸の奥で少しだけ引っかかるものもある。
使えた。それだけ。
当然だ。俺たちは昨日知り合ったばかりで、身分も立場も違う。他に言いようがない。けれど、あの一瞬だけ見えた彼女の傷ついた目を思い出すと、「それだけ」で片付けられると少し寂しい気もした。
……いや、何を寂しがっているんだ俺は。
自分の感情に首を傾げていると、セレスティアがふいに言った。
「あなたの家族には?」
「話しました」
「怒られたでしょう」
「ものすごく」
「当然ね」
そこだけはすぐに同意された。
「父に『正しいことと生き残れることは違う』って言われました」
「賢明なお父上だわ」
「返す言葉もありません」
セレスティアはそこで少しだけ目を伏せた。
「……あなたの家を巻き込む気はないの」
「え?」
「必要以上に、という意味よ」
その一言は、彼女らしくないほどわずかに低かった。
「だから、あなたが降りたいなら今のうちに言いなさい。昨日の混乱の延長だと言えば、多少は取り繕える。完全に無傷では済まないでしょうけれど、これ以上深く踏み込む前なら、まだ戻れる」
思わず彼女を見た。
窓の外を見ている横顔は相変わらず綺麗で、そして冷たい。だが今の言葉は、明らかに退路を示していた。
逃げ道をくれている。
きっと彼女は、これも合理のうちだと思っているのだろう。俺みたいな不安定な駒は、途中で折れる前に外しておいた方がいい。あるいは、本当に家族を巻き込むことをよしとしていないのかもしれない。
どちらにせよ、それは昨日控室で見せたのと同じ、“切り捨てるための冷たさ”ではない気がした。
「……降りません」
気づけば、そう答えていた。
セレスティアの睫毛がわずかに揺れる。
「なぜ?」
「ここで降りたら、昨日のあれが本当にただの思いつきで終わるからです」
「思いつきだったでしょう」
「痛いところを突きますね」
だが彼女は否定しなかった。
俺は小さく息をついた。
「確かに勢いでした。後悔もしてます。胃も痛いです。でも、あの場で言ったことを、次の日にやっぱりなしってするのは――なんか、もっとだめな気がする」
うまく言葉にならない。前世でもこういう時、俺は説明が下手だった。論理で組み上げるべき話なのに、最後のところで感情が出る。
「あと、セレスティア様があの場で完全に一人になるのも、見たくないです」
言った瞬間、しまったと思った。
重い。言葉がそのまますぎる。もっとこう、体裁というものをだな。
セレスティアはしばらく何も言わなかった。
馬車の揺れだけが静かに続く。
やがて彼女は、窓の外に向けていた視線を俺に戻し、ほんの少しだけ顎を引いた。
「……あなたは本当に、厄介ね」
その言い方は、呆れなのか、諦めなのか、判別がつかなかった。
「よく言われます」
「今、私が初めて言ったのだけれど」
「じゃあ、初受賞です」
「嬉しそうにしないで」
ぴしゃりと言われる。だが、声が昨日よりほんの少しだけ柔らかく聞こえたのは気のせいだろうか。
やがて馬車は王都の広い通りへ出た。朝の市が動き始め、人の流れも増えてくる。遠くには学園の尖塔が見えた。
つまり、現実逃避の時間は終わりだ。
「学園に着いたら、まずは私の隣を歩きなさい」
セレスティアが事務的に言う。
「昨日の騒ぎで、皆こちらを見るわ。そこで距離を取れば、仮恋人の話そのものが冗談扱いされる」
「そんなに重要ですか」
「重要よ。噂は放っておけば勝手に育つけれど、最初の形を誤れば、あとから修正するのは面倒なの」
その言い方があまりにも慣れていて、俺は少しだけ眉をひそめた。
「……慣れてますね」
「何に?」
「そういう空気の扱いに」
セレスティアは一瞬だけ黙った。
「慣れたくて慣れたわけではないわ」
「ですよね」
それ以上は踏み込まなかった。多分、踏み込むべきではない。
馬車が学園の門へ近づくにつれ、俺の心拍数は順調に上がっていく。門前にはすでに何台も馬車が止まり、生徒たちが降り始めていた。上級貴族の子弟、騎士家の子、裕福な商家の娘。視線の鋭そうな連中もちらほらいる。
ここで公爵家の馬車からセレスティアと一緒に降りれば、昨日以上の騒ぎになるのは確実だった。
「顔色が悪いわよ」
「自覚はあります」
「情けない」
「人並みです」
「下を向かないで」
「注文が多いですね」
セレスティアは当然のように言う。
「仮にも私の恋人役でしょう。堂々としていなさい」
「役でも荷が重いです」
「持ちなさい。自分で背負ったのでしょう」
「はい……」
ごもっともである。
馬車が止まった。
御者が扉の外で合図をする。世界が、妙に静かになった気がした。
セレスティアは立ち上がると、何の迷いもなく俺へ手を差し出した。
「行くわよ」
白く細い手だった。昨日、大広間の中央で誰にも頼らず立っていた手。きっと多くの人間がこの手を見て、冷たいとか、高慢だとか、勝手な意味をつけてきたのだろう。
俺は一瞬だけ迷ってから、その手を取った。
ひんやりしていた。
扉が開く。
光が差し込み、朝のざわめきが一気に押し寄せる。門前にいた生徒たちの視線が、こちらへ集まったのがはっきり分かった。
セレスティアは何事もない顔で馬車を降りる。そのまま俺の手を離さず、一歩先へ進んだ。
俺も腹を括って続く。
次の瞬間、周囲の空気が露骨にざわついた。
「見て、ルーヴェン家の馬車……」
「まさか本当に」
「昨日の噂、やっぱり」
「アルヴェルってあの子?」
「下級貴族よね?」
「本気なの……?」
ひそひそ声が四方から飛ぶ。痛いほど分かる。俺に向けられている好奇心、軽蔑、嫉妬、嘲笑、値踏み。そのどれもが遠慮なく肌を刺す。
俺は思わず呼吸を浅くした。
すると、隣から小さな声が落ちた。
「背筋を伸ばして」
セレスティアだった。唇はほとんど動いていない。周囲に聞かせないためだろう。
「目線は前。きょろきょろしない」
「無茶言いますね」
「無茶を言わせたのはあなたよ」
その通りすぎる。
俺は観念して背筋を伸ばした。すると不思議なもので、さっきより少しだけ息がしやすくなる。隣にいる少女は昨日公開婚約破棄を受けたばかりだというのに、顔色一つ変えていない。なら、恋人役を名乗った俺が縮こまってどうする。
「……そうよ。そのくらいでいいわ」
セレスティアがぽつりと言った。
褒められたのかどうかは分からない。だが少なくとも、完全に役立たず認定はされていないらしい。
その時、前方から明るい声が響いた。
「へえ。本当に一緒に来たんだ」
人波の向こうから歩いてきたのは、蜂蜜色ではなく、春の陽射しみたいな柔らかな金髪の少女だった。制服の着こなしは上品だが堅苦しすぎず、笑顔は愛想がよく、けれど目だけは周囲をよく見ている。
伯爵令嬢、フィオナ・ベルク。
昨日の式でも遠目に見かけた気がする。学園の人気者らしいという噂も、確かどこかで聞いた。
フィオナは俺とセレスティアを見比べ、楽しそうに目を細めた。
「おはよう、セレスティア様。……それから、噂の新しい恋人さん?」
来た。
いよいよ来た。
俺の学園生活、平穏終了どころか本格的に開幕である。
隣のセレスティアが、ほんのわずかに顎を上げた。
「おはよう、フィオナ」
「おはようございます」
俺も反射的に頭を下げる。
フィオナはくすっと笑った。
「ふうん。思ったより、面白そう」
その一言に、嫌な予感と面倒ごとの匂いが同時にした。
どうやら本当に、忙しくなるらしい。




