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異世界転生した俺、婚約破棄された氷姫の仮恋人になっただけなのに、なぜか本気で好かれてる気がするけど本人が絶対に認めない  作者: 御上常陸介寛浩


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第19話 下級貴族の家にも、風は吹く

 大きな家の揉め事は、案外静かな顔をして小さな家を潰しに来る。


 前世でもそうだった。上の部署の権力争いだとか、役員同士の意地の張り合いだとか、そういう“自分には関係ないところで起きているはずの話”が、気づけば現場の末端へ降ってきて、何の罪もない人間の残業や査定や居場所を削っていく。


 今の俺――エイト・アルヴェルが立っているのは、そういう風の入口なのかもしれない。


 そのことを、はっきり形として思い知らされたのは、その日の夕方だった。


 ルーヴェン家の馬車から降り、アルヴェル家の門をくぐった瞬間、屋敷の空気がいつもと違うと分かった。


 広い屋敷ではない。

 古くて、真面目で、必要なものだけをきちんと手入れして使い続けている、下級貴族らしい屋敷だ。

 玄関脇の花壇には季節の花が植えられ、石畳は毎朝ちゃんと掃かれている。派手さはないが、父と母が守ってきた生活の匂いがある。


 その空気が、今日は少しだけ張っていた。


「お帰りなさいませ、エイト様」

 出迎えた使用人の声も、どこか硬い。


「……何かありました?」

 俺が小声で訊くと、使用人は一瞬だけ言葉を選ぶようにしてから答えた。

「旦那様が、お帰りになったらすぐ書斎へと」

「やっぱり」


 嫌な予感しかしない。


 背中の方で、ルーヴェン家の馬車が静かに離れていく音がした。

 振り返れば、もしかしたらセレスティアがこちらを見ているかもしれない。そんな気もした。

 だが今は確認する余裕がない。


 俺は制服の襟元を少しだけ整え、書斎へ向かった。


 父ガイアスの書斎は、家の規模にしては少しだけ本が多い。


 領地経営の帳簿。税や法務に関する本。王都とのやり取りに使う定型文集。地味だが生きるために必要な知識が、壁一面に詰まっている。下級貴族は、格だけでは生き残れない。数字と根回しと忍耐でようやく家を保つ。そんな父の生き方そのものみたいな部屋だった。


 ノックをすると、すぐに低い声が返る。


「入れ」


 扉を開けると、父は机の向こうに座っていた。

 いつも通り背筋を伸ばし、表情も崩していない。

 だが机の上に広げられた書類の量で分かる。

 よくない話が来ている。


「お帰りなさい」

 俺が言うと、

「ああ」

 父は短く返した。

「座れ」


 言われた通り、向かいの椅子へ腰を下ろす。


 机の上には封筒が三通、開封済みで並んでいた。

 どれも上質すぎない、だが粗末でもない紙質。

 差出人の紋章は見覚えが薄い。

 つまり、直接の大物ではないが、それなりに“顔のある先”だ。


「何があったんですか」

 俺が訊くと、父は一番上の書類を指先で叩いた。


「問い合わせだ」

「問い合わせ」

「そうだ。

 最近のお前の学園での立ち位置について、ずいぶんと丁寧に心配してくださる方々が増えた」


 その言い方だけでだいたい分かる。


 心配ではない。探りだ。


 父は一通目を俺の方へ滑らせた。


「読め」

「はい」


 封書の文面は、いかにも礼儀正しかった。


 ――このたびご子息が王都学園内で高位貴族家と近しくお付き合いされていると伺い、同じ地方貴族として将来的なご縁の広がりを喜ばしく思っております。つきましては、最近のアルヴェル家の方針につき、もし差し支えなければ――


 途中まで読んで、俺は顔をしかめた。


「うわ」

「感想が貧弱だな」

「いやでも、これ、すごく嫌な文面ですね」

「そうだ」


 父は即答した。


「喜ばしく思っていると言いながら、中身は“お前の家は今どちらへ寄るつもりだ”という探りだ」

「ルーヴェン家に?」

「あるいは王家に。あるいはどちらでもないのか。

 いずれにせよ、下級貴族の家が不相応な場所へ足をかけた時、周囲は必ずこういう風に聞いてくる」


 父の声は静かだった。

 怒鳴ってはいない。

 だがその静けさの中に、面倒を数え慣れた人間の疲れがあった。


 二通目は王都の中規模商会からだった。


 ――近頃、領地産の麦の買い付け条件につき、市況変動を踏まえた再交渉を――


 市況変動。

 便利な言葉だ。

 内容を見ると、要するに買い取り条件を少し下げたいという話だった。だが時期が露骨すぎる。アルヴェル家が今、少しでも外聞に傷をつけられたくない時を見計らっている。


「これもですか」

「おそらくな」

「でも直接、“学園の件があるから”とは書いてない」

「書くわけがない」


 父が三通目へ指を置く。


「これが一番嫌らしい」


 開いてみると、今度は遠縁の中級貴族からだった。

 文面自体は、近況伺いと、もし機会があれば王都で会いたいというだけの内容。

 だが最後にひとことだけ、こうあった。


 ――若い頃は勢いも必要ですが、身の丈に合わぬ場へ足を踏み入れれば、ご家族まで風にさらされるもの。ご子息にも、どうか賢明なご助言を――


 俺は最後まで読んで、静かに紙を机へ戻した。


「……早いですね」

「早い」

 父は頷く。

「思った以上にな」


 書斎の空気が少しだけ重くなる。


 窓の外では夕方の光が傾いていた。

 こんな静かな部屋の中で、文面一つが人を削る。

 前世の嫌な記憶が、変に生々しく蘇る。


「お前は今、ルーヴェン家の令嬢の隣にいる」

 父が言う。

「ええ」

「そのこと自体が悪いとは言わん。

 だが、悪いかどうかを決めるのは、お前や私ではなく周囲の力関係だ」

「……はい」

「そして小さな家というのは、こういう時、真っ先に“踏みやすい方”として見られる」


 踏みやすい方。


 その言い方に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 父は誇りの高い人だ。

 アルヴェル家が小さいことも、発言力が弱いことも、感情ではなく事実として受け止めている。

 だが受け止めているからこそ、その弱さをどう隠し、どう耐え、どうやり過ごすかにずっと心を砕いてきた。


 そんな父の前に、俺が今、余計な火種を持ち帰っている。


「……すみません」

 自然と口から出た。


 父は首を振らなかった。

 かといって、すぐに責めもしなかった。


「謝って済む段階ならいい」

 静かな声。

「だが、問題はこれからだ」


 そして、父はまっすぐ俺を見た。


「お前は、まだあの令嬢の隣にいる気か」


 まっすぐすぎる問いだった。


 俺は一瞬、息を止めた。


 そこへいつか来るだろうと思っていた。

 でも、実際に父の口から言われると重さが違う。


 まだ隣にいる気か。

 つまり、家がこうして風を受け始めても、それでもなお。


 前世の俺なら、多分すぐに引いた。

 自分一人の問題ではなくなった瞬間、余計な責任を抱えるのを怖がって、一歩引く方を選んだかもしれない。


 でも今は――


「……はい」

 気づけば、そう答えていた。


 父の眉がわずかに動く。


「理由は」

「まだ、必要だからです」

「誰にとって」

「セレスティア様にとっても」

 そこまで言ってから、少しだけ言葉を足す。

「……俺にとっても」


 書斎が静まる。


 父はしばらく何も言わなかった。

 怒る前の沈黙かと思った。

 だがその沈黙は、むしろ測っている沈黙だった。


「お前は、どこまで分かっている」

 父が訊く。

「何をですか」

「その“必要”の意味をだ」


 俺は口を開きかけて、閉じた。


 どこまで分かっているか。

 正直に言えば、全部は分かっていない。

 仮恋人でいることが、今のセレスティアにとって一人に見えないための支えになっていること。

 噂や王子派への対抗として意味を持っていること。

 それは分かる。


 でも、それだけじゃないことも、もう分かってしまっている。


 終わるのが嫌だ。

 なくなるのが困る。

 そういう感情が、自分の中にある。


 だがそれを父に言うわけにはいかない。

 言ったところで、もっと現実的な言葉で叩き返されるだけだろう。

 そして多分、それは間違っていない。


「……全部ではないです」

 俺は正直に言った。

「でも、ここで俺が勝手に引くのが一番まずいってことは分かってます」

「まずい、か」

「はい。

 婚約破棄の場で前に出たのも俺です。

 ここで“やっぱり無理でした”って下がったら、向こうが一番やりやすい形になります」

「それは、お前の意地ではないのか」

「意地もあります」

「ふむ」

「でも、それだけじゃないです」


 そこまで言うと、父は椅子の背に深くもたれた。


 大きくため息をつくわけでもない。

 ただ、少しだけ疲れた顔になる。


「やれやれだ」

「すみません」

「それしか言えんのか、お前は」

「他にうまい言葉がないので」


 父は机の上の封書を指先で揃え直す。


「領地の契約見直し程度なら、まだこちらで捌ける」

 声が少し事務的になる。

「遠縁からの探りも、曖昧に返しておけば当面はいい」

「はい」

「だが、風向きがさらに悪くなれば、次はもっと直接的な形で来るぞ」

「……はい」

「お前一人の評判では済まん。

 家の信用、取引、将来の縁組。

 小さい家にとっては、一つの噂が一つの季節を潰す」


 一つの季節を潰す。


 その言い方が、父らしかった。

 派手な悲劇ではない。

 ただ、少しずつ積み上げるはずだった時間が、まとめて失われる。

 小さな家の痛みとは、そういうものなのだろう。


「それでも」

 父は俺を見る。

「お前は行くのか」

「……はい」


 今度は少しだけ間があった。

 それでも答えは変わらなかった。


 父はしばらくじっと俺を見たあと、やがて短く言った。


「分かった」

「え」

「驚くな」

「いや、もっと怒られるかと」

「怒っている」

「ですよね」

「だが、今ここで叩き切っても、お前の顔は変わらん」


 その言い方に、少しだけ喉が詰まる。


 父は、本当に俺のことを見ているのだ。

 俺が一度決めたら、下手に外から押されても簡単には曲がらないこと。

 でも、それがただの頑固さだけではないことも、分かっている。


「なら、せめて守る順番を間違えるな」

 父が言う。

「守る順番」

「そうだ。

 お前が何を守りたいのかは知らん。

 だが、勢いと感情だけで前に出れば、肝心なものから先に取り落とす」

「……」

「令嬢の立場か。

 お前自身の意地か。

 家か。

 それとも、別の何かか。

 そこを曖昧にしたまま突っ走るな」


 俺は何も言えなかった。


 図星だったからだ。


 守りたいものが、一つじゃなくなっている。

 セレスティアが一人で立たされること。

 仮恋人としての立場。

 家。

 父と母。

 そして、自分の中に芽生え始めた名前をつけたくない感情。


 全部が少しずつ重なっていて、まだ綺麗に整理できていない。


「……はい」

 ようやくそれだけ答えると、父は小さく頷いた。


「今日はもう下がれ」

「ありがとうございます」

「感謝することではない」


 その通りだ。

 でも、完全に切られなかったことには感謝したかった。


 立ち上がり、書斎の扉へ向かう。

 そこで、背中に父の声が飛ぶ。


「エイト」

「はい」

「本当に守りたいものを、間違えるな」


 その一言は、今までのどの叱責より重かった。


 俺は振り返らずに答える。


「……分かりました」


 分かっていないから苦しいのだ。

 でも、分からないままでいていいとも思えない。


 書斎を出て廊下へ戻ると、夕方の屋敷は静かだった。

 窓の外では風が庭木を揺らしている。

 小さな家にも、ちゃんと風は吹く。


 大きな家の揉め事は、遠いところで燃えているように見えて、実際にはこうして足元から冷たく忍び寄ってくるのだ。


 俺は廊下の途中で立ち止まり、小さく息を吐いた。


 守る順番を間違えるな。

 本当に守りたいものを間違えるな。


 父の言葉は正しい。

 正しいからこそ、今の俺には痛かった。


 セレスティアの隣にいたい。

 それはもう、かなり確かだ。

 でも、そのために家を沈めるのかと問われれば、胸を張って“構わない”とは言えない。


 だったらどうする。

 仮恋人のまま、家も守って、セレスティアも守って、自分の感情も整理して。

 そんな都合のいい道があるのか。


 答えはまだ見えない。


 でも少なくとも、もう“気持ちだけで前に出る”段階は終わったのだろう。


 次に動く時は、ちゃんと守る順番を考えないといけない。


 そう思った時、廊下の向こうから母が顔を覗かせた。


「終わったの?」

「うん」

「お父様、怒っていたでしょう」

「だいぶ」

「でも、ちゃんと最後まで話を聞いたのね」

「うん」


 母は少しだけ笑って、それから柔らかい声で言った。


「あなたも、お父様に似て頑固だから」


 それだけ言われると、返す言葉がなかった。


 頑固。

 多分、そうなのだろう。

 前世でも、折れているようで肝心なところは変えられなかった。

 今も同じだ。


 そして、その頑固さがきっと次の喧嘩の火種になる。


 家を守る現実と、彼女の隣にいたい感情が、同じ方向を向いてくれるほど、この物語は甘くない。

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