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異世界転生した俺、婚約破棄された氷姫の仮恋人になっただけなのに、なぜか本気で好かれてる気がするけど本人が絶対に認めない  作者: 御上常陸介寛浩


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17/20

第17話 翌朝、氷姫は何事もなかった顔をしている

昨夜のことを、なかったことにできる人間は強い。


 いや、正確には、なかったことにしたような顔をできる人間が強いのだと思う。


 どれだけ心が揺れても、どれだけ言葉が胸に残っていても、翌朝には何事もなかったように立ち、いつも通りの声で挨拶をして、昨日と同じ形の顔をしてみせる。そういう人間は、多分、ずっとそうやって生きてきたのだろう。


 そして、セレスティア・フォン・ルーヴェンという少女は、まさにそういう人間だった。


「おはよう」


 翌朝、ルーヴェン家の馬車へ乗り込んだ俺を迎えたのは、いつもと寸分違わぬ声音だった。


 冷たすぎず、親しすぎず、感情を見せすぎず。氷姫と呼ばれる公爵令嬢として、最も隙のない温度。


「おはようございます」

 俺も返す。


 それだけだ。


 それだけなのに、俺の方はまるで落ち着かなかった。


 昨夜、夜会実習のあと。

 広間から少し離れたテラスで、セレスティアは“終わると少し困る”と言った。

 いや、正確には、“今の形がなくなるのは少し困る”と。

 俺もまた、“終わってほしくない”みたいなことを、かなり危うい言い方で返してしまった。


 あれは何だったのか。


 いや、何だったのかは分かる。

 少なくとも、ただの仮恋人ごっこの台本には入っていないやり取りだった。

 それを分かっているからこそ、今朝のこの“いつも通り”が妙にくる。


 セレスティアは窓の外を見ている。

 銀髪は今日も乱れなく、制服姿も完璧だ。

 横顔は綺麗で、そして綺麗すぎるほど昨日までと同じだった。


 何事もなかったみたいに。


 だが、それがむしろ不自然だった。


「何」

 いきなり言われて、肩がわずかに揺れた。

「え?」

「さっきから視線が落ち着かないわ」

「……そんなにですか」

「そんなに」


 即答だった。


 やっぱり分かりやすいらしい。

 最近ずっと言われているが、今日の俺は特にひどい自覚がある。


「別に、何でもないです」

「それも最近よく聞くわね」

「便利な言葉なので」

「嫌なところだけ学習が早いのね」


 少しだけ、ほんの少しだけ口元がやわらぐ。

 だがすぐに元へ戻る。


 やっぱり、なかったことにするつもりではないのかもしれない。

 ただ、“先にそこへ触れる必要はない”と判断しているだけで。


 そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。

 でも同時に、ますますこっちが落ち着かなくなるから困る。


 馬車が石畳を進む音だけがしばらく続いたあと、セレスティアが不意に言った。


「今日も学園の空気は穏やかではないでしょうね」

 助かった。

 現実的な話題だ。

「夜会実習の件ですか」

「ええ。それに、殿下とのやり取りも広まるでしょう」

「でしょうね」


 あれだけ人目のある場でやったのだ。広がらない方がおかしい。


「でも、悪いことばかりではないと思います」

 俺が言う。

「何が?」

「少なくとも、“噂で好き勝手に作られた氷姫像”だけではなくなってる」

「そう簡単に覆るかしら」

「覆らなくても、揺らせれば十分です」

「揺らす、ね」

「はい。

 冷酷で一方的に切られるだけの令嬢なら、ああいう返しはしない。

 見てた人間の中に、そのズレが少しでも残れば、それで」


 セレスティアはしばらく黙ってから、小さく頷いた。


「……昨日より、言葉が整っているわね」

「朝なので」

「関係ある?」

「朝の方が余計なことを言う前に頭が回る気がします」

「気がするだけでしょう」

「否定はしません」


 そこで会話が切れる。

 けれど気まずくはない。

 昨日までの沈黙とは少し違う。

 互いに“昨夜のことを覚えている”と分かった上で、今はあえてそこへ飛び込まない沈黙だった。


 その“分かっている”感じが、またじわじわ困るのだが。


 学園へ着くと、案の定、空気はもう変わっていた。


 正門をくぐった瞬間から、視線の質が昨日までと違う。

 前までは、婚約破棄と仮恋人という珍妙な見世物を見る目だった。

 今朝はそこへ、別の意味が混ざっている。


 面白がりだけではない。

 測り直している。

 昨夜の夜会実習で見たものを持ち帰って、“あれは結局どういう関係なのか”をそれぞれが再計算しているような目だった。


「見られてますね」

 俺が小声で言うと、

「今さらでしょう」

 セレスティアが返す。

「今までより少し方向が違います」

「ええ。昨日の時点で、ただの噂話では済ませづらくなったもの」


 彼女は当然のように歩き続ける。

 その横へ並びながら、俺は周囲の断片的な囁きを拾う。


「昨日、殿下に……」

「でも、ちゃんと踊ってたわよね」

「仮の恋人って本当なの?」

「ルーヴェン様、やっぱり怖い……でも」

「アルヴェルって、ただの馬鹿じゃないのかも」


 最後のやつは、褒められているのかどうか微妙だ。


 教室へ着くと、その空気はさらに濃くなった。

 誰もあからさまには絡んでこない。

 だが昨日までのような露骨な軽視や、“どうせすぐ崩れる”という見方が少しだけ後退しているのが分かる。


 つまり、今は観察の段階だ。


 前の席の真面目そうな男子が、朝一番で振り返ってきた。


「昨日の夜会、見た」

「……見てたのか」

「見える位置にいた」

「それはどうも」

「一つ聞いていいか」

「内容によります」

「本当に、あの場で殿下へ返すつもりでいたのか」

「半分くらいは」

「半分」

「もう半分は、その場の流れです」

「そうか」


 彼は少しだけ眉を寄せたあと、小さく言った。


「少なくとも、思っていたより軽くはないらしいな」

「誰がですか」

「お前が」


 それだけ言って前を向く。


 妙に真面目な評価だった。


 周囲の空気にも似たものがある。

 まだ味方ではない。

 まだ信用でもない。

 でも、“最初に貼られた雑なラベル”だけでは片づけにくくなっている。


 それが少しだけありがたかった。


 午前の授業は意外なほど平穏だった。


 紙の件を面白がっていた生徒たちも、今日はあまり露骨な態度を見せない。

 礼法担当の教員ですら、昨夜の実習を受けてか、俺たちへ妙な視線を向けなくなっていた。


 だがその分、逆にやりづらい。


 何も起こらない時間ほど、頭が勝手な方向へ回るからだ。


 セレスティアが教本へ目を落とす横顔。

 何かを考える時に少しだけ細くなる目。

 指先で頁をめくる仕草。

 誰かに声をかけられた時の温度の切り替え方。


 昨日の夜会で、

 “今だけ本当に恋人みたいに振る舞って”

 と言った声。

 テラスで、

 “今の形がなくなるのは少し困る”

 と漏らした時の、あのほんの少し弱い声。


 どれも頭から離れない。


 これ、わりとまずいなと、改めて思う。


 しかも困ることに、セレスティア本人も少しだけ変だった。


 変、というほど大きくはない。

 だが、いつもならもっとすぐに切ってくる場面で、一拍遅れることがある。

 俺が話しかけた時の返事が、ほんの少しだけ柔らかい瞬間がある。

 そして何より、目が合う回数が微妙に増えている気がする。


 もちろん全部気のせいかもしれない。

 こういう時の人間は、都合よく見たいものを見る。

 分かっている。

 分かっているが、意識してしまうものは仕方がない。


 昼休みになり、フィオナがやってきた瞬間、彼女は開口一番で言った。


「何その空気」

「どの空気ですか」

 俺が返すと、フィオナは目を細める。

「二人とも、“昨夜何かありました”みたいな顔してる」

「何もないわよ」

 セレスティアが即答する。

「その速さが怪しいんだって」

「怪しくないわ」

「じゃあエイトくんは?」

「何もないです」

「うわ、両方同じ返し」


 フィオナは心底面白そうだった。


 やめてほしい。

 この人は本当に、ちょっとした温度差を見逃さない。


「昨夜、夜会のあとも少し残ってたんでしょう?」

「少しだけです」

「へえ」

「へえ、って」

「その“少しだけ”の中身が気になるのよ」

「気にしないでください」

「無理」


 セレスティアが小さく息をつく。


「フィオナ、暇なの?」

「割と」

「迷惑ね」

「でも、二人とも朝から何か妙じゃない?」

「妙じゃないわ」

「妙じゃないです」


 また声が揃ってしまった。


 フィオナが吹き出す。


「ほら」

「何が」

 セレスティアがじろりと見る。

「息合いすぎ」

「……」

「……」


 その言葉に俺もセレスティアも、一瞬だけ黙った。


 息が合いすぎ。


 それは多分、今もっとも触れられたくないところだった。


 フィオナはにやにやしている。

 完全に分かってやっている顔だ。


「別に悪いことじゃないわよ?」

「そういう問題じゃないです」

 思わず俺が言う。

「じゃあどういう問題?」

「……いろいろです」

「便利な言葉」

「最近そればっかり言われるな」

「事実だから」


 そこでフィオナは、急に少しだけ真面目な顔になった。


「でも、一個だけ言っとく」

「何」

 セレスティアが訊く。

「今の空気、嫌いじゃないけど、外で出しすぎると危ないよ」

「どういう意味?」

「昨日までの噂は、“氷姫が冷酷”とか“下級貴族が取り入ってる”とか、そういう外から分かりやすいラベルだった」

「ええ」

「でも、もし今度“本当に二人ともそういう空気なんだ”って認識され始めたら、もっと別の方面から突かれる」


 別の方面。


 その言葉が少し引っかかった。


「別の方面って?」

 俺が訊く。

「たとえば、

 “仮恋人のくせに本気になってるんじゃないか”とか、

 “公爵令嬢が下級貴族へ感情で判断を鈍らせている”とか」

「……」

「今までより、ずっと面倒」


 それは確かにそうだ。


 冷酷な氷姫という噂なら、理性的な振る舞いで崩せる。

 だが“本当にお互い気にしている”みたいな話になれば、それはもうこちらの内面の問題へ近づいてくる。

 そしてそこは、一番防御しづらい。


 セレスティアもそれを理解したのか、ほんの少しだけ表情を引き締めた。


「忠告として受け取っておくわ」

「そうして」

 フィオナは軽く肩をすくめる。

「私は面白いから見てるけど、見てるだけの人ばかりじゃないから」

「それは分かってる」

「うん。分かってるから言うの」


 その会話のあと、フィオナはさすがにそれ以上茶化さなかった。

 去っていく前に一度だけ俺の方を見て、意味深に笑ったけれど。


 あの人、多分かなりのことに気づいてるな。

 そして面白がりながらも、本気で警告してくれている。

 ありがたいが、ありがたさが重い。


 午後の授業が終わる頃には、俺もセレスティアも、朝より少しだけ平静を取り戻していた。


 取り戻した、と思う。

 少なくとも見た目には。


 放課後、ルーヴェン家の馬車へ向かう途中、並んで歩きながらセレスティアが言った。


「フィオナの言葉、半分は余計だけれど」

「半分は?」

「正しいわ」

「やっぱり」

「ええ」


 夕方の廊下には、人の姿がまばらだった。

 窓から差す光が長く床へ伸び、足音だけが静かに響く。


「あなたも」

 セレスティアが続ける。

「少しだけ、顔に出しすぎ」

「善処します」

「努力ではなく」

「分かってます」


 そこで少しだけ、俺は迷った。


 でも、黙っているのも違う気がした。


「セレスティア様」

「何」

「俺だけじゃなくて、そっちも少し」

「何が」

「昨日より、返事が柔らかいです」

「……」

「気のせいじゃなければ」

「気のせいよ」

「即答」

「その指摘に、どう返せばいいの」


 珍しく、少しだけ困ったような声音だった。


 俺は思わず笑いそうになる。


「その感じです」

「どの感じ」

「人間らしいやつ」

「またそれを言うの」

「だめですか」

「……だめではないけれど」


 そこで会話が少し途切れる。


 この“だめではないけれど”の曖昧さが、今の俺にはやたらと刺さる。


 馬車へ乗り込む。

 扉が閉まる。

 向かい合う。

 静かな空間が戻ってくる。


 少しの沈黙のあと、セレスティアがぽつりと言った。


「昨日のこと」

「はい」

「なかったことにはしていないわ」

「……」

「あなたが変に意識しているのは分かるけれど」


 そこまで言って、彼女は少しだけ視線を逸らした。


「私も、少しは意識しているから」


 心臓が跳ねた。


 その一言は、あまりにも不意打ちだった。


「え」

「だから」

 セレスティアが小さく息をつく。

「何事もなかったみたいな顔をしていても、全部なかったことになったわけではないという意味よ」


 そこまで言うと、彼女はまた窓の外を見る。

 耳が、ほんの少しだけ赤い。


 俺はしばらく言葉を失った。


 だめだろ、そんなの。

 それを言われたら、ますますちゃんと意識してしまう。


「……困ります」

 思わず本音が漏れた。

「何が」

「そういうこと、あっさり言うの」

「言っていないでしょう」

「だいぶ言ってますよ」

「どこが」

「全部」

「雑ね」

「こっちは必死なんです」


 そこで、セレスティアがほんの少しだけ笑った。

 まただ。

 しかも、今度は最初から隠しきれていない柔らかい笑いだった。


 やっぱり困る。


 でも、その困り方は前より少し違う。

 ただ振り回されているだけではない。

 相手も少しだけ同じように落ち着いていないのだと分かってしまったからだ。


 それは、嬉しい。

 でもやっぱり、危うい。


 俺たちはまだ何も言っていない。

 好きだとも、終わってほしくないとも、仮では苦しいとも。

 その一歩手前で、ぎりぎり止まっている。


 だからこそ、多分、今はいちばん揺れやすい時期なのだろう。


 馬車がアルヴェル家の前へ着いた時、俺は扉へ手をかけながら思った。


 何事もなかった顔をしているのは、セレスティアだけじゃない。

 俺だって多分、同じだ。


 終わるのが嫌だと、まだ言えない。

 でも、その“まだ”が、少しずつ苦しくなってきている。


 そして、その苦しさを誤魔化していられる時間は、案外もう長くないのかもしれなかった。

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