第16話 氷姫は俺の隣で、初めて弱さを見せた
王子という生き物は、言葉を飾るのがうまい。
いや、王子に限らない。身分の高い人間ほど、真正面から殴るより、笑いながら足元を崩すやり方に慣れているのだと思う。前世の会社でも、偉くなるほど怒鳴らなくなった。代わりに、静かな声で逃げ道を奪う。
だからこそ、レオンハルト・ヴァルディアの「相手がずいぶん軽いな」という一言は、思った以上に重かった。
広間の空気が一気に冷える。
音楽はちょうど止んだところだった。だから余計に、その一言だけが妙にはっきり響いた。誰も露骨に息を呑んだりはしない。けれど周囲の視線がこちらへ集まり、会話の流れがわずかに止まり、場全体が“次を待つ空気”になる。
これが王子の一言なのだろう。
ただの悪口ではない。
その場の全員に“どう見るべきか”を示す号令に近い。
レオンハルトは笑っていた。柔らかく、親しみやすく、誰が見ても非の打ち所のない王子の微笑み。その顔のまま、さっきの言葉を言ったのだから性質が悪い。
隣で、セレスティアの空気がすっと冷えたのが分かった。
けれど彼女は即座には返さなかった。
多分、今この瞬間に最適な言葉を選んでいる。
俺もまた、半歩遅れて呼吸を整える。
ここで感情的になったら終わる。
王子に向かって噛みつく下級貴族。
それだけで絵になる。
そして向こうは、多分それを少し期待している。
レオンハルトは続ける。
「いや、誤解しないでほしい。私は君個人を侮っているわけではない」
その言い方がまず厄介だった。
「ただ、ルーヴェン公爵家の令嬢に寄り添う相手としては、いささか荷が軽いと言っただけだ。婚約というのは個人の感情だけで成り立つものではないからね」
婚約。
感情だけで成り立つものではない。
そこへ本物の話を混ぜてくるのか、と内心で舌打ちしたくなった。
周囲が聞いている。
そして聞いている側は、“王子として当然の現実的な指摘”に聞こえやすい。
だから余計に厄介だ。
セレスティアがようやく口を開く。
「殿下のお気遣いには感謝いたしますわ」
声音は冷静だった。
「ですが、私が誰を隣へ置くかは、婚約や家同士の話とは別のところで決めております」
「別のところ?」
レオンハルトがわずかに眉を上げる。
「ええ。少なくとも今の私に必要なのは、家格の釣り合いより、並んで立てる相手ですもの」
その言葉に、広間の空気がまた一段揺れる。
強い。
強いが、危うい。
今のは“感情で選んでいる”と言っているわけではない。だが聞きようによっては、王子の言う“正しい婚約観”より、自分の判断を優先しているとも取れる。社交の場でそこまで言うのは、かなり踏み込んでいる。
レオンハルトの笑みは崩れない。
崩れないが、目だけが少し細くなった。
「なるほど。では、その“並んで立てる相手”が、どの程度のものか興味があるな」
来る。
そう思った瞬間だった。
「殿下」
自分でも驚くくらい自然に、俺の口が動いていた。
セレスティアがわずかにこちらを見る。
だが止めはしない。
その一瞬だけで、“行けるなら行け”と伝わった気がした。
息を吸う。
「軽い、というお言葉はその通りかもしれません」
まず認める。
ここで全部を否定したら嘘になる。俺は下級貴族の次男で、公爵令嬢の隣に立つにはどう見ても軽い。そこは覆らない。
「ですが」
俺は続ける。
「軽いことと、価値がないことは、同じではないと思っています」
数秒の沈黙。
広間の何人かが、明らかにこちらを見直したのが分かる。
レオンハルトも、今度は少しだけ笑みを薄くした。
「ほう」
「俺は、公爵家の事情も、王家の利害も、全部を知っているわけではありません。殿下のように生まれながらに背負っているものもない。そこは否定しません」
「だろうね」
「でも」
ここで引くわけにはいかない。
「少なくとも、セレスティア様が今どんな目で見られていて、何を一人で背負わされているかは見ています」
「……」
「それを見ている人間が隣に立つのと、見ていても誰も前へ出ないのとでは、軽さの意味は少し変わるんじゃないでしょうか」
自分でも、だいぶ危ない橋を渡っていると思う。
王子を責めてはいない。
だが、“誰も前へ出なかった”という事実は、ここにいる多くの人間の胸にも刺さる言い方だ。
もちろん、王子にも。
空気が張る。
レオンハルトの目が、今度ははっきりと俺を捉えた。
笑顔のままだが、さっきまでの余裕を演出する笑みとは少し違う。
「面白いことを言う」
「恐縮です」
「だが、君は自分のしていることを美化しすぎていないか? 人を哀れんで手を差し出すのは、たいてい差し出した側の自己満足で終わる」
それは、かなり鋭い。
図星に近い部分もある。
俺が最初に前へ出たのは、理屈ではなく感情だった。
見ていられなかったから。
放っておけなかったから。
その一点は否定できない。
だから一瞬だけ、言葉が詰まりかけた。
だがその時、隣から静かな声が入る。
「自己満足で結構ですわ」
セレスティアだった。
俺も、レオンハルトも、そして多分その場の多くの人間も、一瞬だけ彼女を見る。
セレスティアは王子をまっすぐ見返していた。
冷たく、凛として、でも今までの氷だけではない強さをまとって。
「殿下が私を見限った理由が、王家の利害であれ、ご自身の判断であれ、それは構いません」
静かな声。
「ですが、そのあとに誰が私の隣へ立つかまで、殿下に評価される筋合いはありません」
「セレスティア」
「それとも殿下は、婚約を解いたあともなお、私の立ち位置までお決めになるおつもりですか?」
広間が、完全に静まり返った。
強い。
強すぎる。
そして同時に、その言葉はかなり危うい。
王子へ真正面から“そこまで干渉するつもりか”と問い返している。
礼は崩していない。
言葉も上品だ。
だが中身はかなり踏み込んでいる。
レオンハルトの笑顔が、今度こそ少しだけ薄くなった。
「……君は変わらないな」
「ええ。そう簡単には」
そのやり取りの直後、少し離れた位置で見ていた教員の一人が、さすがに空気を変えようとしたのか、小さく咳払いをした。
だがもう遅い。
今の場で、一番印象を残したのは誰か。
それは明らかだった。
レオンハルトはそこで、ふっと元の笑みに戻る。
「なるほど。実習とはいえ、よい余興を見せてもらった」
その言い方だけは、最後まで人の癇に障る。
「今後も、その“並んで立てる関係”とやらが続くといいね」
それだけ言って、彼は優雅に踵を返した。
取り巻きたちもそれに続く。
去っていく背中は堂々としていて、最後まで王子らしい。
だが、多分――完全に勝った顔ではなかった。
広間の空気はまだ張っている。
誰もすぐには話し始めない。
今のやり取りがそれだけ強かったということだ。
俺はようやく息を吐いた。
「……心臓に悪いですね」
思わず小声で言うと、
「今さら?」
セレスティアも小声で返した。
その声音が少しだけ硬い。
さっきまで気を張っていた反動だろうか。
教員がようやく実習の流れを戻そうと、生徒たちへ次の指示を飛ばし始める。広間全体もゆっくりと元のざわめきへ戻っていく。だが視線だけはまだこちらに残っていた。
当然だ。
王子と元婚約者、そしてその隣の下級貴族。
今のやり取りは、実習の一場面としては濃すぎる。
俺たちはそのまま次の待機位置まで下がった。
歩きながら、セレスティアが小さく言う。
「さっきの」
「はい」
「悪くなかったわ」
「珍しいですね、即時評価」
「勘違いしないで。よかったのは最初だけ」
「最初だけ?」
「“軽い”を認めたところ。あれで向こうの土俵から半歩外れられた」
「後半は?」
「少し熱かった」
やっぱりそこは見抜かれるか。
俺は苦笑する。
「図星でした?」
「少し」
「ですよね」
「でも、許容範囲」
「それはどうも」
「ただし」
「ただし?」
「次はもっと冷静に」
「はい」
その“次”という言い方に、妙に現実味があって笑えない。
だが、さっきの場でセレスティアと息が合っていたのも事実だった。
俺が前へ出る。
彼女が拾う。
彼女が斬る。
俺が少しだけ言葉の向きをずらす。
演習だけではなく、こういう場でもそれができた。
思っていたより、俺たちは同じ方向を向けるらしい。
その感覚は、正直少しだけ高揚する。
だから困る。
実習の後半は比較的平穏だった。
平穏といっても、周囲の視線は相変わらず濃い。
フィオナは途中でこちらへ来て、にやにやした顔で言った。
「すごかったね」
「見てたでしょう」
俺が言うと、
「見てたわよ。あんなおいしい場面、見逃すわけないじゃない」
悪びれない。
「でも」
そのあと、少しだけ真面目な顔になる。
「かなり効いたと思う」
「どっちに?」
セレスティアが訊く。
「両方。王子派にはもちろん。あと、見てる側にも」
フィオナは広間を見回す。
「“冷酷な氷姫”だけじゃ、今のやり取りは成立しないもの。
それに、エイトくんも、ただ庇われるだけの人じゃなかった」
「それはよかった」
「でも」
フィオナが俺を見る。
「最後の方、少しだけ本気で怒ってたでしょ」
「……」
「顔に出てた?」
「少し」
「まずいな」
「でも、ぎりぎり抑えてたわ」
セレスティアが言う。
「え」
「事実よ」
「褒めてます?」
「今のは褒めている」
「おお」
フィオナが吹き出した。
「そういうとこよ、二人とも」
「何がですか」
「息合いすぎ」
否定したい。
だが、さっきの一連の流れを思い返すと、否定しきれないのが悔しい。
実習が終わり、広間が解散の流れになる頃には、最初のざわつきとは違う種類の空気が残っていた。
噂を面白がっていた視線。
婚約破棄を見世物として消費していた視線。
そこに、少しだけ“本当にどういう関係なのか”を測る真剣さが混ざっている。
それは決して悪い変化ではない。
俺たちはただの都合のいい笑い話ではなくなりつつある。
だが、本番はまだ終わっていなかった。
夜会実習のあと、広間から出て廊下へ向かう途中で、セレスティアが少しだけ歩みを緩めたのだ。
「大丈夫ですか」
俺が小声で訊くと、
「平気」
いつもの返事。
だがその声が、ほんの少しだけ硬い。
そのまま人の少ないテラスへ出たところで、彼女はようやく足を止めた。
夜風が少しだけ冷たい。
実習用の灯りが遠くに見え、広間の音楽の余韻がわずかに届いている。
俺たちはしばらく並んで立っていた。
沈黙。
今までなら、俺の方が先に何か言っていたかもしれない。
だが今日は、言葉を急がない方がいい気がした。
やがて、セレスティアがぽつりと言う。
「……疲れたわ」
その一言は、思った以上に小さくて、思った以上に人間らしかった。
俺は少しだけ目を見開く。
あの大広間で、王子と真正面からやり合い、一歩も引かなかった人の口から出るには、あまりにも素直な声だったからだ。
「そうでしょうね」
俺は静かに返す。
「思ってた以上に、嫌な顔を見るの」
「レオンハルト殿下ですか」
「それだけじゃないわ」
セレスティアは手すりへ軽く指を置いた。
「周囲の目。
誰が味方で、誰が面白がっていて、誰がどちらに乗るか測っているのか。
全部見えるから、余計に疲れるの」
夜風が銀髪を少しだけ揺らす。
その横顔は綺麗で、でも今はそれだけじゃなかった。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ解けかけている顔だ。
「毎回ああなんですか」
俺が訊く。
「社交の場では、だいたい似たようなものよ」
「きついですね」
「きついわ」
即答だった。
その即答が、妙に胸に来た。
セレスティアは続ける。
「婚約破棄の場だけで終わると思っていたのに」
「終わらなかった」
「ええ。終わってくれない」
その言い方に、初めてはっきりと疲労が滲んでいた。
いつもは氷の仮面で隠しているもの。
大広間でも、教室でも、噂の中でも、兄の前でも見せなかったもの。
それを今、俺の隣で、ほんの少しだけ外している。
多分これが、この人にとっての“弱さ”なのだろう。
泣くわけでも、取り乱すわけでもない。
ただ、疲れたと口にすること。
終わってくれないと漏らすこと。
それだけのことが、この人にはきっととても難しい。
「……それでも、今日のはよかったと思います」
俺は言う。
「慰め?」
「半分は」
「残り半分は?」
「本当にそう思ってます」
セレスティアは小さく息を吐いた。
「今日、殿下に言い返した時」
俺は続ける。
「俺、ちょっと焦りました」
「なぜ」
「強すぎて」
「何それ」
「いや、本当に。
あの場で、あそこまで言えるんだなって」
「言わないと立てないもの」
「そうですね」
「……でも」
セレスティアが少しだけ視線を落とす。
「あなたが隣にいたから、言えた部分もあるわ」
心臓が、また大きく鳴った。
今のは、だいぶ危険な言葉だ。
俺はどう返せばいいのか分からず、一瞬だけ黙った。
だがごまかすのも違う気がした。
「俺もです」
「え?」
「今日、殿下に返せたの、セレスティア様が先に立ってくれるって分かってたからです」
「……」
「一人だったら、多分あそこまで言えませんでした」
セレスティアはしばらく黙って、それからほんの少しだけ目を細めた。
「そう」
「はい」
「なら、おあいこね」
「ですね」
その“ですね”が妙に自然に出たことに、自分で少し驚く。
テラスの夜風が、二人の間を抜けていく。
広間のざわめきは遠い。
ここだけ少し、別の場所みたいに静かだ。
セレスティアは手すりから指を離し、俺の方を向いた。
「エイト」
「はい?」
「……今だけ、本当に恋人みたいに振る舞って、って言ったでしょう」
「言いましたね」
「恥ずかしいから忘れなさい」
「無理です」
「即答」
「無理なものは無理です」
「本当に、そういうところだけ頑固ね」
呆れたように言いながら、セレスティアの口元がほんの少しだけ緩む。
まただ。
また笑った。
だが今度は、それを見ても前みたいにただ困るだけではなかった。
嬉しいし、困るし、でも嬉しい。
そういうどうしようもない感情に、ようやく少しだけ名前がつきそうになる。
けれど、まだ言えない。
言えるはずがない。
だから俺は、せめて少しだけ正直に言った。
「……終わってほしくないですね」
「何が」
「今日みたいに、ちゃんと並んで立てる感じ」
「……」
「まだ、ですけど」
“まだ”を足したのは、逃げだ。
全部言ってしまう勇気がなかった。
セレスティアはその言葉をしばらく黙って受け止めてから、やがて本当に小さな声で言った。
「……私も、少し困るわ」
その意味を、すぐには理解できなかった。
「困る?」
「終わると」
彼女は視線を少しだけ逸らす。
「今の形が、なくなるのは」
今までで一番、弱い声だった。
大広間でも、教室でも、兄の前でも、こんな声は出さなかった。
氷姫でも、公爵令嬢でもなく、ただ一人の少女が、本音を少しだけこぼしたような声。
胸が痛いくらいに熱くなる。
でも、やっぱりまだ言えない。
だから俺は、どうにか平静を保ちながら返す。
「じゃあ、しばらくは終わらせないように頑張ります」
「そうして」
「はい」
「勘違いしないで」
「はい」
「今のは、仮恋人としての話よ」
「分かってます」
「本当に?」
「……努力します」
「そこは努力なのね」
「完全に分かってるって言うと、たぶん嘘になるので」
セレスティアは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
その笑顔は、前よりずっと自然だった。
やっぱり、夜会で一番危険なのは敵じゃない。
こうして少しずつ、仮の距離が本物みたいに見えてくる瞬間そのものだ。




