第15話 夜会で一番危険なのは、たぶん敵じゃない
戦場には、分かりやすい敵がいる。
剣を持って向かってくる相手。
露骨な悪意を隠さない相手。
名前と立場が見えていて、“ああ、こいつは敵だな”と理解できる相手。
だが本当に危険なのは、むしろそうじゃない時だ。
たとえば、きらびやかな灯りの下で、優雅な音楽が流れていて、誰も剣なんて抜かない場所。誰もが微笑んでいて、礼儀正しく、上品に振る舞っていて、それでも一歩間違えば人間関係も評判も立場も全部まとめて持っていかれるような場所。
つまり、夜会である。
その日の朝、教室へ入るなり、担任のフェルナー教員が妙に厳かな顔で告げた。
「本日の午後、礼法実践の一環として夜会実習を行う。正式な社交の場を模した形式で、各自、パートナーと組んで出席すること」
その瞬間、教室の空気がざわついた。
当然だろう。夜会実習なんて、要するに“貴族子弟として外面を完璧に作れるか試します”という時間だ。しかもパートナー制。今日みたいな日にそれをやる意味があるのかと言われれば、多分“ある”のだろう。貴族社会において、そういう場から逃げるという選択肢は存在しないから。
だが俺にとって重要なのは別の一点だった。
パートナー制。
つまり――
「当然、セレスティア様とですね」
俺が小声で言うと、
「当然よ」
セレスティアが即答した。
迷いがない。こっちはわりとある。というかだいぶある。
昨日や一昨日で、俺はようやく自分の感情があまりよろしくない方向へ動き始めていることを認めざるを得なくなった。そして今日、その状態で“正式な夜会を模した場へ、パートナーとして出る”と言われている。
敵がどうこう以前に、俺の心臓が危ない。
「顔色が悪いわよ」
セレスティアが言う。
「気のせいです」
「今日は朝から二回目」
「数えてるんですか」
「目につくだけ」
それが一番怖いんだよなあ、と思ったが口には出さない。
教員は教壇の上で続ける。
「礼装は実習室で着替えを用意する。女性はドレス、男性は夜会用礼装。パートナーとして入場、基本的な挨拶、会話、エスコート、そして一曲分のダンスを課題とする」
一曲分。
その一言だけで、教室のあちこちから小さなため息や笑いが漏れる。緊張しているのは俺だけではないらしい。
だが多分、今この教室で最も逃げたいのは俺だろう。
夜会。
パートナー。
一曲分のダンス。
そして相手はセレスティア・フォン・ルーヴェン。
無理だろ。
いや、無理ではない。無理ではないが、精神衛生上よろしくない。
フィオナが後ろから身を乗り出してくる。
「よかったわね」
「何がですか」
「逃げ場がなくて」
「ひどい」
「でも見ものだもの」
「その感想が一番ひどい」
「大丈夫よ。二人とも見た目は完璧だから」
「見た目“は”ってつけました?」
「つけた」
「正直だなあ」
セレスティアが小さく息をつく。
「フィオナ、今のうちに言っておくけれど、あなたが余計なことを吹き込んだら許さないわ」
「吹き込まないわよ」
「本当に?」
「ちょっとしか」
「駄目ね」
「駄目だな」
思わず俺も同意したら、フィオナが楽しそうに笑った。
この人は本当に、面白いイベントの匂いを嗅ぎつけると元気になるタイプらしい。
午後の準備は、思っていた以上に大掛かりだった。
学園内の一角にある大広間が、簡易的とはいえ完全に夜会仕様へ整えられている。魔導灯の柔らかな光、壁際に並ぶ装飾花、磨かれた床、楽団席まで用意されている。ここまでやるのか、と素直に感心してしまうくらいだ。
感心している場合ではないのだが。
男子更衣室で夜会用の礼装を渡された時、俺は軽く絶望した。
「似合わない気がする」
思わず呟くと、近くで着替えていた前の席の真面目そうな男子がちらりとこちらを見る。
「そうでもない」
「慰めですか」
「半分は」
「半分は?」
「楽しみ半分」
「ひどいな」
それでも、袖を通して鏡を見ると、思っていたほど悲惨ではなかった。濃紺を基調にした簡素な夜会礼装で、上級貴族のような過剰な装飾はない。下級貴族の家格に合わせた控えめな仕立てだろう。だがそのぶん、変に身の丈に合わない感じがせず助かった。
問題はそのあとだった。
広間の手前で待機していると、女子側の更衣室の扉が開き、何人もの令嬢たちが順に出てくる。皆きれいだ。普段の制服姿とは印象が違う。教室で見るのとは別の生き物みたいに見える。
そして、その中にセレスティアが現れた瞬間、広間の空気がほんの少しだけ止まった気がした。
青銀のドレスだった。
淡い氷色から深い蒼へゆるやかに色を変える布地。肩と腰のラインを不自然にならないぎりぎりで美しく見せる仕立て。銀糸の刺繍が灯りを受けるたびに細かく光る。髪はいつもより少しだけ緩くまとめられ、首筋と耳元が見える分、普段の“氷姫”よりもずっと柔らかく、そして危険なほど綺麗だった。
危険、という表現が一番しっくりくる。
綺麗すぎるものを目の前にすると、人は一瞬だけ言葉を失うのだと知った。
「……」
俺が無言になったのを見て、セレスティアが少しだけ眉を寄せる。
「何」
「いや」
「何よ」
「……すごく、似合ってます」
どうにか絞り出せたのがそれだった。
もっと気の利いたことが言えないのか自分。だが、変に飾ったところで余計に怪しくなるだけな気もする。
セレスティアは一瞬だけ目を見開き、それからすぐに視線をそらした。
「そう」
短い返事。
「それだけ?」
「十分では?」
「……そうね」
耳が、ほんの少しだけ赤いように見えたのは、灯りのせいだと思いたい。
だがその直後、フィオナが横からにゅっと現れる。
「エイトくん」
「何ですか」
「今の、だいぶよかったのに最後で弱い」
「うるさい」
「もっとこう、“綺麗すぎて困る”とか」
「言えるか」
「言ったら面白いのに」
「絶対言わない」
「惜しいなあ」
この人、本当に敵ではないのに危険だ。
セレスティアはフィオナをじとっと見た。
「あなた、本当に黙っていられないのね」
「だって今の空気、ちょっと可愛かったし」
「何が」
「二人とも」
「フィオナ」
「はいはい、消えるわよ」
そう言いながらも、口元に面白そうな笑みを浮かべたまま離れていく。
やっぱり一番危険なの、あの人なんじゃないか。
夜会実習は、教員たちの妙に本格的な司会進行で始まった。
各組は順番に名を呼ばれ、広間へ入場し、所定の位置で挨拶を交わす。周囲には他の生徒たちもいるし、教師陣も見ている。完全な本番ではない。だが“練習だから”で逃げられるほど甘い空気でもない。
「ルーヴェン、アルヴェル」
呼ばれた瞬間、背筋が勝手に伸びた。
セレスティアが小さく言う。
「前を見て」
「はい」
「呼吸を整えて」
「はい」
「今さら逃げないで」
「逃げませんよ」
「顔に書いてあるわ」
「そんなに?」
「そんなに」
扉が開く。
広間の光が差し込み、俺たちは並んで歩き出した。
入場の視線が集まる。
昨日までの噂や婚約破棄の余波があるせいか、ルーヴェン公爵令嬢とその“仮恋人”への注目度は明らかに高い。
だが今この場で必要なのは、その視線に飲まれないことだ。
セレスティアは当然のように歩く。歩幅、姿勢、顔の角度、すべてが整っている。俺も必死でそれに合わせる。
広間中央近くで止まり、教員へ一礼。
次に、パートナー同士の基本会話。
「本日はご一緒できて光栄です」
俺が言う。
「こちらこそ」
セレスティアが返す。
言葉自体は教本通りだ。だがその短いやり取りの中にも、彼女は自然に俺へ視線を合わせてくる。冷たすぎず、近すぎず、でもちゃんと“パートナーとして見ている”と伝わる距離感。
すごいな、と純粋に思う。
この人、本当にこういう場の作り方を分かっている。
そこから軽い会話のやり取りを挟み、いよいよダンスへ移る。
教員が告げる。
「男性側は女性を中央へ導き、一曲分、基本ステップを守って踊ること。相手を不安にさせない。見ている者に違和感を与えない。以上」
見ている者に違和感を与えない。
つまり、演技であっても本物らしく見せろ、ということだ。
なんて難易度の高い課題だろう。
俺が手を差し出すと、セレスティアは静かにその手を取った。昨日までの礼法実践より、今日の方がずっと近い。手だけではなく、肩口、腕、視線の高さまで全部が意識に入る。
「落ち着きなさい」
また小声で言われる。
「それ、何回目ですか」
「今日は三回目くらい」
「多いな」
「必要だからよ」
音楽が始まる。
一拍、二拍。
足を出す。
引く。
回る。
何度か練習した基本の流れだ。練習した。したのだが、実際に広間の中央で、こんな格好をしたセレスティアを相手にやると話が全然違う。
近い。
そして、意識するなという方が無理だ。
「エイト」
「はい」
「右」
「え、あ」
「足」
危ない。ステップがずれるところだった。
セレスティアは顔を変えないまま、でもこちらの崩れそうなところを細かく拾ってくる。昨日までの演習と同じだ。俺が乱れそうになる瞬間を見て、短い言葉で修正する。
そのおかげで、どうにか形は保てている。
それでも途中、音楽が少し盛り上がるところで、俺はまた危うく視線を逸らしかけた。
だめだ。
ドレス姿が綺麗すぎる。
しかも今この距離で、目が合うたびに少しだけ違う表情が見える。
いつもの氷の顔だけじゃない。緊張を隠した静けさも、わずかな集中も、そして時々ほんの少しだけ緩む口元も。
何これ。
敵より危ないの、多分こっちだろ。
「今だけ」
セレスティアが小さく言った。
「本当に恋人みたいに振る舞って」
心臓が止まりかけた。
「……っ」
「聞こえた?」
「聞こえました」
「なら、もう少し自然に」
自然にできるか。
だが、その一言で逆に腹が決まる部分もあった。
仮でも、今この場ではそう見せる必要がある。
それが俺たちの今の戦い方だ。
俺は呼吸を整え、視線を正面へ戻した。
「失礼します」
「何が」
「今、少しだけ近づきます」
「許可を取らなくていいわ」
その返しが少しだけ柔らかくて、また危ない。
でも今度は、崩れなかった。
ステップを合わせ、手の位置を整え、回る。
目が合う。
セレスティアの表情は相変わらずきれいで、少しだけ硬い。
けれど、その硬さの奥で俺に合わせてくれているのが分かる。
演習と同じだ。
俺が作る小さな隙間に、彼女が正確に入ってくる。
俺が乱れそうな瞬間を、彼女が拾う。
逆に、俺も彼女のテンポに乗って少しずつ動けるようになる。
不思議なほど、途中から息が合っていた。
曲が終わる頃には、広間のざわめきが少しだけ変わっていた。
“面白いものを見る目”から、“あれ、思ったよりちゃんとしている”という目へ。
それだけで十分だ。
最後の礼を終え、俺たちが一歩引いた瞬間――
「見事だな」
その声は、いかにも“今が一番いいタイミングだ”と分かっている人間の声だった。
第一王子レオンハルト・ヴァルディア。
周囲の空気が一気に張りつめる。
きらびやかな装い。整った笑み。完璧な王子の顔。
そしてその視線は、まずセレスティアへ、次に俺へと流れた。
来た。
やっぱり来るよな。
夜会で一番危険なのは、たぶん敵じゃない。
“敵であることを笑顔で隠せる相手”だ。
レオンハルトは柔らかな声で言う。
「婚約破棄のあとで、ここまで立て直すとは思わなかった」
褒め言葉にも聞こえる。
だが、その中にあるのは明らかな値踏みだ。
セレスティアは表情を変えない。
「殿下にご心配いただくほどではありませんわ」
「そうか。だが――」
そこで王子の視線が俺へ向いた。
「相手がずいぶん軽いな」
空気が凍った。
やっぱり、笑顔で来る相手が一番厄介だ




