第14話 終わるのが嫌だと、まだ言えない
人は、自分の感情に名前をつけられない時がある。
いや、もっと正確に言えば、名前は薄々分かっているのに、その名前を口にした瞬間いろいろ終わる気がして、あえて別のものとして扱おうとするのだ。
気になる、を、気を遣っているだけだと思い込む。
寂しい、を、状況が面倒なだけだと言い換える。
終わってほしくない、を、まだ必要だからだと理屈で塗る。
今の俺は、多分その全部をやっていた。
翌朝、目が覚めてからしばらく、寝台の上で天井を見つめていた。
別の縁談が来るかもしれない。
仮の恋人に、本物の縁談は重すぎる。
でも今はまだ終わりじゃない。
勝手に自分を繋ぎだと決めるな。
――そう言ったセレスティアの声が、昨日からずっと頭に残っている。
ありがたかった。
安心もした。
けれど、それだけで済んでいない自分がいる。
もし本当に何かが決まったら。
もし“今”が必要でなくなったら。
もしこの距離が、最初からなかったことみたいに解消されたら。
そこまで考えて、俺は顔を覆った。
「いや、だめだろ……」
何がだめなのか、自分でも分かっている。
仮だ。
最初からそういう話だ。
向こうは公爵令嬢で、こっちは下級貴族の次男で、しかも身分差以前に、今の関係は危機対応みたいなものだ。そこへ勝手に感情を足し始めたら、だいたいろくなことにならない。
前世でも見た。
仕事で近かっただけなのに、それを特別だと勘違いして自滅する人。
少し優しくされたからといって、自分だけ違うと思い込む人。
そういうのは大体、相手も自分も困らせる。
だから、まだ言えない。
終わるのが嫌だなんて。
そもそも、そこまで言える立場ですらない。
食堂へ降りると、父がいつものように無口な顔で新聞めいた書類を読んでいた。母はスープをよそい、兄は先に席についている。アルヴェル家の朝は相変わらず慎ましい。慎ましいが、その慎ましさの中にも最近は“息子が公爵令嬢と仮恋人をしている”という意味不明の現実が混ざっている。家族の適応力ってすごいなと思う。
「エイト」
父が書類から目を上げる。
「はい」
「最近、お前は朝から考え込みすぎだ」
「そんなにですか」
「そんなにだ」
兄が先に言った。
「昨日なんか、食事の途中で三回くらいパンを持ったまま止まってたぞ」
「本当ですか」
「本当よ」
母まで乗ってきた。
まずい。家でもだいぶ顔に出ている。
俺は観念して椅子に座った。
「ちょっと考えることが多くて」
「学園の件か」
父が言う。
「はい」
「そうだろうな」
短い会話だったが、その中に“余計な詮索はしないが、無関心でもない”という父らしい距離感があった。助かる。今ここで詳しく聞かれても、多分うまく説明できない。
終わるのが嫌だ、なんて、家族にすら言えない。
というか、自分の中でもまだそれを正面から認めたくない。
朝食を終えて屋敷の玄関を出ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。門前にはいつものようにルーヴェン家の馬車が待っている。見慣れたはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。
“今”の象徴みたいに見えたのだ。
この馬車に毎朝乗って、セレスティアと向かい合って、学園へ行く。
そんな日常は、ほんの少し前までなかった。
そして、もしかすると、そう長く続くものでもないのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥にまた妙な重さが広がる。
ミレーユが扉を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「顔色が優れませんね」
「朝に弱いので」
「最近それしか言いませんね」
「便利な言葉なので」
「嫌なところだけお嬢様に似てきました?」
「それは光栄……なんですかね」
「知りません」
相変わらず冷たい。だが少しだけ会話が続くようになったのは、多分前よりは警戒が薄れたからだろう。
馬車へ乗ると、セレスティアがすでに座っていた。
「おはよう」
いつもの声。
「おはようございます」
俺も返す。
それだけのやり取りなのに、今日は妙に意識する。
昨日の話の続きがあるわけではない。セレスティアの表情もいつも通りだ。整っていて、冷たくて、美しい。どこから見ても“氷姫”だ。
なのに俺の方だけ、勝手に“今がいつまで続くのか”なんてことを考えている。
最悪だな、と思う。
「また変な顔をしているわ」
案の定、セレスティアが言った。
「最近、その指摘多くないですか」
「多いわね」
「そんなに変ですか」
「そんなに変」
即答だった。
俺は窓の外に視線を逃がした。だめだ。今日は本当にだめだ。昨日より落ち着かない。
「何を考えてるの?」
セレスティアが訊く。
「いろいろです」
「便利な言葉ね」
「最近よく言われます」
「曖昧にしている時ほど、あなたはそう言う」
「鋭いですね」
「見ていれば分かるわ」
その一言に、少しだけ息が詰まる。
見ていれば分かる。
この人は本当に、そういうところを見逃さない。
だから余計に、誤魔化しが効かない。
けれど全部を言う勇気もない。
「学園の噂のこともあるし」
俺は少しだけ本当のことを混ぜる。
「縁談の話もあるし、考えることは増えました」
「そうね」
「だから少し落ち着かないだけです」
セレスティアはしばらく黙っていた。
その沈黙に、俺は少しだけ身構える。
“それだけ?”と見透かされる気がして。
だが彼女は、意外にもそのまま話題を続けた。
「昨日、兄上から家に連絡が入ったわ」
「早いですね」
「兄上はそういう人よ」
「何て?」
「縁談の件は、正式な打診が来る前にこちらで条件を見極める、と」
「条件」
「家格、利害、王家との距離、今後の社交界への影響」
「うわあ」
「うわあ、で済む話ではないわ」
その通りだった。
でも、つい出た。だって重すぎる。世界が違う。
「だから、今すぐに何かが動くわけではない」
セレスティアが言う。
「はい」
「少なくとも、私の方ではまだ何も決めていない」
「……そうですか」
「ええ」
その“まだ”に少しだけ引っかかる。
まだ決めていない。
つまり、いずれ決める時が来る。
当たり前の話なのに、今はその当たり前が重い。
俺は小さく息を吐いた。
「何」
セレスティアが言う。
「いえ」
「また何か考えたわね」
「最近本当に見抜かれてますね」
「分かりやすすぎるのよ」
彼女はそこで少しだけ表情をやわらげた。
「何でもかんでも一人で考えて、勝手に沈むの、やめなさい」
「難しいですね」
「難しくても」
「……はい」
そのやり取りだけで、少しだけ胸が軽くなる。
この人は、無駄に優しいわけじゃない。
甘い言葉で持ち上げることもしない。
でも、必要なところではちゃんと止める。
それが分かっているから、余計に離れたくなくなる。
だから困る。
午前の授業は比較的平穏だった。
比較的、だ。
噂は完全には消えていない。視線も残っている。だが紙の件が出回ってすぐの頃ほどの勢いはなくなっていた。フィオナが探ってくれている流れと、俺たちが見せてきた“噂だけでは片づかない姿”が少しずつ効いているのかもしれない。
礼法の授業中、教員に指摘されている俺を見て、何人かが小さく笑った。
だがその後、セレスティアがさらりとフォローを入れたことで、その笑いは広がらなかった。
魔法理論の時間、紙の件を面白がっていたらしい男子が、今日は露骨に話題へ触れなくなっていた。
少しずつ。
本当に少しずつだが、空気は変わっている。
けれど俺の内側は、あまり変わらなかった。
むしろ、静かな時間ほど昨日の言葉が蘇る。
縁談。
まだ決まっていない。
今はまだ終わらない。
勝手に終わったことにするな。
そこへ、昨日まで見たセレスティアの人間らしい表情が重なる。
こんなの、意識しない方が無理だろう。
昼休み、中庭の端の人が少ないベンチで、俺は一人で水を飲みながら空を見ていた。
教室にいればフィオナが茶化してくる。
セレスティアのそばにいれば余計に意識する。
少しだけ、一人で頭を冷やしたかった。
だが、そういう時に限ってちゃんと見つかるのが、この世界の厄介なところだ。
「ここにいたのね」
声がして振り向くと、セレスティアが立っていた。
銀髪が昼の光を受けて、少しだけ柔らかく見える。
「すみません、勝手に」
「別に責めていないわ」
「そうですか」
「でも、黙って消えないで」
「……はい」
そこへそんな言い方をされると、また困る。
セレスティアは俺の隣までは来ず、少し距離を空けて立った。
視線は中庭の花壇の方へ向いている。
「一人で考えたかったの?」
「まあ、少し」
「答えは出た?」
「出てないです」
「でしょうね」
小さく息をつく気配。
それから彼女は、少しだけ迷うような間を置いて言った。
「……私も、少し似たようなものだから」
「え?」
「考えるときは、一人になることが多いの」
「意外ですね」
「何が」
「いや、セレスティア様って、誰かに相談しなくても全部整理してそうなので」
「そんな便利な頭をしていたら苦労しないわ」
「……そういう言い方もするんですね」
「どんな言い方よ」
「少しだけ、弱音っぽいというか」
「勘違いしないで。ただの事実よ」
「はい」
そう返したあと、少しだけ沈黙が落ちた。
風が吹く。
花壇の花が小さく揺れる。
中庭の遠くでは、他の生徒たちの話し声がざわめきとして聞こえる。
その穏やかな時間の中で、俺はふと思う。
もし本当にこの関係が終わったら、こういう時間もなくなるのだろうか。
馬車の中の会話も、教室でのやり取りも、こうして立ち止まることも。
その想像が、思っていたよりずっと嫌だった。
けれど、まだ言えない。
言ってしまえば、多分、いろんなものが変わる。
「何」
セレスティアがまた言う。
「いえ」
「今日は本当にそればかりね」
「すみません」
「謝る前に、少しは話しなさい」
その声は強くない。むしろ、少しだけ困っているように聞こえた。
俺はベンチの端を見つめながら、言葉を選ぶ。
「……もし」
「何」
「本当に縁談の話が進んだら、その時はどうするんですか」
「どうする、とは」
「今の……その、俺たちのこと」
「仮恋人のこと?」
「はい」
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「分からないわ」
「分からない」
「ええ。その時にならないと」
即答できない、その事実が妙に胸へ残る。
そして多分、それは彼女が誤魔化しているわけではない。
今の時点で簡単に答えられるような話ではないのだ。
家の事情も、社交界の流れも、王家との関係もある。
たった二人の感情だけで決められるものではない。
――感情だけで決められるものではない。
そこまで考えて、自分で少し苦笑した。
まるで感情がもう動いているみたいな考え方だ。
いや、多分、動いているのだろう。
だからこんなに落ち着かない。
「でも」
セレスティアが続ける。
「少なくとも、私の方から“もう必要ない”と切るつもりはない」
「……」
「そういう意味で聞いたのでしょう?」
「はい」
その一言で、胸の奥にじわっと熱が広がった。
嬉しい。
それを認めるのはちょっと悔しいが、嬉しい。
けれど同時に、その“切るつもりはない”が今の話でしかないことも分かる。
先の保証じゃない。
今の否定であって、未来の約束ではない。
だから、まだ言えない。
終わるのが嫌だなんて、言えるわけがない。
「……ありがとうございます」
俺が言うと、セレスティアはほんの少しだけ眉を寄せた。
「その言い方だと、まるで私があなたを見捨てかけたみたいじゃない」
「そういうつもりじゃ」
「分かっているわ」
「はい」
「でも、変にしおれないで」
「そんなにしおれてました?」
「かなり」
「そうですか……」
「情けないわね」
「ひどい」
「事実よ」
やっぱりこの人は甘くない。
甘くないけれど、だからこそ安心する部分もある。
そこでふと、セレスティアが俺の方を見た。
「あなた」
「はい」
「もしかして」
「何ですか」
「終わるのが嫌なの?」
どくん、と心臓が鳴った。
思わず息が詰まる。
見抜かれた。
いや、完全ではないにせよ、核心にだいぶ近いところを突かれた。
どうする。
ここで正直に言うか。
いや、無理だ。無理に決まってる。
そんなことを今言ったら、仮の関係も、今の距離も、全部一気に変質する。
俺は視線を逸らした。
「……今の状況が、やっと少し形になってきたところですから」
精いっぱいの、ごまかし半分の本音だった。
「だから、崩れるのは嫌です」
「状況が、ね」
「はい」
「……そう」
セレスティアはそれ以上追及しなかった。
けれど、その“そう”の中に、どこまで納得しているのかは分からない。
分からないが、追わないでくれたことに少しだけ救われた。
「私も」
セレスティアが小さく言う。
「今の形が、ようやく落ち着いてきたところだとは思ってる」
「え」
「だから、簡単に崩したくはない」
「……そうですか」
「ええ」
その言葉は、予想以上にまっすぐだった。
仮だとか、本当だとか、そういう整理を全部飛び越えて、ただ“今の形を崩したくない”と言われた気がした。
それだけで、今日一日中胸を圧迫していたものが少し軽くなる。
でも、その軽さに甘えてはいけないとも思う。
だからまだ、言えない。
中庭から教室へ戻る途中、俺たちはほとんど何も話さなかった。
だが気まずいわけではなかった。
むしろ、言葉にしないものが少しだけ共有されたような、不思議な静けさだった。
放課後、馬車へ向かう前にフィオナとすれ違った時、彼女は俺たちを一目見て、妙に意味深な笑みを浮かべた。
「何ですか、その顔」
俺が言う。
「別に?」
「絶対別にじゃない」
「まあ、二人とも少し落ち着いた顔してるから」
「そうですか」
「ええ。話したんだなって」
「……フィオナさんって、時々怖いですね」
「ありがとう」
「褒めてません」
「知ってる」
フィオナはそう言って笑い、それ以上は何も言わなかった。
けれど、あの人の目には多分、俺たちが何か少しだけ前へ進んだように見えたのだろう。
進んだのかどうかは分からない。
ただ少なくとも、俺は今日、はっきり自覚した。
終わるのが嫌だ。
でも、それをまだ言えない。
言ってしまえば、今ある“仮”の均衡が壊れる気がするから。
だから今は、まだこのままでいるしかない。
このまま、少しずつ近づいて、少しずつ困って、少しずつ自分の気持ちを誤魔化しながら。
そうしているうちに、きっと次の面倒ごとがまた来る。
夜会実習という、逃げ場のない形で。




