第13話 仮の恋人に、本物の縁談は重すぎる
本物、という言葉は厄介だ。
仮に対して本物。
代わりに対して本命。
今だけに対して、その先まで続くもの。
言葉だけなら簡単だ。けれど人間は、その区切りを頭で理解した瞬間に、急に足元が不安定になることがある。
俺にとって、その“本物”は、思っていたよりずっと重かった。
ルーヴェン家の嫡男リュシアンが学園を去ったあと、午後の授業はろくに頭へ入らなかった。魔法理論も歴史講義も、教師の声は耳に届いているのに意味として残らない。代わりに頭の中では、あの短い言葉だけが何度も反芻されていた。
――近いうちに、妹へ別の縁談が持ち込まれる。
当然だ。
公爵令嬢セレスティア・フォン・ルーヴェンは、つい数日前まで第一王子の婚約者だった。婚約破棄があったからといって、価値が消えるわけではない。むしろ、王家との結びつきが揺らいだ今だからこそ、別の高位貴族や有力家門との縁組が持ち上がるのは、貴族社会ではごく自然な流れだろう。
頭では分かっている。
分かっているのに、胸の奥で妙なざわつきが止まらない。
仮恋人。
今だけ隣にいる人間。
必要だから置かれている立場。
そこへ“本物の縁談”が来る。
じゃあ俺は何なんだ、という問いが、どうしても頭のどこかに浮かんでしまう。
分不相応だ。
そんなことを考えること自体が。
それでも、考えずにはいられない。
授業が終わり、放課後の教室に残ったざわめきの中で、俺は自分の机に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。いつもならフィオナが顔を出したり、ミレーユが迎えに来たり、セレスティアが何か一言置いていったり、そういう流れがある。だが今日は、そのどれが来てもまともに返せる自信がない。
「……エイトくん」
案の定、最初に来たのはフィオナだった。
伯爵令嬢らしい整った制服姿で、けれど今日はいつもの軽すぎる笑顔を少し抑えている。こういう時のこの人は、空気を読んでいるようでいて、読みながらちゃんと刺すことも忘れない。
「どうしたの、死にそうな顔して」
「死にはしません」
「でも今、“人生終わったみたいな顔”してる」
「そこまでですか」
「そこまで」
断言された。
俺は軽く顔を覆いたくなった。そんなに分かりやすいのか。いや、多分分かりやすいのだろう。朝からセレスティアにも何度か指摘されていたし、最近の俺は自分が思っているよりずっと顔に出るらしい。
フィオナは俺の机の端へ腰を預けるようにして、少し声を落とした。
「ルーヴェン家のご嫡男、来てたんでしょ」
「情報早いですね」
「早いわよ。私はそういう生き物だもの」
胸を張って言うことではない気もするが、この人の場合、実際そうだから反論しづらい。
「で?」
フィオナが小首を傾げる。
「何を言われたの」
「いろいろです」
「雑」
「公爵家の嫡男に“お前を信用していない”って真顔で言われると、わりと削られるんですよ」
「でしょうね」
そこは即同意された。
「でも、それだけじゃない顔してる」
フィオナはじっとこちらを見た。
「もっと面倒なこと言われた?」
「……縁談の話が」
「縁談?」
今度は彼女の笑みが完全に消えた。
「セレスティア様に?」
「近いうちに、別の縁談が来るかもしれないって」
「……ああ」
フィオナが息をつく。
「そっち、来たんだ」
その反応で分かる。
貴族社会では、やはりそれは十分あり得る話なのだ。俺だけが勝手に“まだ先のこと”だと思っていたにすぎない。
「そんな顔になるか」
フィオナがぽつりと言う。
「なりますよ」
「仮とはいえ?」
「仮とはいえ、です」
そこまで言ってから、自分の言葉の重さに少しだけ後悔した。
フィオナは数秒黙って、それから珍しく茶化さずに言った。
「そういうとこ、正直ね」
「良くない方ですか」
「今の学園だと危ない方。でも、嫌いじゃない」
それは慰めなのか評価なのか分からない。多分この人の中では両方なのだろう。
「セレスティア様は何て?」
「“今すぐ何かが変わるわけじゃない”って」
「……そう」
「でも、それで安心できるほど俺も単純じゃないみたいで」
「そういうところだけ賢いのよね」
ひどい言い草だ。だが否定もできない。
フィオナは少し考えるように目を伏せたあと、軽く肩をすくめる。
「まあ、来るでしょうね。本当に」
「そんなにはっきり」
「当たり前じゃない。公爵令嬢よ? しかも婚約破棄のあとで、なおさら“次にどこへ結び直すか”って話になる」
「……分かってはいます」
「うん、分かってる顔してる。でも納得してない顔でもある」
痛いところばかり突いてくる。
だがそれが、この人の優しさの形でもあるのかもしれない。甘くぼかさず、見えていることは見えていると言う。そういう誠実さがある。
「エイトくん」
「はい」
「今、変な方向に焦らないでね」
「変な方向?」
「仮の恋人なのに、本物の席を取りにいくみたいな」
「そんなこと」
「考えてない?」
「……」
否定が一拍遅れた。
終わった。
フィオナは目を細めた。面白がるというより、半分呆れている目だ。
「やっぱり危ない」
「いや、別に、取りにいくとかじゃなくて」
「なくて?」
「……終わるかもしれないって意識したら、ちょっと落ち着かないだけです」
「それ、だいぶ危ない方の言い方だけど」
「自覚はあります」
フィオナは小さく息を吐いた。
「そこは正直なんだ」
「良くないですよね」
「今の段階では、ね」
その“今の段階では”が、妙に引っかかった。だが問い返す前に、教室の入り口側から気配がした。
セレスティアだった。
今日も放課後の光を受けて、銀髪が淡く光っている。背筋は真っ直ぐで、表情はいつも通り整っている。周囲から見れば、今日も完璧な氷姫だ。
けれど今の俺には、その完璧さが前より少しだけ“無理をして保たれているもの”に見える。
「……迎えに来たわ」
セレスティアが言う。
「ありがとうございます」
俺が立ち上がると、フィオナがにやっと笑った。
「じゃ、私はここまで。
エイトくん、変にこじらせないようにね」
「何をですか」
「いろいろ」
「雑だなあ」
「そのくらいでちょうどいいの」
フィオナはひらりと手を振って去っていった。
セレスティアがその背中を見送り、それから俺へ視線を戻す。
「何を言われたの」
「そんなに顔に出てました?」
「少し」
「少しで済んでるなら多分ましです」
「質問に答えて」
「……縁談の話のことを」
「そう」
それだけ言うと、セレスティアはそれ以上追及しなかった。
むしろ追及しないこと自体が、妙に胸へくる。
この人も多分、その話題が軽くないと分かっているのだ。
ルーヴェン家の馬車に乗り込み、いつものように向かい合って座る。
扉が閉まり、外のざわめきが遠ざかる。静けさが戻る。戻るのに、今日はその静けさがいつもより少しだけ重く感じた。
しばらくどちらも口を開かなかった。
俺は窓の外を見るふりをして、言葉を探していた。何を言えばいいのか分からない。
“縁談なんて嫌です”は身の程知らずだし、
“おめでとうございます”も違う。
“関係ないです”と言えるほど、もう自分をごまかせない。
沈黙に耐えきれなくなったのか、それとも俺の気配がうるさかったのか、先に口を開いたのはセレスティアだった。
「何を考えているの?」
声は冷たくもないし、優しくもない。ただまっすぐだった。
俺は一瞬だけ迷ったあと、曖昧に逃げるのをやめた。
「……縁談のことを」
「そう」
「本当に来るんだなって」
「来る可能性は高いわ」
「やっぱり」
「当たり前でしょう。私は公爵家の娘よ」
「はい」
分かってる。
でも、分かるのと平気なのは違う。
俺が黙っていると、セレスティアが静かに言った。
「あなた、今それを“終わり”と結びつけてるでしょう」
「……」
図星だった。
返事ができない俺を見て、セレスティアは少しだけ目を伏せる。
「分かりやすいわね」
「そんなにですか」
「そんなによ」
そこまで言われると、もう否定しても仕方がない。
「だって」
俺は小さく息を吐く。
「仮の恋人に、本物の縁談って、だいぶ重いじゃないですか」
「重い?」
「そりゃそうでしょう。
こっちは“今必要だから隣にいる”って立場で、向こうは家と家の話で、ちゃんと先まで続くかもしれないもので」
「……」
「比べるまでもないって、頭では分かってます」
「でも?」
「でも、ちょっときます」
言ってしまった。
思っていたよりも、ずっと率直に。
馬車の中にまた沈黙が落ちる。
セレスティアはすぐには何も言わなかった。怒るかもしれない。呆れるかもしれない。あるいは“勘違いしないで”で切るかもしれない。どれもあり得ると思った。
だが返ってきたのは、少し意外なものだった。
「……比べる話ではないわ」
彼女は窓の外を見たまま言った。
「縁談は、家の都合よ。感情とは別のところで来るもの」
「はい」
「そして、今のあなたと私の関係も、家とは別のところで必要になっている」
「……」
「だから、並べて“どちらが本物か”なんて言い方は好きじゃない」
その言い方が、妙に胸へ残る。
“仮だから軽い”とも、“縁談だから重い”とも単純に切らない。今のセレスティアは、少なくともそういう整理では考えていないらしい。
俺はそっと問い返す。
「じゃあ、どう考えればいいんですか」
「今は今よ」
「それ、答えになってます?」
「なってるわ」
セレスティアはようやくこちらを見た。
「先の話が来るからといって、今の私が一人で立たなければならない状況が消えるわけではない。
今の私に必要なのは変わらない。
そして今のあなたも、勝手にそれを終わったことにしないで」
最後の一言だけ、少し強かった。
勝手に終わったことにしないで。
その言葉を受けて、胸の奥のざわつきが少し違う形に変わる。
安心、に近いのかもしれない。
完全な安心ではない。
縁談が来ること自体は消えないし、身分差も、家の事情も、何も消えない。
それでも、少なくとも今すぐ“役目が終わる”と決まったわけではないのだと、彼女の口から聞けた。
「……分かりました」
俺が言う。
「本当に?」
「努力します」
「努力ではなく、理解しなさい」
「はい」
「返事が軽い」
「軽くしないと、たぶん今ちょっと危ないので」
「何が」
「いろいろです」
セレスティアは少しだけ眉を寄せる。
「あなた、最近“いろいろ”で逃げすぎではなくて?」
「便利な言葉なので」
「嫌なところで学ぶのね」
「セレスティア様に言われたくは」
「何かしら」
「いえ、何でも」
危ない。今のは本当に危ない。
セレスティアは小さく息をついたあと、少しだけ視線をやわらげた。
「……でも」
「はい」
「あなたがそう思ったのなら、先に言うべきだったかもしれないわ」
「何をですか」
「縁談の話が来ても、今すぐあなたを外すわけではないと」
その言い方は、妙に真面目だった。
俺は少しだけ目を見開く。
「気を遣ってくれてるんですか」
「当然でしょう」
「仮恋人として?」
「そうよ」
「そこは絶対なんですね」
「絶対よ」
きっぱりと言われた。
けれど、その“当然でしょう”の中に、ただの役割以上のものを勝手に感じてしまう自分がいる。
だめだ。
本当にだめだ。
こういう時、都合のいい解釈を始める人間はろくなことにならない。
前世でも見た。
ちょっと優しくされたからといって、そこへ意味を足しすぎる人間は、だいたいあとで勝手に傷つく。
分かっている。
分かっているのに――
「何」
また見すぎていたらしい。セレスティアが怪訝そうに言う。
「いえ」
「今日は本当に、視線が落ち着かないわね」
「気のせいじゃないです」
「開き直ったの?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「自制してます」
「足りていないように見えるけれど」
「俺もそう思います」
そこまで言うと、セレスティアはとうとう小さく笑った。
ほんのわずかだ。
けれど、昨日や一昨日よりもはっきりしている。
呆れと、あきらめと、少しの柔らかさが混じった笑いだ。
それを見た瞬間、また困る。
俺が黙り込むと、セレスティアが少し首を傾げた。
「また?」
「はい、またです」
「何が」
「困るんです」
「何が」
「……そういう顔されると」
言ってから、言いすぎたと思った。
いや、かなり言いすぎた。
セレスティアの目がわずかに見開かれる。次の瞬間、彼女は視線をふいと外へ逃がした。
「……知らないわ」
小さな声。
耳が、ほんの少しだけ赤い。
見間違いであってほしいが、多分見間違いではない。
馬車の中の空気が妙に静かになる。
静かで、でも居心地が悪いわけではない。
むしろ、前よりずっと危ない。
沈黙に耐えきれず、俺は話をそらす。
「その、縁談の話ですけど」
「ええ」
「相手って、もう決まってるんですか」
「まだよ。兄上が“近いうちに持ち込まれる”と言っただけ」
「じゃあ、まだ正式じゃない」
「そうね」
「断る可能性は?」
「あるわ」
「受ける可能性は?」
「……それもある」
当然の答えだった。
だが、ちゃんと“ある”と言うのがセレスティアらしい。希望だけで濁さない。現実の可能性を、感情で削らない。
「怖い?」
不意に、セレスティアが訊いた。
俺は少し考えてから答える。
「俺がですか」
「そう」
「……怖い、というか」
「言いなさい」
「何もできないまま決まるのが、一番嫌かもしれないです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
怖い。悔しい。不安。いろいろある。だが一番近いのは、確かにそれだった。俺は下級貴族の次男で、仮恋人で、今ここにいるだけの立場だ。家と家の縁談に口を出せるはずもない。だからこそ、“何もできない”まま話が進む可能性が、一番重い。
セレスティアはしばらく黙ってから言う。
「……なら、何もできないと思わないで」
「え?」
「少なくとも今、あなたはただの飾りではないわ」
「それは」
「あなたが隣にいて、私がそれを否定していない。それだけで、もう周囲の見え方は変わっている」
「……」
「だから、勝手に自分を“繋ぎ”だと決めないで」
その言葉は、静かで、でも強かった。
俺は返事をするのに少し時間がかかった。
「分かりました」
「本当に?」
「今度は努力じゃなくて、本当に」
そう言うと、セレスティアはわずかに頷いた。
そしてその後は、しばらく二人とも何も言わなかった。
王都の夕方が窓の外を流れていく。石畳、街路樹、夕日の色。いつもと同じ景色のはずなのに、今日だけは少し違って見える。
本物の縁談。
仮の恋人。
終わるかもしれない関係。
でも、今はまだ終わらないと言われたこと。
全部が胸の中で混ざり合って、妙に落ち着かない。
けれど、少なくともひとつだけははっきりした。
俺は多分、思っていた以上にこの関係の終わりを怖がっている。
そしてそのこと自体が、もうだいぶ危うい。
馬車がアルヴェル家の前で止まる。
降りる前、俺は一度だけセレスティアを見る。
「今日は」
「何」
「ちゃんと、言ってくれてありがとうございました」
「何を」
「終わったわけじゃないってことを」
「……そう」
セレスティアは少しだけ視線をそらした。
「勘違いしないで」
「はい」
「今のあなたが必要だから言っただけよ」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってるつもりです」
「つもり、ね」
「そこはまだ努力します」
「そう」
その“そう”は、少しだけ柔らかかった。
俺が扉へ手をかけると、最後に彼女がぽつりと言った。
「エイト」
「はい?」
「勝手に落ち込む前に、次からは先に聞きなさい」
「……そうします」
「そうして」
「はい」
馬車を降りる。
冷たい夕方の空気が肌に触れる。
屋敷の方へ歩き出しながら、俺は内心で深く息を吐いた。
仮の恋人に、本物の縁談は重すぎる。
それは変わらない。
けれど、その重さを一人で抱え込む必要はないのかもしれない。
少なくとも、今のところは。
そしてその“今のところ”が、少しずつ惜しくなっている自分を、俺はもうごまかしきれなくなっていた。




