第12話 氷姫の兄は、当然ながら優しくない
世の中には、会う前から「絶対に相性がよくない」と分かる相手がいる。
たとえば、こちらが下級貴族の次男で、向こうが公爵家の嫡男で、しかも妹が“仮恋人”とやらの形でこっちを隣に置いている場合だ。
そんなもの、相性がいいはずがない。
翌朝、馬車の中でその話を聞かされた時、俺は思わず窓の外を見た。
「今日、兄が学園へ来るわ」
セレスティアが言った。
声はいつも通り落ち着いている。だが“兄”という単語を口にした瞬間だけ、ほんの少しだけ空気が硬くなった気がした。
「兄、ですか」
「ええ。リュシアン・フォン・ルーヴェン」
「……お兄様」
「その言い方はやめなさい」
「すみません」
反射で出た。いや、仕方がないだろう。公爵家の嫡男なんて、俺からするとだいぶ遠い存在だ。そもそも今まで生きてきて、そんな相手と個人的に会う機会なんてなかった。
セレスティアは小さく息をつく。
「兄は、あなたのことを気に入っていないわ」
「会う前からですか」
「会う前から」
「理不尽だなあ」
「妹の隣に、昨日まで存在も知らなかった下級貴族の少年がいるのよ?」
「そう言われると、まあ」
「理解できるでしょう」
「はい」
納得はできる。できるが、納得できるからといって気が楽になるわけではない。
ルーヴェン公爵家。王国でも有数の名門。セレスティアが“氷姫”と呼ばれるほど注目を集めるのだから、その兄ともなれば、社交界でも相当な存在感だろう。
そんな人間が“妹の仮恋人”を値踏みに来る。
嫌な予感しかしない。
「どういう人なんですか」
俺が訊くと、セレスティアは少しだけ考えてから答えた。
「優秀よ」
「そうでしょうね」
「頭も切れるし、立場も分かっている。家のために何を優先すべきか、いつも冷静に判断する」
「つまり」
「あなたにとってはかなり厄介」
「やっぱり」
心の準備をしたいのに、準備すればするほど胃が痛くなるタイプの情報ばかり増えていく。
「優しくはないわ」
セレスティアが付け加える。
「俺にも?」
「特にあなたには」
「ですよね」
即答だった。
だが、そこで会話が終わらなかったのは少し意外だった。
「でも」
セレスティアは窓の外を見たまま続ける。
「無意味に人を切るような人ではないわ」
「え」
「少なくとも、兄が動く時は理由がある」
「それ、励ましてます?」
「別に」
「ですよね」
けれどその言い方は、単なる警告だけではなかった。
兄は厄介だ。厳しい。優しくない。
でも理不尽だけで動く人ではない。
そう言いたいのだろう。
妹としての信頼なのか、家の人間としての評価なのかは分からない。だが少なくとも、セレスティアが兄をただ恐れているわけではないことは伝わった。
「……一応、ありがとうございます」
「何に対して?」
「少しだけ心の準備ができました」
「それは結構」
「でも、やっぱり会いたくはないですね」
「それは私も同感だわ」
「えっ」
「何かしら」
「セレスティア様もですか」
「兄に会いたい妹ばかりだと思わないで」
その返しが少しだけ年相応で、思わず笑いそうになる。
するとセレスティアはじとっとこちらを見た。
「何がおかしいの」
「いえ、少しだけ普通の兄妹っぽいなって」
「私たちだって人間よ」
「それ、前にも似たようなこと言いました」
「なら覚えていなさい」
覚えている。むしろ覚えすぎて困っている。
だが今日ばかりは、そんな余計な感傷に浸っている余裕も少ない。今日は、公爵家の兄が来るのだ。しかも多分、俺を試すために。
馬車が学園へ到着すると、朝の空気はやはり少しざわついていた。紙の件は完全には消えていない。けれど、昨日の教室や演習のやり取りもあって、流れはわずかに変わり始めている。
冷酷な氷姫――その印象へ、少しずつ“そうとも言い切れない”という揺らぎが混ざっている感じだ。
その揺らぎを、今日も積み上げていく必要がある。
だが午前の授業が終わる頃には、その話どころではなくなった。
昼前、礼法室から教室へ戻る途中の回廊で、ミレーユが待っていたのである。
いつもの通り隙のない立ち姿。いつもの通り冷たい目。だが今日は、その冷たさの中にわずかな緊張が混じっていた。
「お嬢様」
ミレーユが一礼する。
「お兄様がお見えです」
セレスティアの横顔がほんのわずかに固くなる。
俺も反射的に背筋を伸ばした。
「もう?」
「はい。応接用の小会議室でお待ちです」
「……早いわね」
「“待たせる気か”とのことです」
「そう」
その短いやり取りだけで、兄の性格が少し伝わる。
せっかちというより、“自分が来る以上、相手は準備していて当然”の人なのだろう。高位貴族としては自然なのかもしれないが、下級貴族育ちの俺にはだいぶ胃にくる。
セレスティアが一歩踏み出し、それから立ち止まる。
「エイト」
「はい」
「来なさい」
「……はい」
選択肢はない。いや、あったとしても、この場で逃げるのはもっとまずい。
ミレーユの先導で、俺たちは校舎の奥にある小会議室へ向かった。普段、生徒が使うような場所ではない。来客や高位貴族の家の者との面会に使う部屋だろう。廊下を歩く生徒たちも、ミレーユとセレスティアの空気を察してか、自然と道を開けていく。
そして扉の前で、俺は一度小さく息を吸った。
「緊張しすぎよ」
セレスティアが小声で言う。
「しますよ」
「今さら」
「今さらですけど」
「情けないわね」
「知ってます」
その短いやり取りで少しだけ肩の力が抜けた。
ミレーユが扉を開ける。
中にいた男を見た瞬間、ああ、これは優しくないな、と思った。
リュシアン・フォン・ルーヴェン。
年は二十歳前後だろうか。長身で、セレスティアと同じ銀に近い色の髪を後ろへ流している。顔立ちは整っている。整っているが、妹のような冷ややかな美しさとは違って、もっと鋭い。剣の刃のような印象だ。座っているだけなのに、部屋の空気の重心がそちらへ寄っている。
そして、その目。
青灰色の視線がこちらを向いた瞬間、値踏みされているのがはっきり分かった。いや、“値”がつくかどうかを測られているのかもしれない。
「兄上」
セレスティアが口を開く。
「来たわ」
「見れば分かる」
第一声から優しくない。
リュシアンは立ち上がらなかった。ただ座ったまま、こちらへ視線を向ける。その視線はまずセレスティアを一度確認し、次に俺へ移った。
「それが」
短い言葉だった。
「例の男か」
例の男。
商品説明か何かだろうか。
いや、状況的にはそのくらいの扱いで当然なのかもしれないが。
セレスティアの声が少し冷える。
「エイト・アルヴェルよ」
「知っている」
兄妹だな、と変なところで思った。
言葉が短い。
そして、どちらも切れ味がある。
リュシアンはようやく椅子から立ち上がった。長身のせいで圧が増す。俺より頭半分は高い。体格も無駄なく鍛えられていて、剣を持てば普通に強そうだ。貴族の嫡男として必要なものは全部備えている感じがする。そういう人種がこの世にはいるのだ。
「エイト・アルヴェル」
名を呼ばれる。
「はい」
「座る前に一つだけ聞く」
「何でしょう」
「お前は、自分が何をしているか理解しているか」
来た。
予想通りだ。いや、予想以上に真正面から来た。
昨日アルノーに言われたのと似ているようで、質が違う。向こうは脅しと値踏みが混じっていた。だが目の前の男は、少なくとも今のところは本当に確認している。答えによって切るか残すかを判断する目だ。
「十分ではないと思います」
俺は正直に答えた。
「ですが、分かっている部分はあります」
「曖昧だな」
「曖昧なまま前に出たのは事実なので」
リュシアンの目が少しだけ細くなる。
「逃げる気はないと?」
「今のところは」
「今のところ」
「完全に先を読めるほど、自信はありません」
会議で上司に詰められていた頃の感覚を思い出す。下手に強がると見透かされる。だから全部を見栄で塗るのは悪手だ。でも弱すぎても切られる。こういう時は、“限界を分かった上で逃げていない”くらいがちょうどいい。多分。
リュシアンはしばらく黙ってから、ようやく「座れ」とだけ言った。
助かった。第一関門は通った、ということだろうか。分からないが、立ったまま処刑が始まらなかっただけましだ。
俺とセレスティアが向かいの席へ着く。ミレーユは壁際に控えた。
リュシアンはその様子を一通り見てから、低い声で言う。
「率直に言う。私はお前を信用していない」
「でしょうね」
「口答えができる立場か?」
「すみません」
反射で返してしまった。悪い癖である。
セレスティアが小さく息をつく気配がした。やめてほしい、そんな“やっぱり”みたいな反応は。
リュシアンは続ける。
「妹は婚約破棄の場で、最悪の形で衆目を集めた。そこへ、お前が飛び出した」
「はい」
「結果として、その場を一方向の見世物ではなくしたことは認める」
「兄上」
セレスティアが少しだけ目を見開く。
「意外?」
「少し」
「私は感情でしか物を見ない男ではない」
その返し方がいかにも彼らしい。
リュシアンは視線を俺へ戻す。
「だが、それとこれとは別だ。お前が妹の隣にいる以上、ルーヴェン家にも、妹個人にも、お前の行動の影響が及ぶ」
「分かっています」
「本当に?」
その一言だけ、少しだけ強かった。
「校舎裏へ一人で行った件も含めて?」
「……知ってるんですね」
「当然だ」
そりゃそうか。ミレーユがいるし、セレスティアからも聞いているだろう。
「なら話は早い」
リュシアンは腕を組んだ。
「お前は勇敢ではない。ただ少し判断が甘く、勢いで動く」
「否定できません」
「だが頭が悪いわけでもない」
「それはどうも」
「褒めていない」
「ですよね」
さっきからそればっかりだな、と思ったが口には出さない。
「問題は」
リュシアンが言う。
「その中途半端さが、最も危険だということだ」
中途半端。
その表現は、妙に胸に刺さった。
強いわけでもない。高位貴族でもない。完璧に先を読めるわけでもない。けれど、引くべきところで完全には引けない。確かに中途半端だ。
「兄上」
セレスティアが静かに口を開く。
「そこまでにして」
「なぜだ」
「今のは私にも向いている」
小会議室の空気が一瞬止まった。
リュシアンの目がわずかに揺れる。
俺も思わずセレスティアを見る。彼女はまっすぐ兄を見返していた。冷たい顔のままだが、その奥に確かな意思がある。
「兄上は、エイトを値踏みしたいのでしょう」
「当然だ」
「なら、私ごと値踏みするような言い方はやめて」
言い方がきつい。けれど、その中に兄妹らしい遠慮のなさがある。敬意はある。だが妹として、言うべきことは言う関係らしい。
リュシアンは数秒黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
短い謝罪代わりだった。
そのあと、彼は今度は少し角度を変えた。
「エイト・アルヴェル。お前の家の事情は調べた」
「はい」
「下級貴族としては堅実だ。父親も無茶を好まない」
「それも知ってるんですね」
「妹の周囲にいる人間を調べずに来ると思うか?」
思わない。思わないが、真正面から言われるとやっぱり圧がある。
「だからこそ聞く」
リュシアンの視線が鋭くなる。
「お前は、どこまで妹の隣にいるつもりだ」
部屋の空気が一段重くなった。
どこまで。
それはフィオナに言われた、“どこまでが本当でどこまでが演技か”にも近い問いだった。違うのは、こっちはもっとずっと現実的で、家と立場と責任の話だということだ。
俺はすぐには答えられなかった。
正直に言えば、まだ先のことまでは決めきれていない。仮恋人として今をしのぐ。その間に噂や王子派への対処を考える。そこまでは共有している。だが、その先――例えば、新しい縁談が来た時、王家と公爵家の力学がさらに動いた時、自分がどこまで踏み込めるのかは、まだ分からない。
沈黙が少し長くなった時、セレスティアが小さく言った。
「兄上」
「お前は黙っていろ」
「黙らないわ」
「セレスティア」
「私の話でもあるもの」
兄妹の視線がぶつかる。
冷たさは似ている。だが種類が違う。リュシアンは“家を背負う側の冷静さ”、セレスティアは“家の中で隙を見せずに立ってきた人間の冷静さ”だ。似ているようで、立っている場所が少し違う。
そしてその間に挟まれている俺は、だいぶ場違いだ。
だが逃げるわけにはいかない。
俺は息を吸って、正直に言った。
「どこまで、っていう問いに、今すぐ完璧に答えられる自信はありません」
リュシアンは黙って聞いている。
「でも、少なくとも今は、セレスティア様の隣から簡単に引くつもりはないです」
「理由は?」
「俺が前に出たからです」
「それだけか」
「……それだけ、ではないと思います」
言いながら、自分でも少し驚いた。
それだけではない。何が、とはまだ言えない。いや、多分、言ったら面倒どころでは済まない。
セレスティアが、ほんの少しだけこちらを見た気がした。見るな。今は見るな。余計に意識する。
「少なくとも」
俺は続ける。
「今の段階で“やっぱり無理でした”って引くのは、一番まずいと思ってます」
「なぜ?」
「それをやったら、婚約破棄の場で俺が言ったことも、セレスティア様が今までここで立ってきたことも、全部“結局あの程度だった”にされるからです」
言ってから、少しだけ部屋が静かになった。
リュシアンの目が、最初よりほんの少しだけ変わる。
値踏みというより、見直しに近い何かだ。
「……なるほど」
彼は小さく言った。
「そこまで見えているなら、ただの勢いだけでもないか」
「勢いはありました」
「知っている」
そこで初めて、ほんのわずかだけだが、リュシアンの口元が動いた。笑みというほどではない。だが完全な無表情ではない。
ああ、この人も妹に似ているのかもしれない。
「だが」
彼はすぐに元の顔へ戻る。
「今のお前では足りない」
「それも分かってます」
「分かっているなら、なおさら軽率に動くな」
「はい」
「家格が違う、という意味だけではない。妹の周囲には、もっと面倒な話がいくらでもある」
「……はい」
リュシアンは一拍置いた。
「近いうちに、妹へ別の縁談が持ち込まれる」
その一言で、俺の頭の中が一瞬だけ白くなった。
縁談。
別の。
昨日まで婚約破棄だの仮恋人だので騒いでいた相手に、もう次の話が来るのか。
いや、貴族社会ならおかしくはないのだろう。むしろ、公爵家ほどの立場なら早い方が自然なのかもしれない。王家との関係が揺れたなら、別の結びつきで立て直そうとする動きが出るのは当然だ。
当然なのだが――。
「兄上」
セレスティアの声が少しだけ硬くなる。
「その話を、今ここで?」
「するべきだと判断した」
「まだ確定ではないでしょう」
「だからこそだ」
リュシアンは妹へ向き直る。
「お前が今どこに立っているか、彼にも分かっていた方がいい」
「……」
セレスティアは何も言わなかった。
だがその沈黙は、否定ではなく、飲み込んでいる沈黙に見えた。
俺の胸の奥がざわつく。
縁談。
正式な結びつき。
公爵家同士、あるいは王族に近い家との再編。
そこへ“仮恋人”が割り込める余地なんて、当然あるはずもない。
頭では分かる。
分かるのに、妙に落ち着かない。
それをごまかすみたいに、俺は口を開いた。
「……つまり俺は、そこまでの間の繋ぎ、みたいなものですか」
言ってから、自分で失敗したと分かった。
言い方が悪い。ひねくれて聞こえる。
セレスティアがはっきりと眉を寄せた。リュシアンの目も少し細くなる。
「違う」
セレスティアが先に言った。
「そういう話ではないわ」
「では何だ」
リュシアンが問う。
部屋の空気がまた張る。
セレスティアは一瞬だけ言葉を探すように黙り、それから静かに言った。
「今の私に必要なのは、“正しい形の縁談”ではなく、“ここで一人に見えないこと”よ」
その言葉は、思っていたよりずっとまっすぐだった。
俺は息を止める。
リュシアンも、少しだけ目を見開いたように見えた。多分、妹がそこまで率直に言うのは珍しいのだろう。
「だから」
セレスティアは続ける。
「兄上がエイトを軽く見て切り捨てるなら、それは私の今を見誤っている」
沈黙。
長くはなかった。だが妙に重かった。
やがてリュシアンはゆっくりと息を吐く。
「……なるほどな」
それだけ言って、彼は椅子の背へ軽くもたれた。
「分かった。少なくとも、今の段階でお前を無理に引き剥がすのは得策ではないらしい」
それは誰に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。
「だが、アルヴェル」
「はい」
「お前を認めたわけではない」
「でしょうね」
「それでもまだ口答えを」
「すみません」
反射で返してしまう。いかん。相手が兄だろうと公爵家嫡男だろうと、この癖だけは簡単に治らない。
セレスティアが小さく息をつき、ミレーユは壁際でほんのわずかに目を伏せた。呆れたのだろうか。多分そうだ。
リュシアンはもう一度だけ俺を見る。
「今後、妹の隣に立つなら、少なくとも“場違いなだけの男”で終わるな」
「……はい」
「その程度で折れるなら、最初から近づくな」
「はい」
「そして、妹を泣かせるな」
「兄上」
セレスティアの声が、今度はほんの少しだけ揺れた。
俺も少し驚いた。今の最後の一言は、公爵家の嫡男としてというより、完全に兄の顔だったからだ。
リュシアンは妹を見て、それから短く言う。
「私は忙しい。今日は以上だ」
話を終わらせたのは、意外にもそちらだった。
立ち上がり、彼はミレーユに何か一言だけ確認を飛ばし、そのまま扉へ向かう。去り際、セレスティアの方を振り返りもせずに言った。
「縁談の件は、家へ戻ってから改めて話す」
「……分かったわ」
「お前も準備しておけ」
そして今度こそ、彼は出ていった。
扉が閉まる。
その瞬間、小会議室の空気が一気に緩んだ気がした。
俺は思わず長く息を吐いた。緊張していたらしい。自覚はしていたが、思ったより体が固まっていたようだ。
「情けないわね」
セレスティアが言う。
「いや、無理でしょう」
「兄上に会っただけでその顔?」
「会っただけじゃないです。だいぶ削られました」
「兄上はあれでも手加減していたわ」
「本気だったら死んでますよ」
本気でそう思う。
ミレーユが扉の近くから戻ってきた。
「お疲れ様でした」
「今の、労いですか」
「事実確認です」
「冷たいなあ」
「お嬢様の周囲では標準です」
「否定できませんね」
そこでセレスティアが小さく机へ指を置いた。
「……ごめんなさい」
「え」
思わず聞き返す。
今、この人、謝ったか?
セレスティアは少しだけ視線を伏せていた。
「兄上は、私が呼んだわけではないけれど」
「はい」
「結果的に、あなたへ余計な圧をかけた」
「それは」
「家の事情も、縁談の話も、あなたにはまだ関係ないところまで見せてしまった」
その言い方があまりにも真面目で、逆に困る。
俺は慌てて首を振った。
「いや、それは別に」
「別に?」
「その、確かにびっくりはしましたけど、聞けた方がよかった気もします」
「なぜ」
「さっき兄上……じゃなくて、お兄様が言ったでしょう。俺にも分かっていた方がいいって」
「……」
「正直、縁談の話はだいぶきましたけど」
「きた?」
「かなり」
「そう」
セレスティアが少しだけ目を細める。
やばい。今の“かなりきた”は余計だったかもしれない。変に意味があるように聞こえただろうか。いや、だって実際、妙に落ち着かなかったのは本当だし。
するとセレスティアは数秒黙ってから、静かに言った。
「勘違いしないで」
「はい」
「縁談が来るからといって、今すぐ何かが変わるわけではない」
「はい」
「少なくとも、今の私に必要なのは変わらない」
「……一人に見えないこと、ですか」
「ええ」
その答えが、少しだけ胸の奥に落ちた。
言葉としては現実的だ。感情的な意味はない。ないはずだ。けれど、その“今の私に必要なのは変わらない”という言い方に、妙な安堵を覚えてしまう自分がいる。
だめだな、本当に。
セレスティアは立ち上がった。
「教室へ戻るわよ」
「はい」
「あなたも」
「はい」
「さっきから返事だけは素直ね」
「それしかできない空気だったので」
「賢明ね」
そう言った彼女の口元が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
笑った、というほどではない。けれど、兄が去ったあとの緊張の解け方もあって、その一瞬の変化がやけにはっきり見えた。
やっぱり困る。
笑った顔を見たせいで、そこから先の変化にもいちいち気づいてしまうのだ。
小会議室を出て回廊へ戻ると、学園の日常は何も知らない顔で続いていた。生徒たちの話し声、窓から差す光、遠くの鐘。けれど俺たちの中では、確実に何かが変わっていた。
セレスティアに別の縁談が来る。
兄は俺を認めていない。
それでも今は、無理に引き剥がさない。
そしてセレスティア自身は、“今必要なもの”として俺を隣に置いている。
それは仮だ。
仮の関係でしかない。
そう頭では分かっている。
なのに、胸の奥では別の感情が少しずつ形になりかけている気がした。
そしてその感情は、多分、次の話をもっと厄介にする。
なぜなら、人は“終わるかもしれない”と意識した瞬間に、今ある距離を急に惜しく感じ始めるからだ。




