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異世界転生した俺、婚約破棄された氷姫の仮恋人になっただけなのに、なぜか本気で好かれてる気がするけど本人が絶対に認めない  作者: 御上常陸介寛浩


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12/20

第12話 氷姫の兄は、当然ながら優しくない

世の中には、会う前から「絶対に相性がよくない」と分かる相手がいる。


 たとえば、こちらが下級貴族の次男で、向こうが公爵家の嫡男で、しかも妹が“仮恋人”とやらの形でこっちを隣に置いている場合だ。


 そんなもの、相性がいいはずがない。


 翌朝、馬車の中でその話を聞かされた時、俺は思わず窓の外を見た。


「今日、兄が学園へ来るわ」

 セレスティアが言った。


 声はいつも通り落ち着いている。だが“兄”という単語を口にした瞬間だけ、ほんの少しだけ空気が硬くなった気がした。


「兄、ですか」

「ええ。リュシアン・フォン・ルーヴェン」

「……お兄様」

「その言い方はやめなさい」

「すみません」


 反射で出た。いや、仕方がないだろう。公爵家の嫡男なんて、俺からするとだいぶ遠い存在だ。そもそも今まで生きてきて、そんな相手と個人的に会う機会なんてなかった。


 セレスティアは小さく息をつく。


「兄は、あなたのことを気に入っていないわ」

「会う前からですか」

「会う前から」

「理不尽だなあ」

「妹の隣に、昨日まで存在も知らなかった下級貴族の少年がいるのよ?」

「そう言われると、まあ」

「理解できるでしょう」

「はい」


 納得はできる。できるが、納得できるからといって気が楽になるわけではない。


 ルーヴェン公爵家。王国でも有数の名門。セレスティアが“氷姫”と呼ばれるほど注目を集めるのだから、その兄ともなれば、社交界でも相当な存在感だろう。


 そんな人間が“妹の仮恋人”を値踏みに来る。


 嫌な予感しかしない。


「どういう人なんですか」

 俺が訊くと、セレスティアは少しだけ考えてから答えた。


「優秀よ」

「そうでしょうね」

「頭も切れるし、立場も分かっている。家のために何を優先すべきか、いつも冷静に判断する」

「つまり」

「あなたにとってはかなり厄介」

「やっぱり」


 心の準備をしたいのに、準備すればするほど胃が痛くなるタイプの情報ばかり増えていく。


「優しくはないわ」

 セレスティアが付け加える。

「俺にも?」

「特にあなたには」

「ですよね」


 即答だった。


 だが、そこで会話が終わらなかったのは少し意外だった。


「でも」

 セレスティアは窓の外を見たまま続ける。

「無意味に人を切るような人ではないわ」

「え」

「少なくとも、兄が動く時は理由がある」

「それ、励ましてます?」

「別に」

「ですよね」


 けれどその言い方は、単なる警告だけではなかった。

 兄は厄介だ。厳しい。優しくない。

 でも理不尽だけで動く人ではない。

 そう言いたいのだろう。


 妹としての信頼なのか、家の人間としての評価なのかは分からない。だが少なくとも、セレスティアが兄をただ恐れているわけではないことは伝わった。


「……一応、ありがとうございます」

「何に対して?」

「少しだけ心の準備ができました」

「それは結構」

「でも、やっぱり会いたくはないですね」

「それは私も同感だわ」

「えっ」

「何かしら」

「セレスティア様もですか」

「兄に会いたい妹ばかりだと思わないで」


 その返しが少しだけ年相応で、思わず笑いそうになる。


 するとセレスティアはじとっとこちらを見た。


「何がおかしいの」

「いえ、少しだけ普通の兄妹っぽいなって」

「私たちだって人間よ」

「それ、前にも似たようなこと言いました」

「なら覚えていなさい」


 覚えている。むしろ覚えすぎて困っている。


 だが今日ばかりは、そんな余計な感傷に浸っている余裕も少ない。今日は、公爵家の兄が来るのだ。しかも多分、俺を試すために。


 馬車が学園へ到着すると、朝の空気はやはり少しざわついていた。紙の件は完全には消えていない。けれど、昨日の教室や演習のやり取りもあって、流れはわずかに変わり始めている。


 冷酷な氷姫――その印象へ、少しずつ“そうとも言い切れない”という揺らぎが混ざっている感じだ。


 その揺らぎを、今日も積み上げていく必要がある。


 だが午前の授業が終わる頃には、その話どころではなくなった。


 昼前、礼法室から教室へ戻る途中の回廊で、ミレーユが待っていたのである。


 いつもの通り隙のない立ち姿。いつもの通り冷たい目。だが今日は、その冷たさの中にわずかな緊張が混じっていた。


「お嬢様」

 ミレーユが一礼する。

「お兄様がお見えです」


 セレスティアの横顔がほんのわずかに固くなる。


 俺も反射的に背筋を伸ばした。


「もう?」

「はい。応接用の小会議室でお待ちです」

「……早いわね」

「“待たせる気か”とのことです」

「そう」


 その短いやり取りだけで、兄の性格が少し伝わる。


 せっかちというより、“自分が来る以上、相手は準備していて当然”の人なのだろう。高位貴族としては自然なのかもしれないが、下級貴族育ちの俺にはだいぶ胃にくる。


 セレスティアが一歩踏み出し、それから立ち止まる。


「エイト」

「はい」

「来なさい」

「……はい」


 選択肢はない。いや、あったとしても、この場で逃げるのはもっとまずい。


 ミレーユの先導で、俺たちは校舎の奥にある小会議室へ向かった。普段、生徒が使うような場所ではない。来客や高位貴族の家の者との面会に使う部屋だろう。廊下を歩く生徒たちも、ミレーユとセレスティアの空気を察してか、自然と道を開けていく。


 そして扉の前で、俺は一度小さく息を吸った。


「緊張しすぎよ」

 セレスティアが小声で言う。

「しますよ」

「今さら」

「今さらですけど」

「情けないわね」

「知ってます」


 その短いやり取りで少しだけ肩の力が抜けた。


 ミレーユが扉を開ける。


 中にいた男を見た瞬間、ああ、これは優しくないな、と思った。


 リュシアン・フォン・ルーヴェン。


 年は二十歳前後だろうか。長身で、セレスティアと同じ銀に近い色の髪を後ろへ流している。顔立ちは整っている。整っているが、妹のような冷ややかな美しさとは違って、もっと鋭い。剣の刃のような印象だ。座っているだけなのに、部屋の空気の重心がそちらへ寄っている。


 そして、その目。


 青灰色の視線がこちらを向いた瞬間、値踏みされているのがはっきり分かった。いや、“値”がつくかどうかを測られているのかもしれない。


「兄上」

 セレスティアが口を開く。

「来たわ」

「見れば分かる」


 第一声から優しくない。


 リュシアンは立ち上がらなかった。ただ座ったまま、こちらへ視線を向ける。その視線はまずセレスティアを一度確認し、次に俺へ移った。


「それが」

 短い言葉だった。

「例の男か」


 例の男。

 商品説明か何かだろうか。

 いや、状況的にはそのくらいの扱いで当然なのかもしれないが。


 セレスティアの声が少し冷える。


「エイト・アルヴェルよ」

「知っている」


 兄妹だな、と変なところで思った。

 言葉が短い。

 そして、どちらも切れ味がある。


 リュシアンはようやく椅子から立ち上がった。長身のせいで圧が増す。俺より頭半分は高い。体格も無駄なく鍛えられていて、剣を持てば普通に強そうだ。貴族の嫡男として必要なものは全部備えている感じがする。そういう人種がこの世にはいるのだ。


「エイト・アルヴェル」

 名を呼ばれる。

「はい」

「座る前に一つだけ聞く」

「何でしょう」

「お前は、自分が何をしているか理解しているか」


 来た。


 予想通りだ。いや、予想以上に真正面から来た。


 昨日アルノーに言われたのと似ているようで、質が違う。向こうは脅しと値踏みが混じっていた。だが目の前の男は、少なくとも今のところは本当に確認している。答えによって切るか残すかを判断する目だ。


「十分ではないと思います」

 俺は正直に答えた。

「ですが、分かっている部分はあります」

「曖昧だな」

「曖昧なまま前に出たのは事実なので」


 リュシアンの目が少しだけ細くなる。


「逃げる気はないと?」

「今のところは」

「今のところ」

「完全に先を読めるほど、自信はありません」


 会議で上司に詰められていた頃の感覚を思い出す。下手に強がると見透かされる。だから全部を見栄で塗るのは悪手だ。でも弱すぎても切られる。こういう時は、“限界を分かった上で逃げていない”くらいがちょうどいい。多分。


 リュシアンはしばらく黙ってから、ようやく「座れ」とだけ言った。


 助かった。第一関門は通った、ということだろうか。分からないが、立ったまま処刑が始まらなかっただけましだ。


 俺とセレスティアが向かいの席へ着く。ミレーユは壁際に控えた。


 リュシアンはその様子を一通り見てから、低い声で言う。


「率直に言う。私はお前を信用していない」

「でしょうね」

「口答えができる立場か?」

「すみません」


 反射で返してしまった。悪い癖である。


 セレスティアが小さく息をつく気配がした。やめてほしい、そんな“やっぱり”みたいな反応は。


 リュシアンは続ける。


「妹は婚約破棄の場で、最悪の形で衆目を集めた。そこへ、お前が飛び出した」

「はい」

「結果として、その場を一方向の見世物ではなくしたことは認める」

「兄上」

 セレスティアが少しだけ目を見開く。

「意外?」

「少し」

「私は感情でしか物を見ない男ではない」


 その返し方がいかにも彼らしい。


 リュシアンは視線を俺へ戻す。


「だが、それとこれとは別だ。お前が妹の隣にいる以上、ルーヴェン家にも、妹個人にも、お前の行動の影響が及ぶ」

「分かっています」

「本当に?」


 その一言だけ、少しだけ強かった。


「校舎裏へ一人で行った件も含めて?」

「……知ってるんですね」

「当然だ」


 そりゃそうか。ミレーユがいるし、セレスティアからも聞いているだろう。


「なら話は早い」


 リュシアンは腕を組んだ。


「お前は勇敢ではない。ただ少し判断が甘く、勢いで動く」

「否定できません」

「だが頭が悪いわけでもない」

「それはどうも」

「褒めていない」

「ですよね」


 さっきからそればっかりだな、と思ったが口には出さない。


「問題は」

 リュシアンが言う。

「その中途半端さが、最も危険だということだ」


 中途半端。


 その表現は、妙に胸に刺さった。


 強いわけでもない。高位貴族でもない。完璧に先を読めるわけでもない。けれど、引くべきところで完全には引けない。確かに中途半端だ。


「兄上」

 セレスティアが静かに口を開く。

「そこまでにして」

「なぜだ」

「今のは私にも向いている」


 小会議室の空気が一瞬止まった。


 リュシアンの目がわずかに揺れる。


 俺も思わずセレスティアを見る。彼女はまっすぐ兄を見返していた。冷たい顔のままだが、その奥に確かな意思がある。


「兄上は、エイトを値踏みしたいのでしょう」

「当然だ」

「なら、私ごと値踏みするような言い方はやめて」


 言い方がきつい。けれど、その中に兄妹らしい遠慮のなさがある。敬意はある。だが妹として、言うべきことは言う関係らしい。


 リュシアンは数秒黙ったあと、小さく息を吐いた。


「……そうだな」

 短い謝罪代わりだった。


 そのあと、彼は今度は少し角度を変えた。


「エイト・アルヴェル。お前の家の事情は調べた」

「はい」

「下級貴族としては堅実だ。父親も無茶を好まない」

「それも知ってるんですね」

「妹の周囲にいる人間を調べずに来ると思うか?」


 思わない。思わないが、真正面から言われるとやっぱり圧がある。


「だからこそ聞く」


 リュシアンの視線が鋭くなる。


「お前は、どこまで妹の隣にいるつもりだ」


 部屋の空気が一段重くなった。


 どこまで。


 それはフィオナに言われた、“どこまでが本当でどこまでが演技か”にも近い問いだった。違うのは、こっちはもっとずっと現実的で、家と立場と責任の話だということだ。


 俺はすぐには答えられなかった。


 正直に言えば、まだ先のことまでは決めきれていない。仮恋人として今をしのぐ。その間に噂や王子派への対処を考える。そこまでは共有している。だが、その先――例えば、新しい縁談が来た時、王家と公爵家の力学がさらに動いた時、自分がどこまで踏み込めるのかは、まだ分からない。


 沈黙が少し長くなった時、セレスティアが小さく言った。


「兄上」

「お前は黙っていろ」

「黙らないわ」

「セレスティア」

「私の話でもあるもの」


 兄妹の視線がぶつかる。


 冷たさは似ている。だが種類が違う。リュシアンは“家を背負う側の冷静さ”、セレスティアは“家の中で隙を見せずに立ってきた人間の冷静さ”だ。似ているようで、立っている場所が少し違う。


 そしてその間に挟まれている俺は、だいぶ場違いだ。


 だが逃げるわけにはいかない。


 俺は息を吸って、正直に言った。


「どこまで、っていう問いに、今すぐ完璧に答えられる自信はありません」

 リュシアンは黙って聞いている。

「でも、少なくとも今は、セレスティア様の隣から簡単に引くつもりはないです」

「理由は?」

「俺が前に出たからです」

「それだけか」

「……それだけ、ではないと思います」


 言いながら、自分でも少し驚いた。


 それだけではない。何が、とはまだ言えない。いや、多分、言ったら面倒どころでは済まない。


 セレスティアが、ほんの少しだけこちらを見た気がした。見るな。今は見るな。余計に意識する。


「少なくとも」

 俺は続ける。

「今の段階で“やっぱり無理でした”って引くのは、一番まずいと思ってます」

「なぜ?」

「それをやったら、婚約破棄の場で俺が言ったことも、セレスティア様が今までここで立ってきたことも、全部“結局あの程度だった”にされるからです」


 言ってから、少しだけ部屋が静かになった。


 リュシアンの目が、最初よりほんの少しだけ変わる。


 値踏みというより、見直しに近い何かだ。


「……なるほど」

 彼は小さく言った。

「そこまで見えているなら、ただの勢いだけでもないか」

「勢いはありました」

「知っている」


 そこで初めて、ほんのわずかだけだが、リュシアンの口元が動いた。笑みというほどではない。だが完全な無表情ではない。


 ああ、この人も妹に似ているのかもしれない。


「だが」

 彼はすぐに元の顔へ戻る。

「今のお前では足りない」

「それも分かってます」

「分かっているなら、なおさら軽率に動くな」

「はい」

「家格が違う、という意味だけではない。妹の周囲には、もっと面倒な話がいくらでもある」

「……はい」


 リュシアンは一拍置いた。


「近いうちに、妹へ別の縁談が持ち込まれる」


 その一言で、俺の頭の中が一瞬だけ白くなった。


 縁談。


 別の。


 昨日まで婚約破棄だの仮恋人だので騒いでいた相手に、もう次の話が来るのか。


 いや、貴族社会ならおかしくはないのだろう。むしろ、公爵家ほどの立場なら早い方が自然なのかもしれない。王家との関係が揺れたなら、別の結びつきで立て直そうとする動きが出るのは当然だ。


 当然なのだが――。


「兄上」

 セレスティアの声が少しだけ硬くなる。

「その話を、今ここで?」

「するべきだと判断した」

「まだ確定ではないでしょう」

「だからこそだ」


 リュシアンは妹へ向き直る。


「お前が今どこに立っているか、彼にも分かっていた方がいい」

「……」


 セレスティアは何も言わなかった。


 だがその沈黙は、否定ではなく、飲み込んでいる沈黙に見えた。


 俺の胸の奥がざわつく。


 縁談。

 正式な結びつき。

 公爵家同士、あるいは王族に近い家との再編。


 そこへ“仮恋人”が割り込める余地なんて、当然あるはずもない。


 頭では分かる。

 分かるのに、妙に落ち着かない。


 それをごまかすみたいに、俺は口を開いた。


「……つまり俺は、そこまでの間の繋ぎ、みたいなものですか」

 言ってから、自分で失敗したと分かった。


 言い方が悪い。ひねくれて聞こえる。


 セレスティアがはっきりと眉を寄せた。リュシアンの目も少し細くなる。


「違う」

 セレスティアが先に言った。

「そういう話ではないわ」

「では何だ」

 リュシアンが問う。


 部屋の空気がまた張る。


 セレスティアは一瞬だけ言葉を探すように黙り、それから静かに言った。


「今の私に必要なのは、“正しい形の縁談”ではなく、“ここで一人に見えないこと”よ」


 その言葉は、思っていたよりずっとまっすぐだった。


 俺は息を止める。


 リュシアンも、少しだけ目を見開いたように見えた。多分、妹がそこまで率直に言うのは珍しいのだろう。


「だから」

 セレスティアは続ける。

「兄上がエイトを軽く見て切り捨てるなら、それは私の今を見誤っている」


 沈黙。


 長くはなかった。だが妙に重かった。


 やがてリュシアンはゆっくりと息を吐く。


「……なるほどな」


 それだけ言って、彼は椅子の背へ軽くもたれた。


「分かった。少なくとも、今の段階でお前を無理に引き剥がすのは得策ではないらしい」

 それは誰に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。

「だが、アルヴェル」

「はい」

「お前を認めたわけではない」

「でしょうね」

「それでもまだ口答えを」

「すみません」


 反射で返してしまう。いかん。相手が兄だろうと公爵家嫡男だろうと、この癖だけは簡単に治らない。


 セレスティアが小さく息をつき、ミレーユは壁際でほんのわずかに目を伏せた。呆れたのだろうか。多分そうだ。


 リュシアンはもう一度だけ俺を見る。


「今後、妹の隣に立つなら、少なくとも“場違いなだけの男”で終わるな」

「……はい」

「その程度で折れるなら、最初から近づくな」

「はい」

「そして、妹を泣かせるな」

「兄上」


 セレスティアの声が、今度はほんの少しだけ揺れた。


 俺も少し驚いた。今の最後の一言は、公爵家の嫡男としてというより、完全に兄の顔だったからだ。


 リュシアンは妹を見て、それから短く言う。


「私は忙しい。今日は以上だ」


 話を終わらせたのは、意外にもそちらだった。


 立ち上がり、彼はミレーユに何か一言だけ確認を飛ばし、そのまま扉へ向かう。去り際、セレスティアの方を振り返りもせずに言った。


「縁談の件は、家へ戻ってから改めて話す」

「……分かったわ」

「お前も準備しておけ」


 そして今度こそ、彼は出ていった。


 扉が閉まる。


 その瞬間、小会議室の空気が一気に緩んだ気がした。


 俺は思わず長く息を吐いた。緊張していたらしい。自覚はしていたが、思ったより体が固まっていたようだ。


「情けないわね」

 セレスティアが言う。

「いや、無理でしょう」

「兄上に会っただけでその顔?」

「会っただけじゃないです。だいぶ削られました」

「兄上はあれでも手加減していたわ」

「本気だったら死んでますよ」


 本気でそう思う。


 ミレーユが扉の近くから戻ってきた。


「お疲れ様でした」

「今の、労いですか」

「事実確認です」

「冷たいなあ」

「お嬢様の周囲では標準です」

「否定できませんね」


 そこでセレスティアが小さく机へ指を置いた。


「……ごめんなさい」

「え」

 思わず聞き返す。


 今、この人、謝ったか?


 セレスティアは少しだけ視線を伏せていた。


「兄上は、私が呼んだわけではないけれど」

「はい」

「結果的に、あなたへ余計な圧をかけた」

「それは」

「家の事情も、縁談の話も、あなたにはまだ関係ないところまで見せてしまった」


 その言い方があまりにも真面目で、逆に困る。


 俺は慌てて首を振った。


「いや、それは別に」

「別に?」

「その、確かにびっくりはしましたけど、聞けた方がよかった気もします」

「なぜ」

「さっき兄上……じゃなくて、お兄様が言ったでしょう。俺にも分かっていた方がいいって」

「……」

「正直、縁談の話はだいぶきましたけど」

「きた?」

「かなり」

「そう」


 セレスティアが少しだけ目を細める。


 やばい。今の“かなりきた”は余計だったかもしれない。変に意味があるように聞こえただろうか。いや、だって実際、妙に落ち着かなかったのは本当だし。


 するとセレスティアは数秒黙ってから、静かに言った。


「勘違いしないで」

「はい」

「縁談が来るからといって、今すぐ何かが変わるわけではない」

「はい」

「少なくとも、今の私に必要なのは変わらない」

「……一人に見えないこと、ですか」

「ええ」


 その答えが、少しだけ胸の奥に落ちた。


 言葉としては現実的だ。感情的な意味はない。ないはずだ。けれど、その“今の私に必要なのは変わらない”という言い方に、妙な安堵を覚えてしまう自分がいる。


 だめだな、本当に。


 セレスティアは立ち上がった。


「教室へ戻るわよ」

「はい」

「あなたも」

「はい」

「さっきから返事だけは素直ね」

「それしかできない空気だったので」

「賢明ね」


 そう言った彼女の口元が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。


 笑った、というほどではない。けれど、兄が去ったあとの緊張の解け方もあって、その一瞬の変化がやけにはっきり見えた。


 やっぱり困る。


 笑った顔を見たせいで、そこから先の変化にもいちいち気づいてしまうのだ。


 小会議室を出て回廊へ戻ると、学園の日常は何も知らない顔で続いていた。生徒たちの話し声、窓から差す光、遠くの鐘。けれど俺たちの中では、確実に何かが変わっていた。


 セレスティアに別の縁談が来る。

 兄は俺を認めていない。

 それでも今は、無理に引き剥がさない。

 そしてセレスティア自身は、“今必要なもの”として俺を隣に置いている。


 それは仮だ。

 仮の関係でしかない。

 そう頭では分かっている。


 なのに、胸の奥では別の感情が少しずつ形になりかけている気がした。


 そしてその感情は、多分、次の話をもっと厄介にする。


 なぜなら、人は“終わるかもしれない”と意識した瞬間に、今ある距離を急に惜しく感じ始めるからだ。

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