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異世界転生した俺、婚約破棄された氷姫の仮恋人になっただけなのに、なぜか本気で好かれてる気がするけど本人が絶対に認めない  作者: 御上常陸介寛浩


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第11話 笑った顔を見たせいで、困る

 人間は、見てはいけないものを見た時ほど、それを忘れられなくなる。


 前世でもそうだった。たとえば、いつも完璧に仕事をこなす上司が給湯室で一人だけ疲れた顔をしていた時とか、厳しくて怖い先輩が誰もいない廊下で小さくため息をついていた時とか。そういう“普段見えない顔”を一度知ってしまうと、もうそれまでと同じ目では見られない。


 そして今の俺は、まさにその状態だった。


 翌朝、目が覚めて最初に思い出したのは、昨日の演習でも、クラウスとのやり取りでも、紙の件でもない。


 放課後、馬車の中でセレスティアがほんの少しだけ口元を緩めた、あの瞬間だった。


 笑った、というにはあまりに小さい変化だった。


 けれど確かに、あれは“氷姫”の顔じゃなかった。冷たく整えた仮面でも、公爵令嬢としての完璧な表情でもなく、ただ少しだけ肩の力が抜けた、年相応の少女の顔に見えた。


 たったそれだけのことなのに、困る。


「……困るな」


 天井を見上げたまま、思わずそう呟いてしまった。


 いや、本当に困るのだ。


 仮恋人。

 必要な演技。

 身分差。

 王子派。

 冷酷な噂。


 こっちはそういう問題をいくつも抱えていて、浮かれている場合ではない。むしろ、少し前まで俺は“どうやってこの学園を無難に乗り切るか”だけ考えていたはずだ。


 なのに、笑った顔を見たせいで、肝心の相手がやたらと人間くさく見えてしまう。


 これはよくない。


 相手は公爵令嬢だし、俺は下級貴族の次男だし、そもそも仮だ。仮なのだ。何度でも自分に言い聞かせないと危ない。


 危ないって何がだ。


 自分でも分からないのが余計に危ない。


 そんな朝からひどく面倒くさい思考を抱えたまま食卓に行くと、父がいつも以上に無言だった。いや、最近ずっとそうか。俺が王子の婚約破棄劇に飛び込んでからというもの、父の胃痛はたぶん悪化しっぱなしだろう。


「学園はどうだ」

 珍しく父の方から訊いてきた。


「平和ではないです」

「そうだろうな」


 即答だった。


 俺はパンをちぎりながら、紙の件、噂の件、演習での流れなどをざっくり話した。父は途中で何度か眉を寄せたが、最後まで口は挟まない。


「そうか」

 話し終えたあと、父は短く言った。

「お前が考えて動くのは結構だ。だが、自分一人でどうにかできると思うな」

「はい」

「相手は、お前よりずっと長くそういう場で生きている」

「……はい」

「それを忘れるな」


 分かっている。分かっているつもりだ。


 けれど同時に、昨日少しだけ“こっちもやりようがある”と思ってしまったのも事実だった。紙の違和感、噂の論理、教室での返し、演習での印象。全部が一気に状況を変えるわけではない。でも、少しずつずらしていくことはできるかもしれない。


 そこへ手応えを感じ始めている自分がいる。


 それ自体は悪くない。悪くないが――


 セレスティアの笑った顔がそこへ混ざると、途端に話がややこしくなる。


 馬車寄せに出ると、いつものようにルーヴェン家の馬車が待っていた。白い車体、銀の縁、整った紋章。もう見慣れてきてしまったのが少し恐ろしい。


 ミレーユが扉を開く。


「おはようございます」

「おはよう」

 いつもの冷たい声。


 馬車へ乗り込むと、セレスティアがすでに座っていた。今日も完璧に整っている。銀髪も青い瞳も、朝の光に触れると相変わらず異様に綺麗だ。綺麗なのだが――困るから、あまりじっと見ないようにする。


「何」

 いきなり言われた。


「え?」

「さっきから妙に視線が落ち着かないけれど」

「気のせいです」

「気のせいではないわ」


 鋭い。朝から鋭すぎる。


 俺は慌てて視線を窓の外へ逃がした。


「別に、何でもないです」

「そう」

 セレスティアはそこで会話を切った。

 切ったのだが、多分完全に納得はしていない。分かる。こういう時、この人の“そう”はだいたい分かっていない時の“そう”だ。


 けれど追及されなかっただけ助かった。


 馬車が進み始める。石畳の揺れは小さく、車内には静かな空気が流れる。いつもならここで今日の動きや注意点を確認する流れだ。だが今日は、どうにも俺の方が落ち着かない。


 昨日までなら、相手は“氷姫”だった。


 近寄りがたい公爵令嬢。

 冷たい言葉で切ってくる仮恋人相手。

 たまに人間らしい顔は見せても、基本的にはちゃんと壁がある人。


 でも、一度壁の奥の少し柔らかい表情を見てしまうと、その“壁”自体が前ほど絶対のものには見えなくなる。


 そうなると――


「エイト」

「はいっ」


 自分でも引くくらい早く返事をしてしまった。


 セレスティアが少しだけ眉を寄せる。


「……何をそんなに驚いているの」

「いえ、別に」

「別に、で片づけられる返事ではなかったけれど」

「朝に弱いだけです」

「今のところ、あなたが強い時間帯を見たことがないわ」

「ひどい」


 いつものやり取りだ。

 いつものやり取りなのに、今日に限って妙に一言一言を意識してしまう。


 セレスティアは数秒こちらを見たあと、やれやれというように小さく息をついた。


「今日は午前に礼法実践、午後は座学だったわね」

「はい」

「昨日より表立った動きは少ないかもしれない」

「噂の方はどうでしょう」

「消えることはないでしょうね。けれど、昨日の教室でのやり取りと演習は、少しは効いているはずよ」

「フィオナさんも似たようなことを言ってました」

「ええ。だから今日は、無理に何か仕掛ける必要はないわ」


 そこまで聞いて、俺は少しだけ落ち着いた。


 話す内容が具体的だと助かる。変に意識していた思考が、現実的な方向へ戻る。


「じゃあ今日は守り気味で」

「そうね。あなたも余計なことを言わないように」

「努力します」

「努力ではなく実行しなさい」

「はい」


 いつもの流れだ。


 そして、いつもの流れに戻れると、少しだけほっとする自分がいる。


 それがまた困る。


 午前の礼法実践は、貴族社会の縮図そのものみたいな授業だった。


 立ち方、歩き方、挨拶の角度、ダンスの基本、パートナーとの距離の取り方。そういうものを教員が指導し、生徒たちは組ごとに実践していく。


 つまり今日は、またしても“近い距離”が発生しやすい日だった。


「嫌な予感しかしませんね」

 俺が小声で言うと、

「同感だわ」

 珍しくセレスティアが即答した。


 その時点でちょっと面白くなりかけたが、笑うとまた面倒そうなので我慢する。


 礼法担当の女性教員は、上品そうに見えてかなり容赦がなかった。


「本日はペアごとに基本のエスコートとステップを確認します」

 教員の声が響く。

「昨日の時点で関係性にいろいろ変化のあった方々もいるようですが、それはそれ。外聞ではなく美しさを優先してください」


 外聞ではなく、って絶対こっち見たよな今。


 教室というか実技室全体の空気が、少しだけざわつく。視線が来る。もう分かってる。分かってるからそんなに見なくていい。


「ルーヴェン様、アルヴェル様。前へ」


 やっぱり来た。


 俺は内心で天を仰ぎたくなったが、隣のセレスティアは淡々と前へ出る。こういう時の切り替えの早さは本当にすごい。


「男性側は手を差し出して」

 教員が言う。

「女性側はそれを受ける」

「……」


 俺は一瞬だけ固まった。


 いや、分かる。授業だ。礼法だ。必要だ。必要なのは理解している。


 しているのだが――


「何を固まっているの」

 セレスティアが小声で言う。

「いや、その」

「今さらでしょう」

「それはそうなんですけど」


 すると彼女はほんの少しだけ目を細めた。


「必要なら指示する、と言ったわよね」

「はい」

「今がそうよ」

「……了解です」


 そう言われると、変に腹が据わるから不思議だ。


 俺はゆっくり手を差し出した。セレスティアがその手に、自分の白い指先を乗せる。昨日も手は取った。だが今日はまた少し違う。教員の前で、クラスの視線の中で、もっと明確に“そういう形”を求められている。


 意識するなという方が無理だ。


「視線を落とさない」

 教員が言う。

「男性側、女性の顔を見なさい。足元ではありません」

「はい」


 ひどい授業だな、と思う。


 セレスティアの顔を見る。

 近い。

 やっぱり綺麗だ。

 そのうえ思い出すのが昨日の、あのほんの少しだけ笑った顔なのだから、余計によくない。


 俺の様子を察したのか、セレスティアが本当にごく小さな声で言った。


「落ち着きなさい」

「無茶言わないでください」

「命令よ」

「それ、便利ですね」

「便利よ」


 その返しに、ほんの一瞬だけ口元が緩みそうになる。


 ――あ、今。


 昨日のそれほどではない。けれど、氷の仮面の奥で少しだけ温度が動いたのが見えた。


 だめだ。

 やっぱり困る。


「アルヴェル様」

 教員の声。

「足運びが乱れています」

「すみません」

「もっと自然に。緊張しすぎです」

「……はい」


 教室のあちこちで小さな笑いが起こる。最悪だ。


 だが、その次の瞬間だった。


「先生」

 セレスティアが静かに言う。

「彼だけの問題ではありません。私も合わせきれていないので」


 空気が少し止まる。


 教員が一瞬だけ目を瞬いた。多分、セレスティアがそういう言い方をするのが意外だったのだろう。


「……では、二人とももう一度」

「はい」

 セレスティアは何事もなかったように答える。


 俺は内心で少しだけ驚いていた。


 今のは多分、フォローだ。


 ただの事実確認かもしれない。けれど、“彼だけが悪いわけではない”と、あの場で自然に言った。それだけで、さっきの小さな笑いの質が少し変わった。


「ありがとうございます」

 小声で言うと、

「勘違いしないで」

 やはり返ってきた。

「私も見栄えが悪いのは困るだけ」

「それでも助かりました」

「……そう」


 その“そう”は、いつもの切断ではなく、少しだけ押し返しの弱いものだった。


 再度ステップを踏む。今度は少しだけ落ち着けた。セレスティアの足運びに合わせる。力を入れすぎず、でも崩しすぎず。手の位置、腕の角度、視線の高さ。


「そう、そのくらい」

 教員が頷く。

「ルーヴェン様は問題ありません。アルヴェル様も、最初よりずっといい」

「どうも」

「女性に緊張しすぎるのは感心しませんが」

「耳が痛いです」

「治しなさい」

「はい」


 散々である。


 だが授業が終わったあと、教室の空気は朝より少しだけ軽かった。さっきのセレスティアの一言が地味に効いたのかもしれない。“冷酷な氷姫”という印象に対して、ほんの少しだけノイズが入る。


 そして何より、俺にとっては別の問題が重かった。


 笑った顔を見たせいで、今までより近距離の全部がやけに意識に残る。


 手の温度。

 視線の合わせ方。

 声の柔らかくなる瞬間。


 これ、どうしたらいいんだ。


 昼休み、フィオナはすぐにその空気の変化に気づいたらしい。


「ねえ」

 彼女は俺の机に肘をつくようにして言った。

「エイトくん、今日ちょっと変じゃない?」

「え」

「朝からなんかこう……ふわふわしてる」

「してません」

「してるよ」

「してないです」

「してるって」


 やめてくれ。そういうのを真正面から言い当てないでほしい。


 横でセレスティアが昼食の準備を受けながら、わずかにこちらを見る。


「……私も少し思っていたわ」

「えっ」

「落ち着きがない」

「それは朝も言われました」

「改善していないということね」

「いや、その」

「何かあったの?」

 フィオナがにやっとする。

「何もないです」

「本当に?」

「本当に」

「ふうん」


 この“ふうん”は危険だ。


 フィオナは俺からセレスティアへ視線を移し、それからまた俺に戻す。


「もしかして、距離近いのに今さら慣れてないとか?」

「違います」

「じゃあ、セレスティア様の新しい一面でも見た?」

「っ」


 反応してしまった。


 終わった。


 フィオナの目が一気に面白がる色へ変わる。しまった。完全にしまった。


「へえ?」

「違いますって」

「今の反応、違う人のじゃなかったけど?」

「勘違いです」

「何を?」

「いろいろ」

「雑だなあ」


 セレスティアが、今度ははっきりとこちらを見た。


「何か言いたいことがあるなら言いなさい」

「いや、本当に何でもないです」

「何でもない人は、そこまで挙動不審にならないわ」

「ひどい」

「事実よ」

「今のは事実ですね」

 フィオナまで乗ってくる。


 ひどい。二対一だ。


 だが、ここで“昨日少し笑いましたよね”などと言えるはずもない。そんなことを言ったらその後どういう空気になるのか、想像するだけで死ねる。


 俺は全力で話題を変えることにした。


「フィオナさん、噂の方は何か動きあります?」

「露骨」

「背に腹は代えられません」

「まあいいけど」


 フィオナは肩をすくめたが、それ以上は追及しなかった。助かった。本当に助かった。


「紙の流れは、昨日の午後より少し鈍ってる」

「鈍ってる?」

 セレスティアが訊く。

「ええ。多分、昨日の教室でのやり取りと今日の礼法実践が少し効いた。少なくとも、“氷姫は誰にでも冷酷”って印象一本で押すのは難しくなってる」

「ならいい傾向ですね」

 俺が言う。

「そうね。でも、止まったわけじゃない」

 フィオナの顔が少しだけ真面目になる。

「むしろ“別の形”に切り替える可能性もある」

「別の形?」

「たとえば、セレスティア様本人を責めるんじゃなくて、今度はエイトくん側を崩すとか」

「……それは嫌ですね」

「嫌で済めばいいけど」


 そこへセレスティアが静かに言う。


「十分あり得るわね」

「でしょう?」

 フィオナが頷く。

「冷酷な氷姫という話が効きにくいなら、“下級貴族の少年が公爵令嬢を利用している”とか、“身の程知らずが学園を乱している”とか、そういう方向へ振るかもしれない」

「それはもう一部始まってる気がします」

 俺が言うと、

「ええ、知ってる」

 フィオナがあっさり答えた。

「でも、今までは“面白半分”だった。ここからは、もう少し明確に悪意が整理されるかも」


 整理される悪意。


 嫌な言葉だ。


 だが、ありそうでもある。王子派の連中が完全に引くとは思えないし、クラウスみたいなタイプは“効かないなら別の手”を選ぶだろう。


「じゃあ、俺の方も少し見え方を考えた方がいいですね」

「そうなるわね」

「具体的には?」

 セレスティアが訊く。


 俺は少し考えてから答える。


「軽く見られないこと。浮かれてる感じを出さないこと。あと、必要な時はちゃんと立つけど、無駄に前へ出すぎないこと」

「昨日までのあなたに一番足りなかった要素ね」

 セレスティアが言う。

「ですよね」

「自覚があるなら結構よ」


 その会話をしている間も、俺の頭の片隅では別のことを考えていた。


 笑った顔を見た。

 それだけで、相手の全部が変わって見える。

 そのせいで会話一つ、距離一つ、いちいち意識してしまう。


 でも、その状態で“軽く見られないように”振る舞うのは、だいぶ難しいんじゃないか。


 自分で自分の内心にため息をつきたくなる。


 フィオナはそんな俺の微妙な沈黙を面白そうに見ていたが、今度は追及しなかった。その代わり、ぽつりと言う。


「まあでも、今日の礼法実践見て思ったけど」

「何をですか」

「二人とも、思ったより似合うのよね」

「何が」

「並んだ感じ」

「……」

「……」


 俺もセレスティアも、一瞬だけ黙った。


 やめてくれ。そういう方向のことをさらっと言うな。


 フィオナは完全に楽しんでいる顔だった。


「顔赤い?」

「赤くないです」

「そう」

「そういうフィオナさんこそ、人の反応見て遊びすぎじゃないですか」

「遊んでるわよ?」

「開き直った」

「でも本音もあるもの」


 そう言って、フィオナはセレスティアの方を見る。


「セレスティア様も、前よりちょっとだけ柔らかくなった」

「気のせいよ」

「そうかなあ」

「そうよ」

「ふうん」

「……その顔をやめなさい」


 珍しくセレスティアの方が少し押されていた。


 それを見て、また困る。


 冷たいだけじゃなく、こういう時に少し言葉に詰まるのを見てしまうと、余計に“完璧な氷姫”という認識が崩れる。


 崩れてはいけないわけじゃない。むしろ向こうの噂を打ち崩すには必要だ。


 でも俺個人の心情としては、だいぶ困る。


 放課後、いつものようにルーヴェン家の馬車へ向かう時も、その困り具合は続いていた。


 隣を歩くセレスティアは、今日もきっちり整っている。歩幅も一定、視線も真っ直ぐ、余計な隙がない。周囲が見れば、やっぱり“氷姫”だと思うだろう。


 なのに、俺の中ではそこへ、昨日と今日の小さな表情が上書きされている。


「また変な顔をしているわよ」

 セレスティアが言った。

「変な顔じゃないです」

「今日三回目くらい」

「そんなに?」

「そんなに」


 そこまで言われると少しへこむ。


「……そんなに分かりやすいですか」

「分かりやすいわ」

「それはまずいですね」

「まずいわね」


 馬車へ乗り込み、向かい合って座る。扉が閉まると、外のざわめきが遠ざかる。


 少しの沈黙。


 それから、セレスティアがぽつりと言った。


「何をそんなに気にしているの?」


 声は冷たいというより、少し不思議そうだった。


 問い詰めるのではなく、本当に分からないから聞いている感じ。


 それがまた困る。


 俺はしばらく迷ってから、結局、全部は言えずに少しだけ本音を混ぜた。


「……思ってたより、いろいろ違うなって」

「何が」

「セレスティア様が」

「私が?」


 そこで彼女は少しだけ目を細めた。


「それは悪い意味?」

「いや、そうじゃなくて」

「では?」

「その……もっとずっと、何を考えてるか分からない人だと思ってたので」

「今は違うと」

「少しは」

「少し、ね」


 セレスティアは視線を窓の外へ向けた。


「それは、あなたが勝手に私を怖がっていただけではなくて?」

「それもあります」

「でしょうね」

「でも」

「でも?」

「思ったよりちゃんと怒るし、思ったよりちゃんと褒めるし、思ったより……」


 そこで言葉が止まった。


 “笑うし”と言いかけたのが自分でも分かったからだ。


 危ない危ない。今それを言ったら終わる。


 セレスティアはじっとこちらを見ている。


「思ったより、何」

「……人間らしいです」

 俺はそう誤魔化した。


 数秒の沈黙。


 それから、セレスティアはほんの少しだけ眉を寄せた。


「褒めているのか、失礼なのか、判断に困る言い方ね」

「褒めてます」

「そう」

「はい」

「なら受け取っておくわ」

「どうも」


 そこまで言ってから、彼女はごく小さく息をついた。


「あなたも、思ったよりまともよ」

「思ったより、ばっかりですね」

「最初の印象が最悪だったから」

「ひどい」

「事実でしょう?」

「それは否定しませんけど」


 そう返すと、セレスティアの口元が――本当に一瞬だけ、やわらいだ。


 見間違いじゃない。


 今、ほんの少しだけ笑った。


 昨日ほどではない。今日の礼法実践の時よりもはっきりしていたかもしれない。とにかく、明確に“氷姫の仮面”ではない顔が出た。


 だめだ。


 やっぱり困る。


「……何?」

 セレスティアが言う。

「いえ」

「今、また変な間があった」

「そうですか」

「そうよ」


 俺は視線を窓の外へ逃がした。


 夕方の王都が流れていく。石畳。屋根。人波。多分、今の俺の顔はだいぶ怪しい。見られたくない。


 するとセレスティアが少しだけ訝しむように言う。


「本当にどうしたの」

「いや、その」

「言いなさい」

「言ったら面倒そうなので」

「今さらでしょう」

「その理屈はずるい」


 セレスティアはそこで少しだけ首を傾げた。


「面倒なことを避けたいなら、最初から私の前に出なければよかったのに」

「それは本当にそうです」

「なのに出た」

「はい」

「変な人」


 またそれだ。


 でも、その言い方は前ほど冷たくなかった。


 俺は少しだけ肩の力を抜いて、正直に言う。


「……笑ったからですよ」

「え?」

「いや」


 しまった。出た。


 何をやってるんだ俺は。


 だがもう遅い。セレスティアの青い瞳がはっきりとこちらを向いた。


「今、何と」

「いえ、何でも」

「何でもない、ではないわね」

「……」

「笑った、って聞こえたけれど」


 逃げ場がない。


 俺は内心で頭を抱えながら、観念した。


「昨日、ちょっとだけ」

「昨日?」

「馬車の中で」

「……」


 セレスティアが黙る。


 その沈黙が妙に長く感じた。馬車の中の空気が少しだけ止まる。


 やっぱりまずかったか。これ、完全に余計なことを言ったやつだ。勘違いしないで案件どころではない。たぶん“見なかったことにしなさい”とか言われる。


 だが返ってきたのは、予想と少し違うものだった。


「……覚えているの」

「そりゃ、まあ」

「なぜ」

「なぜって」

「そんなに珍しかった?」

「かなり」


 正直に答えると、セレスティアは明らかに視線をそらした。


 耳が、ほんの少しだけ赤い気がする。気のせいであってほしいが、たぶん気のせいではない。


「……忘れなさい」

 小さな声で言った。

「無理です」

「無理、って」

「見たものは」

「変なところだけ頑固ね」

「そうかもしれません」


 セレスティアはしばらく窓の外を見ていた。さっきまでの落ち着きが少し崩れている。俺も似たようなものだ。変に意識して、言わなくていいことまで言ってしまった。


 だが、不思議と空気は悪くなかった。


 むしろ、今までより少しだけ近い場所へ入ってしまった感じがある。危うい。かなり危うい。でも、嫌ではない。


「……あれは」

 セレスティアがぽつりと口を開いた。

「昨日、少しだけ気が緩んだだけよ」

「はい」

「深い意味はないわ」

「はい」

「本当に」

「分かってます」


 そう答えると、彼女は少しだけこちらを見た。


「分かっていない顔」

「努力はしてます」

「何の?」

「いろいろ」


 セレスティアはまた小さく息をついた。


「本当に、面倒ね」

「すみません」

「謝っているように見えない」

「少しだけ嬉しいので」

「なぜ」

「秘密です」

「言いなさい」

「嫌です」


 そこで、ほんの一瞬だけ。


 本当に、一瞬だけだったが――セレスティアがまた笑った。


 今度は前よりはっきりと。


 声に出すほどではない。けれど、呆れと困惑と、ほんの少しの楽しさが混ざったみたいに、口元がやわらいだ。


 それを見た瞬間、俺はますます困った。


 だめだ、これは本格的に困る。


 仮恋人。

 仮の関係。

 そう思って線を引いていたはずなのに、その線の上へ向こうから少しだけ灯りが漏れてくる感じがする。


 そして、多分一番まずいのは――


 その灯りを、俺が嬉しいと思ってしまっていることだった。

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