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異世界転生した俺、婚約破棄された氷姫の仮恋人になっただけなのに、なぜか本気で好かれてる気がするけど本人が絶対に認めない  作者: 御上常陸介寛浩


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第1話 氷姫断罪、そして俺は余計なことを言った

挿絵(By みてみん)

 人は、空気を読む生き物だ。


 読めなければ叩かれ、読みすぎれば疲れ、読んだうえで逆らえば面倒ごとに巻き込まれる。前世で会社員をやっていた俺――相沢恒一は、そのことを骨の髄まで思い知っていた。


 上司の機嫌。取引先の都合。会議室の沈黙。飲み会の座る位置。誰が何を言わず、誰が何を言ってほしがっているか。そういうものを嗅ぎ分けるのが上手くなった人間から順番に、なぜか幸せになるのではなく、擦り減っていく。


 そして俺は、見事に擦り減りきって死んだ。


 ……はずだった。


「エイト、ぼんやりするな。次、お前の番だ」


 隣から小声で肘をつつかれ、俺ははっと意識を引き戻した。


 視界に飛び込んでくるのは、磨き抜かれた大理石の床。高く高く伸びた天井。金の装飾が這う白い柱。壁に掲げられた王家の紋章。色とりどりの礼装に身を包んだ貴族の子弟たち。甘い香水と硬い空気が混じった、大広間特有の匂い。


 ここは王立アストレア学園の入学式会場――らしい。


 らしい、というのは、俺がこの世界に生まれ変わって十六年、まだ時々、自分の人生の輪郭が二重に見えるからだ。エイト・アルヴェルという下級貴族の次男として生きてきた記憶は確かにある。父ガイアス、母、兄、慎ましい屋敷、台所事情、礼儀作法、剣と魔法の授業。そういうものはちゃんと俺の中に積み重なっている。


 だが同時に、満員電車と蛍光灯とコンビニおにぎりと終電を知っている俺もいる。


 前世の記憶をはっきりと思い出したのは、今朝、ここへ向かう馬車の中だった。


 異世界転生。


 言葉にすると軽い。いや、実際だいぶ軽い。もっとこう、神様とか、チートとか、世界を救う使命とか、そういうのが付いてくるものだと思っていたのに、俺に与えられたのは「下級貴族の次男」という妙に地味で現実的な立場だった。


 よかったのか悪かったのかは、まだ分からない。


 ただ一つ分かっているのは、俺はもう二度と無理をしてまで目立つ人生を送りたくない、ということだ。


 前世で学んだ。目立てば仕事が増える。頼られれば責任が増える。いい人をやれば損をする。だから今世の目標は単純明快――目立たず、無難に、静かに生きること。


 そのはずだった。


「アルヴェル家、エイト・アルヴェル」


 司会役の教員に名を呼ばれ、俺は列の先頭へ進み出る。定められた位置で一礼し、新入生として名簿確認の魔導具に触れる。淡い光がふわりと浮かび、周囲から形式的な拍手が起こった。


 よし、これで終わりだ。あとは隅っこで空気になって――


「続きまして、ルーヴェン公爵家令嬢、セレスティア・フォン・ルーヴェン」


 その名が呼ばれた瞬間だった。


 空気が、変わった。


 いや、比喩ではなく本当に変わったのだと思う。大広間を満たしていた上品なざわめきが、誰かに首を掴まれたみたいにひゅっと細くなった。視線が一点に集まる。期待、好奇、嫉妬、悪意。そういうものが、ひとつの名前に向かって収束していくのが分かる。


 俺もつい、そちらを見た。


 列の後方から歩み出てきた少女は、ひどく静かな足取りだった。


 雪を編んだみたいな銀髪。陽光を溶かしたガラスみたいな青い瞳。触れれば壊れそうなほど白い肌。だが、ただ儚いだけではない。背筋は刃みたいに真っ直ぐで、一歩ごとに周囲の空気を切り分けてくるような緊張感がある。


 美しい、と思うより先に、冷たい、という印象が来た。


 なるほど。これが噂の“氷姫”か。


 ルーヴェン公爵家の令嬢、セレスティア・フォン・ルーヴェン。


 容姿端麗、頭脳明晰、魔力優秀。完璧すぎるがゆえに近寄りがたい。感情を顔に出さず、誰にも媚びず、王立学園でも別格と囁かれる少女。そんな話は、下級貴族の家にまで届いていた。


 ただ、噂というのはだいたい大げさだ。美人だの天才だの冷たいだの、そういうラベルは社交界が勝手に貼るもので、本当の中身なんて当人にしか分からない。


 ……俺には関係のない話だ、そう思った。


 だがその時、大広間の中央、来賓席の前方に立っていた一人の青年が、まるでこの瞬間を待っていたかのように前へ出た。


 ざわめきが一段深くなる。


 豪奢な礼装。整った金髪。誰の目にも分かる自信に満ちた立ち姿。王家の血筋を誇示するような、迷いのない微笑み。


 第一王子、レオンハルト・ヴァルディア。


 その人が、セレスティアをまっすぐ見据え、朗々とした声で言った。


「セレスティア・フォン・ルーヴェン。ここで公に宣言する。私は、君との婚約を破棄する」


 ――は?


 声には出さなかった。出せる空気でもなかった。


 だが内心では素っ頓狂な声を上げていた。


 いや待て。入学式だよな、これ。新入生歓迎イベントとかじゃなくて? なんでそんな昼ドラみたいな話を王族が大広間のど真ん中で始めてるんだ。


 周囲は息を呑み、だが驚いていない者も多かった。つまり、何かしらの噂はすでに流れていたのだろう。知らなかったのは、俺みたいな下級貴族の端くれだけらしい。


 レオンハルトは続ける。


「君はこれまで、婚約者たる私に対して一度たりとも心を開かなかった。常に冷たく、高圧的で、他者を見下し、王妃となるべき徳を欠いている。私はそのような相手を伴侶と認めることはできない」


 言葉がよく通る。さすが王族というべきか、あるいは人前で相手を切り捨てるのに慣れているのか。


 貴族の子弟たちの間に、さざ波のようなざわめきが広がる。


「やっぱり……」

「前から不仲だって」

「氷姫様、顔色一つ変えないわ」

「怖い……」

「でも王子殿下がそこまで言うなんて――」


 ひそひそ声は小さい。だが、そういう小さな声ほどよく響く。経験上、人は「聞こえないように悪口を言う」のが一番うまい。


 俺は無意識に肩を竦めた。


 最悪だ。


 これ、完全に公開処刑じゃないか。


 しかもセレスティアは反論しない。長い銀髪を揺らしもせず、正面からレオンハルトを見返している。その顔は噂通り、凍てつくほど整っていて、感情のひとかけらも見えない。


 その無表情が、かえって観衆の想像を煽る。


 高慢だから取り乱さない。冷酷だから痛みを感じない。プライドが高いから謝らない。きっと皆、好き勝手にそう解釈するのだろう。


 レオンハルトの背後から、一人の令嬢が歩み出た。蜂蜜色の髪を巻いた、愛らしい顔立ちの少女だ。身につけたドレスも表情も柔らかく、いかにも“守ってあげたくなる可憐さ”をまとっている。


「殿下……もう、おやめくださいませ」


 口調だけなら止めているように聞こえる。だが、その目はしっかりとセレスティアを見ていた。勝者が敗者を見る目だった。


 なるほど。そういうことか。


 婚約破棄、王子、新しい相手候補、冷たい婚約者の断罪。


 構図が分かりやすすぎて、逆に吐き気がする。


 俺は自然と、視線を逸らそうとした。関わるな。見るな。空気になれ。こういう時、正義感なんてものは何の役にも立たない。巻き込まれるだけだ。


 そう、自分に言い聞かせた、その時だった。


 セレスティアの青い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 ほんの一瞬だった。本当に、瞬きひとつ分にも満たないほどの、微かな揺らぎ。氷の仮面に走った、ごく細いひび。誰も気づかなかっただろう。少なくとも、この大広間にいる大半の人間は。


 でも、俺は気づいてしまった。


 あれは無痛の顔じゃない。


 痛くない人間の目じゃない。


 傷ついていない人間がする目じゃなかった。


 助けて、なんて言っていない。言えるはずもない。けれど、あまりにも一瞬だけ、その瞳はそういうものに見えてしまった。


 やめろ。


 俺の頭のどこかが、即座に警鐘を鳴らした。


 やめろ、エイト。見なかったことにしろ。あれはお前の問題じゃない。お前は今世でまで面倒ごとを背負い込む気か。前世で懲りただろう。助けたいとか放っておけないとか、そういう気持ちはだいたいろくな結果を生まない。まして相手は公爵令嬢。こっちは下級貴族。住む世界が違う。関わった瞬間に終わる。


 なのに、足が動いた。


 気づいた時には、俺は一歩、前へ出ていた。


 自分でも何をしているのか分からなかった。ただ、周囲のざわめきが急に近くなり、何人もの視線が一斉に俺へ向いたのが分かった。遅い。もう遅い。


「……エイト・アルヴェル?」


 誰かが俺の名を呼ぶ。


 レオンハルトの眉がわずかに動く。セレスティアの瞳が、今度こそはっきりと揺れた。


 やめろ。止まれ。黙れ。今ならまだ間に合う。適当に取り繕って下がれ。


 なのに、俺の口は勝手に開いた。


「だったら」


 喉が妙に乾いていた。


 なんでこんな時だけ、人間はやたらとはっきり喋れてしまうのだろう。


「だったら、俺が彼女の恋人役になります」


 静寂。


 見事なまでの静寂だった。


 数秒前までひそひそと好き勝手に囁いていた大広間中の人間が、揃って息を止めたみたいに固まった。誰も動かない。誰も喋らない。遠くで楽師が弦に触れかけた気配すら、途中で凍った気がした。


 あ、終わった。


 俺は心の中でそう呟いた。


 言ってしまったものは仕方がない、みたいな前向きさは一ミリもなかった。むしろ全力で過去数秒の自分を殴りたかった。何を言ってるんだ。恋人役って何だ。せめてもっとマシな言い方はなかったのか。擁護するとか、再考を求めるとか、他にいくらでもあっただろう。なぜよりによってそんな、社交界に火薬を投げ込むような言葉を選んだ。


 だが現実は残酷で、発言は取り消せない。


「……君は何を言っている?」


 最初に沈黙を破ったのはレオンハルトだった。声音は穏やかだ。穏やかすぎて逆に怖い。


 俺は引きつりそうになる口元を必死で抑えた。


「い、いえ、その……」


 やばい。何も考えてない。


 勢いで飛び出してきたくせに、着地先が何ひとつ決まっていない。会議で上司に「じゃあ君の案を言って」と振られた時みたいな冷や汗が背中を伝う。


 周囲から視線が突き刺さる。


 下級貴族の分際で何を。

 身の程を知れ。

 目立ちたがりか。

 馬鹿か。


 声に出ていなくても、それくらいは分かる。空気がもうそう言っていた。


 俺はかろうじて呼吸を整え、言葉を継いだ。


「殿下が婚約を破棄なさるというなら、それは殿下のご判断なのでしょう。ですが、それを見た周囲がセレスティア様を不当に貶める口実にするのは、また別の話です」


 おお、なんかそれっぽいことを言っているぞ俺。


 内心では白目を剥きそうだったが、口だけは勝手に回った。前世で身についた社内向け防御話法が、こんな形で役に立つとは思わなかった。


「だから、その……次の相手がいると示せば、少なくとも一方的な断罪にはならないかと」


 苦しすぎる。


 理屈としては破綻していない、かもしれない。だが無理はある。かなりある。


 レオンハルトは俺を見た。値踏みするように、いや、値踏みする価値があるかどうか測るように。


「アルヴェル家の子息だったな。下級貴族の君が、ルーヴェン公爵家の令嬢の恋人を名乗ると?」


 圧が強い。言ってることは静かなのに、こっちの胃がきりきりするタイプの王子だ。


 それでも、引くわけにはいかなかった。いや、本音を言えば今すぐ引きたい。帰りたい。家に帰って布団をかぶりたい。だがここでしどろもどろになれば、セレスティアまで余計に笑いものになる。


 俺はどうにか背筋を伸ばした。


「名乗る、というより……仮に、です。仮の、恋人として」


 うわぁ。自分で言っていてひどい。


 周囲のざわめきが、今度は別種の熱を帯びた。

 仮の恋人。

 氷姫に下級貴族の新しい男。

 格好の噂話だ。


 レオンハルトの後ろにいた蜂蜜色の髪の令嬢が、手で口元を押さえて目を丸くした。驚いているふりなのか、本当に驚いているのかは分からない。


 その時だった。


「……面白いことを言うのね」


 凛とした声が、大広間の中央に落ちた。


 セレスティアだった。


 彼女は初めて、まっすぐ俺を見た。近くで見る青い瞳は、氷そのものみたいに澄んでいて、なのに底が見えない。さっき一瞬だけ揺らいだはずの感情は、もう跡形もなく消えていた。


 いや、消したのかもしれない。


「エイト・アルヴェル」


 名前を呼ばれ、心臓がどくりと鳴った。


「あなた、自分が何を言っているか理解しているの?」


 していません、と答えたかった。


 だがさすがにそれは無理だ。俺は無言のまま、彼女を見返すしかない。


 セレスティアはほんのわずかに顎を上げた。いつの間にか、大広間の主導権がレオンハルトから彼女へ戻りつつあった。空気を変えてしまう声だ。


「下級貴族のあなたが、婚約破棄された公爵令嬢の隣に立つ。噂では済まないわ。嘲笑も敵意も向くでしょう。それでもいいと?」


 いいわけがない。


 よくないに決まっている。


 けれど、その問いは多分、確認ではない。最後の退路をくれているのだ。ここで引けるぞ、と。馬鹿な真似をした下級貴族の子弟として笑われるだけで、まだ傷は浅い。そう言われている気がした。


 だったら普通は引く。


 俺だって本来ならそうする。そうする人間でいたかった。


 なのに、今さら引くのも格好悪いとか、そういう見栄が少し混じったのかもしれない。あるいは、彼女の目があまりにも綺麗で、ここで退けば一生夢に出る気がしたのかもしれない。


 俺は腹を括った。半分やけくそで。


「……少なくとも、見てるだけよりはましです」


 言ってから、自分で頭を抱えたくなった。


 挑発か。もっと言い方があるだろう。


 案の定、周囲の空気がざわつく。だがセレスティアは怒らなかった。代わりに、ほんのわずかに目を見開いた。そしてすぐに、いつもの氷の表情へ戻る。


「そう」


 短い言葉だった。


 けれどその一言に、不思議な重みがあった。


 彼女はレオンハルトへ向き直る。


「殿下。婚約破棄の件、了承いたしました」


 会場に再び緊張が走る。


「ただし、私の今後についてまで殿下に定められる理由はございません。私が誰と親しくし、誰を傍に置くか。それはルーヴェン家の裁量です」


 理屈として正しい。王子を正面から否定しているわけではない。だが、明確に線は引いた。


 レオンハルトの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「……なるほど。では、その“仮の恋人”とやらを、君は受け入れるのか」


 セレスティアは、そこで初めて少しだけ口元を持ち上げた。


 笑った、というほどでもない。冷たい刃が月光を弾いたような、ほんの微細な変化。


「そうですね」


 青い瞳が、再び俺を射抜く。


「少なくとも、見ているだけの人よりは使い道がありそうですもの」


 会場のどこかで、誰かが息を呑んだ。


 俺も呑んだ。


 今のは一応、俺を受け入れた、ということでいいのだろうか。いや、言い方。使い道って。せめてもう少しこう、柔らかく。


 だが同時に、大広間の空気がわずかに変わったのが分かった。


 婚約破棄されるだけの哀れな氷姫。そういう一方向の見世物だったものが、今、別の形にねじれたのだ。噂は広がるだろう。悪意も集まるだろう。けれど少なくとも、彼女はただ捨てられた令嬢として黙って立っているだけではなくなった。


 そしてその火種のど真ん中に、俺はいる。


 最悪だ。


 最悪すぎる。


「入学式の最中だ。これ以上の騒ぎは望ましくない」


 レオンハルトが静かに言った。その声には、先ほどまでの余裕とは別の硬さが混じっていた。


「この件は後日、改めて整理しよう」


 整理。


 実に政治的な言い回しだ。面倒ごとが後日に先送りされたとも言う。


 王子が引けば、周囲も引くしかない。教員たちもようやく動き出し、滞った進行をなんとか立て直そうとし始める。だが、新入生たちの集中力が戻るはずもない。皆、ちらちらと俺とセレスティアを見る。


 そうでしょうね。俺だって見世物があれば見る。


 式の残りはほとんど頭に入らなかった。


 何人かが名を呼ばれ、何かしらの挨拶があり、校長らしき老人が学園の伝統について語っていた気がする。だが俺の意識はずっと、さっき自分がやらかしたことの大きさを反芻していた。


 終わった。


 平穏な異世界学園生活、終了のお知らせである。


 式が解散となった瞬間、周囲のざわめきは一斉に解き放たれた。


「見た!?」

「アルヴェルってどこの家?」

「下級貴族よ、確か」

「ありえないでしょう」

「でも氷姫様が否定なさらなかったわ」

「王子殿下のお顔……」

「面白くなってきたじゃない」


 面白くしてしまったのは俺だ。責任を感じる。感じたくない。


 俺は人波に紛れて逃げようとした。今ならまだ、誰にも捕まらずに教室へ――


「エイト・アルヴェル様」


 背後から、澄んだ女性の声。


 嫌な予感しかしない。


 振り向くと、黒髪をきっちりまとめた少女が立っていた。メイド服に近いが、どこか学園仕様に整えられた装い。背筋は真っ直ぐ、目つきはかなり鋭い。


「セレスティア様がお呼びです」


 ですよね。


 いや分かってた。分かってたけど、こんな即時招集されるとは思わなかった。


「あの、今すぐですか」

「今すぐです」

「ちなみに断る選択肢は」

「ございません」


 にこりともせず言い切られた。


 周囲の視線がまた集まってくる。やめてくれ。今日だけで何回注目を浴びれば気が済むんだ。俺はもっと背景で生きる予定だったんだぞ。


 黒髪の少女――おそらく侍女か側仕えだろう――に先導され、俺は大広間の脇通路を進む。豪奢な装飾が施された回廊の奥へ、奥へ。踏みしめる靴音がやけに大きく響く。


 心臓に悪い。


 途中、俺は何度も深呼吸した。言い訳を考えようとした。だが何も浮かばない。「つい」「なんとなく」「見てられなくて」――どれも馬鹿っぽい。


 やがて通されたのは、小さな控室だった。来賓用か何かだろう。重厚な木の扉、薄青いカーテン、香木の匂い。部屋の中央には、さっきの銀髪の少女が立っていた。


 セレスティア・フォン・ルーヴェン。


 さっきまで大広間の真ん中にいた時と変わらない、完璧な立ち姿。だが人目がないぶん、その冷気はさらに研ぎ澄まされて見えた。


 黒髪の侍女が一礼して下がり、扉が閉まる。


 閉じ込められた。


 いや、物理的には閉じ込められていない。多分。けれど精神的には完全に追い詰められていた。


 セレスティアはゆっくりと俺を見た。


 数秒の沈黙。


 そして、口を開く。


「……あなた」


 綺麗な声だった。綺麗すぎて余計に怖い。


「死にたいの?」


 ですよねー。


 思わず天を仰ぎたくなるのを堪え、俺はなんとか口を開いた。


「できれば、あまり死にたくはないです」


「そう。では質問を変えるわ」


 彼女は一歩、こちらへ近づいた。距離が縮まる。青い瞳が真正面から俺を射抜く。


「なぜ、あんな余計なことを言ったの?」


 余計なこと。


 まったくその通りだった。


 俺は返す言葉を探した。正解なんてあるはずもない。ただ、ここで取り繕えば多分すぐ分かる。彼女はそういう嘘を見逃す顔ではなかった。


「……見てられなかったので」


 結局、そんな情けない本音しか出なかった。


 セレスティアの眉が、ほんのわずかに動く。


「私が可哀想に見えたと?」

「そういう言い方をされると困ります」

「では?」

「……傷ついてるように見えました」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 もっと曖昧にぼかすつもりだったのに、思ったより真っ直ぐな言葉が出た。


 セレスティアは黙った。その沈黙がさっきより少しだけ長い。


「勘違いしないで」


 やがて彼女は、硬い声で言った。


「私はあの程度で壊れるほど弱くないわ」


「はい」

「同情される筋合いもないわ」

「はい」

「まして、下級貴族のあなたに庇われる理由もない」

「……はい」


 全部正論だ。


 正論なのだが、三連打されるとそこそこ心にくる。


 セレスティアは腕を組んだ。細い指先まで無駄なく整っているのが腹立たしい。いや腹立たしくはない。見惚れている場合ではない。


「けれど」


 彼女はそう言って、わずかに視線を伏せた。


「さきほどの場では、否定しない方が都合がよかった」


 俺は瞬きをした。


「都合、ですか」

「そうよ。あのまま沈黙していれば、私はただ捨てられた令嬢として扱われたでしょう。あなたの発言で、少なくとも話題は割れた。屈辱的ではあるけれど、利用価値はあったわ」


 利用価値。


 さっきも使い道があると言われた気がする。この人、言葉を飾らないタイプなのかもしれない。


「つまり……怒っては、いない?」

「怒ってはいるわ」

「ですよね」


 安心しかけた心が即座に沈んだ。


 セレスティアは俺をまっすぐ見た。


「勝手に私の前へ出たこと。勝手に私の名を使ったこと。勝手に自分を危険へ放り込んだこと。その全部に腹が立っているわ」


 そこまで言ってから、彼女はほんの少しだけ息を吐いた。


「でも」


 その声が、わずかにだけ柔らかくなった気がした。


「今だけは……その言葉を借りることにする」


 俺は目を瞬いた。


 彼女はすぐにいつもの無表情へ戻る。


「だから勘違いしないで。あなたは恋人ではない。あくまで仮よ。私が必要だと判断した間だけ、隣にいることを許可する。それ以上でも以下でもない」


 仮。


 恋人。


 隣にいることを許可。


 言葉だけ抜き出すと甘い響きなのに、本人の口調があまりにも冷たいせいで、契約書を読み上げられている気分になる。


「返事は?」

「……はい」

「よろしくてよ」


 彼女はそこでようやく、少しだけ顎を引いた。会話終了の合図らしい。


 つまり俺は、正式に面倒ごとの中心へ片足どころか全身を突っ込んだわけだ。


 終わった。いや、本当に。


 平穏な第二の人生が、音を立てて遠ざかっていくのが分かる。


 それでも、なぜだろう。


 さっき大広間で見た一瞬の揺らぎが、もう少しだけ和らいだような気がして、ほんの少しだけ救われた気持ちになってしまった。


 そんな俺の内心など知るはずもなく、セレスティアは窓辺へ向かいながら、淡々と言った。


「明日から忙しくなるわよ、エイト・アルヴェル」

「……何がですか」

「決まっているでしょう」


 彼女は振り返りもしない。


「仮恋人の仕事よ」


 俺はその場で、静かに頭を抱えた。

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