第3話 そういう存在らしい
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「行ってきます」
「気をつけてな」
朝の決まりきった挨拶だった。
研究所の裏口で振り返ると、サカモト博士はいつものように白衣のまま、まだ眠そうな顔で手を上げている。夜通し机に向かっていたのだろう。机の上には書類の山と、見慣れない装置の部品がいくつも散らばっているはずだ。
私は門をくぐり、石畳の通りへ出た。
帝都セラト=ヴェールの朝は早い。運河では荷船がすでに動き始め、パン屋の前には小麦の匂いが漂っている。貴族街へ向かう通りでは、使用人たちが水桶を運び、馬車の準備をしていた。
私の一日は、たいていこの時間から始まる。
博士に生み出された私は、いま「教育」というものに励んでいるらしい。
通っているのは学校ではない。
帝都でも名の知られた公爵家の屋敷だ。
表向きには、その家の令嬢に付き添う形で、同じ家庭教師の授業を受けていることになっている。礼儀作法、歴史、言語、算術、舞踏。貴族の子女が学ぶべきことを、私も一緒に教わっている。
なぜそんなことをしているのかと言われても、正直なところ、私にもよく分からない。
博士は「人間社会を学ぶ必要がある」と言う。
それ以上の説明は、ほとんどしてくれない。
だから私は、言われるままに屋敷へ通っている。
帝都の街並みを抜け、石橋を渡り、緩やかな坂を登ると、やがて貴族街の門が見えてくる。衛兵に軽く会釈をして中へ入ると、空気が変わる。通りは広く、建物は高く、庭木はきちんと刈り込まれている。
そしてその奥に、私の通う屋敷がある。
白い石壁と高い塔を持つ、公爵家の館だ。
門番は私の顔を覚えているらしく、特に何も言わずに門を開けてくれる。中庭を横切ると、侍女が一人、こちらへ歩いてきた。
「おはようございます。先生はもうお待ちです」
「おはようございます」
そう言って頭を下げる。
こういう挨拶は、最初の頃はよく分からなかった。
いまでも完全に理解しているとは言い難い。
人間というものは、ずいぶん多くの決まり事の中で生きている。
言葉の選び方。
立ち方。
目線の高さ。
沈黙の長さ。
そのどれもが意味を持っているらしい。
それを学ぶのが、私の「教育」なのだそうだ。
……前置きが長くなった。
一応言っておくと、私は人間じゃない。
スライムだ。
博士の研究記録では『超流動粘性多面体生命体』という、ずいぶん仰々しい名前がつけられているらしい。私はまだその理論を理解していないので、詳しい説明はできない。
分かっているのは、私が人間ではないということだけだ。
物質であれば、たいていのものに姿を変えることができる。
石でも、金属でも、人間の形でも。
質量には限りがあるらしいが、その範囲でなら、かなり自由に形を変えられる。
……そういう存在らしい。
「らしい」という言い方になるのは、私自身がそれを知ったのが、つい最近だからだ。
本当に、つい最近。
博士は長いこと、そのことを黙っていた。
どうして自分に母親がいないのか。
どうして怪我をしても痛みが薄いのか。
どうして姿を変えられるのか。
疑問は前からあった。
けれど、はっきりと聞いたことはなかった。
ある日、思い切って尋ねたんだ。
私は一体、何者なんだ?と。
博士は少し黙って、それから言った。
「お前は、何にでもなれる生命体だ」
何にでもなれる。
その言葉は、文字通りの意味だった。
物質系のものであれば、ほとんど何にでもなれる。
木でも、石でも、鉄でも。
もちろん、質量の範囲というものはあるらしい。
けれど、その範囲の中なら、ほぼ自由だ。
……それを聞いて、私は納得した。
いや、納得したというより、ようやく辻褄が合った。
私が人間と少し違う理由が。
それから私は、博士の研究室を調べたことがある。
自分がどうやって作られたのかを知りたくて。
棚には分厚い研究ノートが並び、机の上には数式と図面が山ほど積まれていた。化学式、構造式、数値計算。ページの端には細かい書き込みがびっしりと並んでいる。
……正直なところ、ほとんど理解できなかった。
まだそこまでの知識が、私の頭の中には入っていない。
けれど、一つだけ分かったことがある。
博士が、ある人物を蘇らせようとしているらしいということだ。
それは博士から直接聞いた話ではない。
研究室の書棚の奥に、古い資料が残っていた。
名前。
出身地。
家名。
死亡記録。
そして一枚の肖像画。
若い少女の絵だった。
博士の書斎にも、その絵が飾られている。
博士は普段、そのことについて話さない。
けれど、時々その絵を見ている。
ずいぶん昔に、大切な人を亡くしているらしい。
だから私は思った。
もしかすると、私を作った理由は――
その人を蘇らせるためなんじゃないか、と。
証拠はない。
ただの勘だ。
けれど、研究ノートを見たとき、
なんとなくそう思った。
……まあ、確証はどこにも無いのだけれど。




