表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

第3話 そういう存在らしい





「行ってきます」


「気をつけてな」


朝の決まりきった挨拶だった。


研究所の裏口で振り返ると、サカモト博士はいつものように白衣のまま、まだ眠そうな顔で手を上げている。夜通し机に向かっていたのだろう。机の上には書類の山と、見慣れない装置の部品がいくつも散らばっているはずだ。


私は門をくぐり、石畳の通りへ出た。


帝都セラト=ヴェールの朝は早い。運河では荷船がすでに動き始め、パン屋の前には小麦の匂いが漂っている。貴族街へ向かう通りでは、使用人たちが水桶を運び、馬車の準備をしていた。


私の一日は、たいていこの時間から始まる。


博士に生み出された私は、いま「教育」というものに励んでいるらしい。


通っているのは学校ではない。

帝都でも名の知られた公爵家の屋敷だ。


表向きには、その家の令嬢に付き添う形で、同じ家庭教師の授業を受けていることになっている。礼儀作法、歴史、言語、算術、舞踏。貴族の子女が学ぶべきことを、私も一緒に教わっている。


なぜそんなことをしているのかと言われても、正直なところ、私にもよく分からない。


博士は「人間社会を学ぶ必要がある」と言う。

それ以上の説明は、ほとんどしてくれない。


だから私は、言われるままに屋敷へ通っている。


帝都の街並みを抜け、石橋を渡り、緩やかな坂を登ると、やがて貴族街の門が見えてくる。衛兵に軽く会釈をして中へ入ると、空気が変わる。通りは広く、建物は高く、庭木はきちんと刈り込まれている。


そしてその奥に、私の通う屋敷がある。


白い石壁と高い塔を持つ、公爵家の館だ。


門番は私の顔を覚えているらしく、特に何も言わずに門を開けてくれる。中庭を横切ると、侍女が一人、こちらへ歩いてきた。


「おはようございます。先生はもうお待ちです」


「おはようございます」


そう言って頭を下げる。


こういう挨拶は、最初の頃はよく分からなかった。

いまでも完全に理解しているとは言い難い。


人間というものは、ずいぶん多くの決まり事の中で生きている。


言葉の選び方。

立ち方。

目線の高さ。

沈黙の長さ。


そのどれもが意味を持っているらしい。


それを学ぶのが、私の「教育」なのだそうだ。


……前置きが長くなった。


一応言っておくと、私は人間じゃない。


スライムだ。


博士の研究記録では『超流動粘性多面体生命体』という、ずいぶん仰々しい名前がつけられているらしい。私はまだその理論を理解していないので、詳しい説明はできない。


分かっているのは、私が人間ではないということだけだ。


物質であれば、たいていのものに姿を変えることができる。

石でも、金属でも、人間の形でも。


質量には限りがあるらしいが、その範囲でなら、かなり自由に形を変えられる。


……そういう存在らしい。


「らしい」という言い方になるのは、私自身がそれを知ったのが、つい最近だからだ。


本当に、つい最近。


博士は長いこと、そのことを黙っていた。


どうして自分に母親がいないのか。

どうして怪我をしても痛みが薄いのか。

どうして姿を変えられるのか。


疑問は前からあった。


けれど、はっきりと聞いたことはなかった。


ある日、思い切って尋ねたんだ。


私は一体、何者なんだ?と。


博士は少し黙って、それから言った。


「お前は、何にでもなれる生命体だ」


何にでもなれる。


その言葉は、文字通りの意味だった。


物質系のものであれば、ほとんど何にでもなれる。

木でも、石でも、鉄でも。


もちろん、質量の範囲というものはあるらしい。

けれど、その範囲の中なら、ほぼ自由だ。


……それを聞いて、私は納得した。


いや、納得したというより、ようやく辻褄が合った。


私が人間と少し違う理由が。


それから私は、博士の研究室を調べたことがある。


自分がどうやって作られたのかを知りたくて。


棚には分厚い研究ノートが並び、机の上には数式と図面が山ほど積まれていた。化学式、構造式、数値計算。ページの端には細かい書き込みがびっしりと並んでいる。


……正直なところ、ほとんど理解できなかった。


まだそこまでの知識が、私の頭の中には入っていない。


けれど、一つだけ分かったことがある。


博士が、ある人物を蘇らせようとしているらしいということだ。


それは博士から直接聞いた話ではない。

研究室の書棚の奥に、古い資料が残っていた。


名前。

出身地。

家名。

死亡記録。


そして一枚の肖像画。


若い少女の絵だった。


博士の書斎にも、その絵が飾られている。


博士は普段、そのことについて話さない。

けれど、時々その絵を見ている。


ずいぶん昔に、大切な人を亡くしているらしい。


だから私は思った。


もしかすると、私を作った理由は――

その人を蘇らせるためなんじゃないか、と。


証拠はない。


ただの勘だ。


けれど、研究ノートを見たとき、

なんとなくそう思った。


……まあ、確証はどこにも無いのだけれど。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ