第2話 帝国の歴史
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帝国ヴェルゼナの歴史は、長い。
それは単に古い王朝が続いているという意味ではない。幾世代もの統治者が移り変わり、戦争と講和を繰り返し、領地の境界が引き直され、貴族の家が興り、また静かに消えていった。そうした出来事のすべてが重なり合いながら、それでも同じ名の国家が保たれてきたという意味で、この帝国の歴史は長いのである。
この国では、あらゆるものが連なっている。
大河の流れは穀物の収穫を左右し、穀物の収穫は税の量を決め、税は軍を支える。軍は国境を守り、国境が安定すれば交易路が開かれ、都市が繁栄する。都市の繁栄は新たな工房と市場を生み、そこから再び富が生まれる。富は土地を潤し、土地は再び穀物を実らせる。
この循環は、誰か一人の意思によって動いているわけではない。
それは長い時間の中で形作られた仕組みであり、無数の人々の生活と労働によって支えられている。人々はそれを「秩序」と呼んだ。
秩序とは、剣によって守られるものでもあり、契約によって維持されるものでもあり、また沈黙によって保たれるものでもある。皇帝の権威、貴族の義務、官僚の書類、兵士の行軍、農民の畑仕事。それぞれが役割を果たし続けることで、帝国という巨大な仕組みは動き続ける。
帝都セラト=ヴェールを歩けば、その秩序は一目で理解できる。
広い石畳の大通り、白い石柱が並ぶ宮殿、整えられた庭園、夜会へ向かう馬車の列。貴族たちは金糸を織り込んだ衣装をまとい、香料の匂いが漂う回廊で礼儀正しく挨拶を交わす。街路では商人が声を張り上げ、運河では荷船が静かに行き交う。そこにある光景は、帝国という国家が永遠に続くかのような安定を感じさせる。
その一方で、帝国の地図を広げれば、また別の姿が見えてくる。
北方には長く続く境界地帯があり、そこでは城砦が連なり、常に警戒の灯が絶えない。人間とは異なる種族――魔族と呼ばれる存在が住む土地が、その向こうに広がっているからである。
魔族は、古い記録にも繰り返し登場する。
その姿や生態は地域によって語られ方が異なり、誇張や恐怖が混じった伝承も多い。それでも一つだけ確かな事実がある。帝国と魔族は、長い年月にわたって衝突を繰り返してきたということだ。
戦争は時に大きく燃え上がり、時に小さく燻る。
城砦が築かれ、村が守られ、軍が進軍する。勝利の報告が届く日もあれば、敗北の知らせが静かに城門をくぐる日もある。
戦場の名が歴史書に刻まれる一方で、記録に残らない死もまた無数に積み重なっていく。
それでも帝国は続いてきた。
王が変わり、法律が書き換えられ、貴族の家系図が塗り替えられても、国家そのものは崩れなかった。人々はこの国の秩序が揺らぐことはないと信じていた。少なくとも、多くの者にとってはそう思う方が自然だった。
学術院の高い窓から帝都の屋根を見渡せば、そうした秩序の姿がよく見える。
そこでは多くの研究者が静かな日々を送っていた。天文学者は夜空を測り、医師は病の原因を探り、錬金術師は物質の変化を調べる。彼らは戦争の指揮を執るわけでも、政治の場に立つわけでもない。世界の仕組みを理解すること、それが彼らの仕事だった。
その研究者たちの中に、一人の学者がいた。
サカモト博士。
博士の研究は、他の学者たちとは少し異なる方向を向いていた。
天体の運行や薬の調合よりも、彼の関心は生命そのものに向けられていたのである。人の身体はどのように作られているのか。精神はどこから生まれるのか。思考や感情というものは、肉体のどこに宿るのか。
博士は、人間の身体だけを観察していたわけではない。
魔族の生態についても調べ、両者の違いを長く研究していた。骨格、細胞、神経、再生能力。そうした構造の違いは、単なる種族差という言葉では説明しきれないほど多くの謎を含んでいた。
研究は静かに続いた。
長い時間をかけて観察と実験が繰り返される。紙の上には数えきれないほどの図と記録が残され、仮説が生まれては消えていった。
やがて博士は一つの考えに辿り着く。
生命とは、固定された形を持つ必要があるのだろうか。
もしその構造を根本から作り直すことができるなら、既存の生物とはまったく異なる生命体を生み出すことも可能ではないだろうか。
その考えから、博士は新しい実験を始めた。
生み出された生命体は、従来の生物とは大きく異なっていた。
身体の形は一定ではなく、環境に応じて柔軟に変化する。物質の影響を受けながら姿を変え、特定の形に固定されることがない。
その存在は、極めて単純でありながら奇妙だった。
柔らかな身体は境界を持たず、液体のように広がることも、固まることもできる。
博士はその生命体に、短い名前を与えた。
スライム。
この名前が、後にどのような意味を持つのか、その時はまだ誰も知らない。
研究室の小さな容器の中で揺れるその生命体は、ただ静かに存在しているだけだった。
ただ一つだけ、明らかな欠落があった。
その生命体は、自分という存在を理解することができない。
形を変える能力を持ちながら、どの形が自分なのかを認識することができない。
博士はその事実を記録し、観察を続けた。
生命の研究としては、まだ始まりに過ぎない段階だったからである。
この時点では、誰も気づいていない。
この小さな研究が、やがて帝国の秩序の中に新しい波紋を生み出すことになるということを。
帝国は巨大で、歴史も長い。
一つの研究が国家を揺るがすなど、想像する者はいなかった。
それでも世界は、時にごく小さな出来事から動き始める。
研究室の静かな机の上で生まれた一つの生命。
その存在はまだ何も知らない。
世界の広さも、自分の形も。
これから訪れる運命も——




