後天性Ωとは1
今日は朝からずっとソワソワしている。理由は修一朗さんと一緒に夕食を取る約束をしたからだ。夕食まではまだ時間があるというのに何も手につかない自分に思わず笑ってしまった。
(そうだ、せっかくだからもらった着物に袖を通してみよう)
先日、修一朗さんからとてもいい着物をいただいた。はじめは「まさか」と思ったけれど、あれは間違いなく大島紬だ。父が何着か持っていたから間違いない。
(柄は随分現代風だったけれど)
以前、学校で着物の柄も日々新しくなっているのだと話していた級友がいた。彼の家は老舗の大きな呉服屋で、だから着物のことに明るかったのだろう。最近は洋装と合わせるのが流行りで、そのとき着る着物は柄が大きく派手なほうがよいのだと熱心に話していたのを思い出した。
修一朗さんが届けてくれた紬は決して派手な色じゃない。だけど全体的に柄が大きく鳥の羽のような曲線の柄も入っていた。しかも着物だけじゃなくお揃いの羽織まであった。一揃えの大島紬なんてどれだけ高価だったことだろう。
(せっかくなら修一朗さんに一番に見てほしい)
僕はどちらかというと洋服を好む。洋服が多かった姉のお下がりを小さい頃に着せられていたからかもしれない。寝るときは寳月の家でもここでも浴衣だけれど、日中に着物を着ることは滅多になかった。それにあんな高価なものをと思うと気が引ける。だらかといって仕舞ったままでは宝の持ち腐れだ。
(よし)
着物の着付けはできる。使用人の手を煩わせることもない。それならと桐の箪笥から着物と帯を取り出した。下着はどうしようか考えたけれど、このままでいいかと洋服を脱いで着物を羽織った。やっぱり触れた感じからして安物とは違う。少し緊張しながら帯を結んだ。
(なんだか正月を迎えるみたいだ)
寳月の家では毎年正月に必ず着物を着た。そのせいか身が引き締まるような思いがする。同時にあまり楽しくないことを思い出してしまった。
正月になると親戚や古い付き合いのある人たちが挨拶回りで屋敷にやって来る。それを僕は父と受けなくてはいけなかった。βであっても僕は寳月の長男で、αでなくても姿を見せないわけにはいかない。ただひたすら父の後ろで頭を下げるのが正月の僕の役割だった。
(寳月の家のことをあれこれ思い出すのはやめよう)
思い出してもいいことはない。修一朗さんに気持ちよく食事をしてもらうためにも暗い顔をしていては駄目だ。
(それに忙しい修一朗さんに心配をかけたくはないし)
僕と違って修一朗さんは忙しい。仕事の話をしたことはないけれど、珠守家は様々な商いをしていると聞いているから大変なはずだ。週末も出かけることが多く、それなのに僕との散歩の時間は必ず取ってくれる。それだけじゃなく毎日のように顔を見せてもくれた。
それどころかいまでも僕のためにと本郷や神田まで本を買いに足を運んでくれる。今日だって本当は忙しいかもしれないのに夕食を一緒に食べる時間を作ってくれた。
(修一朗さんはこんなにも僕を大事にしてくれている)
胸がじわりと熱くなった。僕も負けないくらい修一朗さんを想っているけれど、はたして僕は修一朗さんに何をしてあげることができるだろうか。
(僕がΩだったら子どもを生むことができたのに)
胸がズキンと痛んだ。考えたところでどうしようもないことなのにどうしても考えてしまう。
「ふぅ」と息を吐いてから椅子に座った。夕食までまだ時間がある。それまでに余計なことは全部隅に追いやってしまおう。何度もそう言い聞かせるけれど、頭に浮かぶのは婚姻届や修一朗さんとのこと、βである自分のことばかりでため息が漏れる。使用人が呼びに来るまで結局そんなことばかり考えてしまった。
(余計なことは考えないようにしなければ……考えないようにするのは得意だっただろう)
余計なことを踏みしめるように廊下を歩いた。少し緊張したままトントンとドアを叩き、「どうぞ」という声に一度だけ深呼吸をして部屋に入る。
「あぁ、よく似合っている」
部屋に入るなり修一朗さんが笑顔になった。そうしてぐるりと僕の周りを一周し、もう一度「よく似合っている」と褒めてくれる。
「洋服もいいけれど、やっぱり着物もよく似合うね。千香彦くんの凜とした雰囲気にぴったりだ。そうだ、今度は袴も揃えようか。きっと袴もよく似合うよ」
「ありがとうございます。でも、そんなに仕立ててもらっても着ていく場所がありません」
これまで何度かそう言って遠慮したけれど修一朗さんが聞き入れてくれたことは一度もない。それでもと思い「これ以上は必要ないです」と口にすると、「僕の我が儘だよ」と修一朗さんが笑った。
「千香彦くんには、ぜひ僕が見立てたものを着てほしいんだ。だからこれは僕の我が儘だ。迷惑かもしれないけれど、どうか諦めてほしい」
「迷惑だなんて……でも、もうたくさんいただいています」
「まだ箪笥いっぱいにはなっていないだろう?」
「それは箪笥が大きいからです」
「僕専用の箪笥やクローゼットよりずっと小さいよ。それに男は想う相手に着る物を贈りたがるものなんだ」
「そんな話、聞いたことがありません」
このまま言いくるめられたらとんでもないことになる。そう思って少し強めに反論した。ところが修一朗さんはにこりと笑い、何か気になることでもあるのか僕の後ろに立つ。
「パーティではよく聞く話だよ」
襟を摘まれたのがわかった。もしかして曲がっていたのだろうか。お礼を言うため振り返ろうとしたけれど、耳元で「それにね」と言われて体が固まった。
「自分が見立てたものが似合っていたら嬉しいし、その後、脱がせる楽しみもある。まるで特別な贈り物を紐解くようだと思わないかい?」
「っ」
囁く声にうなじがゾクッとした。頬が熱くなるのを感じながら、間抜けな顔をしているであろう姿を見られたくなくて少しだけ俯く。
「おっと、いまのは少し破廉恥だったか」
「修一朗さんがこういう人だとは知りませんでした」
「幻滅したかい?」
「そんなことは、ないですけど……」
むしろ僕にそういう気持ちを抱いてくれていることが嬉しくてたまらない。そう思ってしまう僕のほうがよほど破廉恥だ。
その後、向かい合わせに座って食事をしたけれど味なんてほとんどわからなかった。修一朗さんが話してくれる社交パーティでのことや話題の映画、新聞で読んだおもしろい記事、浅草のにぎわいにひたすら相づちを打つ。
「浅草公園に新しい劇場ができたんだ。今度そこに行ってみようか」
「はい……えっ? 劇場ですか?」
「映画が好きなら演劇も気に入るんじゃないかな」
「観たことはないですけど、興味はあります」
「じゃあ今度行ってみよう。最近話題のΩの役者が出ている演目もあったはずだよ」
「Ωの役者……」
「少し前まではΩで役者なんて何事だ、なんて言われていたけれど、もうそんな時代じゃない。外国ではΩが城主になったり、中には大きな会社を経営するΩもいるくらいだ」
「そんなすごい人が……」
僕は外国に明るくない。この国のことにもだ。寳月の家では父の仕事や付き合いに触れる機会はほとんどなく、正月の挨拶でも相手と言葉を交わすことはなかった。もちろん新聞は読んでいたけれど、僕には関係ないと思って政治や経済の記事を真剣に読むことはなかった。
(寳月ではそれでよかったかもしれないけれど、このままじゃ駄目だ)
いまのままでは修一朗さんとあまりにもつり合わない。これじゃあΩ以前の問題だ。せめて会話になるくらいの知識を身に着けなくては修一朗さんに恥をかかせてしまう。
「焦る必要はないよ」
口元をナプキンで拭った修一朗さんがそう言って微笑んだ。
「学びたい気持ちがあるならいつでも学ぶことはできる。学ぶことが楽しいと思えるならさらに身につく。僕は学問とはそういうものだと思っている。もちろん学びにはつらいことや困難もあるけれど、本気になればβやΩでも乗り越えられる」
一般的にαは身体的にも頭脳的にも秀でていて、βやΩは足元にも及ばないと言われている。修一朗さんも学生時代とても優秀な成績を修めたのだと聞いた。そんな修一朗さんの足元にたどり着くには、いったいどのくらい学ばなくてはいけないだろう。
「いまからでも間に合うでしょうか」
βの僕でも、もっと優秀になれるだろうか。
「学びたいと思ったときが最良のときだ。それに学ぶなら外国のことも視野に入れたほうがいい」
「外国のこと……」
「いまはもう国の中だけのことを学んでいても仕方がない。平民だからとかβだからとかも関係ない。とくにΩは勉学よりも家のことだという風潮がいまだに残っているけれど、それはどうなんだろうと僕は思っている。そんなことではこの先どれだけ外国と差を付けられることか」
修一朗さんの言葉に呆気にとられた。僕の周りにはそんなことを考えるような級友はいなかった。αも何人かいたけれど、皆自分のことで精一杯なのか僕たちβを見ることすらなかった。高等学校にΩは一人もおらず、中等科のとき一緒だったΩたちは花嫁修業をしなくてはいけないのだと言って卒業していった。
(なんてすごい人だろう。僕はなんて人を好きになったのだろう)
こんな人のそばに僕みたいな男がいてもいいのだろうか。そう思うのと同時に「修一朗さんの見ている世界を僕も見てみたい」と思った。こんなことを思ったのは生まれて初めてだ。おこがましいとわかっているけれど、それでも好きな人の隣に立って同じ未来を自分の手で掴んでみたい。
「学びたいことがあれば遠慮せずに言ってほしい。それに僕は千香彦くんと一緒に学んでいきたいとも思っているんだ」
「僕と、ですか?」
「きみはきっとこれから大きく変わる。一人じゃどうにもできないこともあるだろうけれど心配しなくていい。僕がずっとそばにいるからね」
そのくらいの覚悟がなければ修一朗さんのそばにはいられないということだろうか。喉がごくりと鳴った。この先どれだけの努力が必要なのか考えるとやはり不安になる。
「食後のお茶をどうかな」
そう言って立ち上がった修一朗さんがワゴンの前に立った。用意してあったポットにお湯を注ぎながら僕を見る。
「今日は大事な話をしようと思っていたんだ」
修一朗さんの笑顔はいつもどおりだというのに、「大事な話」という言葉に胸がどうしようもなくざわついた。




