熱
なんだか頭がボーッとする。体もふわふわして足元が覚束ない。こんなことは初めてで、もしや風邪を引いたのではと少し心配になった。
修一朗さんとキスをした日、僕はそんなふわふわした状態が寝る直前まで続いた。ほとんど病気をしたことがない僕にはこれが病気なのか違うのかよくわからない。症状と言っても湯船に浸かりっぱなしのような感覚だけで、咳が出るだとか喉が痛いだとかもまったくなかったから余計に戸惑った。
(まさかと思っていたけど、キスで興奮したせいだったなんて……)
キス、という言葉に目元が熱くなる。僕がそんなふうに考えるようになったのは、次の日も修一朗さんとキスをして同じような状態になったからだ。
唇が触れ合うだけで心臓が痛いくらい胸が高鳴る。そうかと思えば頭がボーッとして逆上せているような感じになった。元日にお屠蘇で唇を濡らしたときのような、夏の炎天下で長い坂道を上っている最中のような感じにも似ている。
そんな状態が初めてキスをした日からずっと続いている。なぜなら修一朗さんと毎日キスをしているからだ。
(キスって毎日するものだったんだ)
いろんな本を読んできたけれど、どの物語にもそんなことは書かれていなかった。それとも外国では毎日するのが普通なのだろうか。外国人の友人が多いという修一朗さんだから毎日するのかもしれない。
そんなことを考えながらチラチラと修一朗さんを見る。今日は出かける予定がないのかズボンにセーターというゆったりした出で立ちだ。一人掛けソファで足を組みながら本を読む姿は映画俳優のようにかっこいい。
(今日はいつしてくれるんだろう)
綺麗な形をした唇に視線が留まった。部屋に来てからすぐにしてくれることもあれば、しばらく話をしてからのときもある。だけど今日はまだしていない。つい気になって修一朗さんの唇ばかり見てしまう自分が恥ずかしくなった。
「もしかして千香彦くんが話していた詩集とは違った?」
「えっ?」
「表紙を撫でているばかりだから、読みたかった本とは違うのかと思って」
指摘されて膝に置いたままの本に視線を落とした。修一朗さんが神田で買い求めたというボードレールの詩集は装丁がすばらしく、黒い表紙に金の模様はため息が出るほど美しい。タイトルの『悪の華』という文字も外国語の文字を思わせるような優美さで、どこか不穏な気配を感じさせる題名と相まって不思議な魅力を感じる。
「いえ、そんなことはないです。読みたいと思っていた本です」
これは本心だ。以前、学校でこの本が話題に上ったときに興味を引かれ、いつか読んでみたいと思っていた。とくに気になったのが「載せてはいけない詩がある」という言葉だった。
(削除された詩はどんな内容だったんだろう)
作者の祖国では、初版に載っていた六つの詩が反道徳的だという理由で削除されたのだという。おそらくこの本にも載っていないだろう。消された六つの詩は“禁断詩篇六篇”と呼ばれいるのだそうだ。
(禁断……か)
読書家だった級友が「ぜひ読んでみたい」と熱く語っていたけれど、人は禁じられると覗いてみたい気持ちに駆られるのかもしれない。禁じられているからこそ強く思いを寄せるのだろう。
(まるで修一朗さんへの僕の想いみたいだ)
もしかして禁じられた相手だからこんなにも強く想うようになったのだろうか。浮かんだ考えにすぐさま否定した。
僕の想いはそんな浮ついたものとは違う。修一朗さんという人に心から惹かれ、だから好きになった。そうでなければこんなに苦しくなったりしない。いまだって好きな気持ちと不安な思いが入り混じり、そのせいで胸が痛いのは本気で修一朗さんを想っているからだ。
(僕は修一朗さんが好きだ。好きで好きでどうしようもない)
不意にうなじのあたりがポッと熱くなった。チリチリ焦げるような熱が気になって指で何度か擦る。
(そういえば最近首のあたりが少し変だ)
夏でもないのにいまみたいに熱くなることがある。あまりの熱さに鳥肌が立つこともあった。
「どうかしたかい?」
「え?」
「さっきから首を触っているから」
気になって何度も撫でていた手を下ろした。「なんでもないです」と返したけれど修一朗さんの顔は心配そうな表情に変わっている。
「顔が少し赤くなっている。風邪か、それとも寝ているときに痛めたのかもしれない」
立ち上がった修一朗さんが隣に座った。そうして「ここかな」と言いながらうなじに触れる。
修一朗さんの手が肌に触れた瞬間、静電気が走ったような激しい痛みを感じた。肩がビクッと震え、小さな悲鳴みたいな声まで漏れてしまう。慌てて口を手で押さえたけれど自分でも何が起きたのかわからなかった。
「ごめん。勝手に触れて驚かせてしまったかな」
「……いえ、大丈夫です……」
口ではそう答えながらもうなじが気になって仕方がなかった。肌をつつくようなビリビリした感覚は修一朗さんの手が離れても消えることはなく、むしろジクジクと疼くような熱に変わる。
「本当に大丈夫かい?」
「大丈夫です」
修一朗さんに心配をかけたくない。自分でも何が起きているのかわからないから「大丈夫」としか答えようがなかった。もう一度自分の手でうなじを触ってみた。修一朗さんに触れられたときのような痛みは感じないけれど、明らかに熱を持っているのがわかる。
(僕はいったいどうしてしまったんだろう)
やっぱり風邪を引いてしまったのだろうか。それとも何かの病気なのだろうか。「もしかして怪我をしたんじゃ……」と思って生え際から首の付け根まで確認したけれど傷のようなものはない。寝違えや打ち身という感じでもなかった。
「疲れが出たのかな。触れるよ」
修一朗さんの大きな手が額に触れた。「少し熱い気もするけれど」と言いながら、今度は頬に触れる。
「……いや、熱が出ているというほどじゃないね。やっぱり疲れが出たんだろう。明香莉ちゃんのことだけでも大変だったのに僕のことが起きた。早く珠守の家に慣れてほしくて毎週散歩に連れ出したのもよくなかったかな」
「そんなことありません。修一朗さんと庭を歩くのは楽しいですから」
「ありがとう。僕も千香彦くんと一緒にいられるのは楽しいし嬉しいよ」
「修一朗さん……」
頬に触れていた手が顎に移った。親指が唇の端を撫でる感触に、またうなじがピリリと痺れる。
(もしかして……)
キス、してくれるんだろうか。思わず上目遣いで修一朗さんを見てしまっていた。
「目が潤んでいる。もしかして期待している?」
「それは……」
修一朗さんは意地悪だ。僕がさっきからチラチラ見ていたことに気づいていたに違いない。それなのにこんなふうに尋ねるなんてと唇をキュッと噛み締めた。
「ごめん、意地悪を言ってしまった。そうやって少しむくれる顔が見たくて、つい」
「むくれてなんかいません」
「むくれてくれて全然かまわないよ。むしろそうした顔を見せてほしいと思っているくらいだ」
「そんな子どもっぽいこと」
「素直に感情を出せるのはいいことだよ。千香彦くんは昔から我慢強いうえに遠慮ばかりしていた。僕の前ではもっと素直で我が儘になってほしいくらいだ」
我が儘だなんて、僕はもうとっくに我が儘になっている。こうして修一朗さんのそばにいることも修一朗さんに触れてほしいと思っていることも、とんでもない我が儘だ。
「ついでに僕のことを頼ってほしいとも思っている」
「僕はもう修一朗さんに頼りきりです」
「もっと頼ってくれてかまわない。僕はそのほうが嬉しいんだ。むしろ僕がいなくては立てないくらいになってほしいと思っている」
最後のほうがよく聞こえなくて「なんですか?」と聞き返した。にこりと微笑みながら「なんでもないよ」と返されて頬が熱くなる。
「ところで千香彦くんの期待に応えたいと思っているんだけど、いいかな」
「……はい」
小さな声で返事をすると修一朗さんが嬉しそうに笑った。そうして笑顔のまま顔を近づけてくる。
目を閉じるとチュッとキスをされた。最初は優しく触れるだけ、次は少し長く触れ合わせ、三度目に上唇をちゅうっと吸われる。どのキスも気持ちがよくて頭も体もふわふわした。
「可愛い」
囁くような声にそっと目を開けた。焦点が合わないほど近くにある顔にこれでもかと鼓動がうるさくなる。
「怖くないかい?」
「え?」
「結婚する前からこんなことをする僕のことをどう思っているんだろうと気になって。今さらかな」
笑いながら鼻の頭にチュッとキスをする。それだけで目元が熱くなった。
「怖くなんてありません」
「それならよかった」
「それに……その、僕だって、キス、したいと思っているから……」
「うん、知っている」
「……やっぱり」
「僕がきみの考えていることに気づいていると千香彦くんも気づいてるのだろう?」
二人きりの部屋で声を潜める必要はないのに、気がつけばヒソヒソと小声で話をしていた。こっそりと逢い引きをしている恋人のような気持ちになって体が熱くなる。じわじわした熱に指先までカッカとしてくるけれど、一番熱いのはうなじで襟足が触れるだけでぞわぞわした。
「千香彦くんの香りが少し強くなった」
「えっ?」
「シャボンよりいまは甘い香りのほうが少しだけ強いかな」
ただの体臭だというのに、まるで自分がΩになったような気がしてドキッとした。
(本当にΩになれればいいのに……)
最近、気がつけばそんなふうに思うことが増えた。これもαの修一朗さんと想いがつうじたからだろうか。
(それとも僕が強欲になってきた証拠だろうか)
僕は修一朗さんから離れたくないと思っている。周りに何を言われてもそばにいたい。だけど男のβというのがどうしても引っかかり、自分がΩだったらと思わずにはいられなかった。
「僕がΩだったらよかったのに……」
思わずそんな言葉が口を突いて出た。ハッとして慌てて口をつぐむ。修一朗さんはβの僕でいいと言ってくれている。βだとか男だとか関係なく僕を好きだと言ってくれた。それなのに「Ωがよかった」なんて僕が言ってどうするのだと反省した。
せっかく恋人同士のような雰囲気だったのに台無しだ。これが映画のワンシーンだったら相手が怒るか呆れるかして部屋を出て行くに違いない。
「僕はいまのままの千香彦くんが好きだよ」
「……すみません」
「どうして謝るんだい?」
「それは……」
修一朗さんを信じていないと言っているように思えて自分が嫌になった。修一朗さんはもっと我が儘になっていいと言ってくれるけれど、我が儘な僕はきっと醜いだけだ。
「謝らなくていい。それに、きっと謝ることになるのは僕のほうだろうから」
どういう意味だろう。気になって問いかけようとしたけれど、修一朗さんの顔が首のあたりに近づくのがわかって声が出なかった。耳の下あたりに鼻先が触れているのがわかる。そうかと思えばクンと鼻を鳴らす音がして耳が熱くなった。
(匂いを嗅がれている)
初めてされたときは恥ずかしいだけだったのに、いまはむしろ嗅いでほしいと思う。匂いを嗅がれるとΩになったような気がしてホッとするからだろうか。性懲りもなくそう思ってしまう自分が嫌で仕方がない。
「千香彦くんはとてもいい匂いがする」
「んっ」
「だから焦る必要はないよ」
「んんっ」
「そのうち嫌というほど香りを感じる日が来るはずだ」
「んふっ」
唇が首筋に触れたのがわかり、腰から背中にかけてゾクゾクッと震えた。痺れるような感覚がうなじのあたりでグルグル回っているような気がする。気がつけば首筋に鼻を埋めている修一朗さんの頭を両手でぎゅうっと抱きしめていた。




