密やかに育つ欲望
(……何か、すごくいい香りがする……?)
濃厚な香りに目が覚めた。なんだろうと思って頭を動かすと、すぐそばにある小さな丸テーブルに花束があることに気がついた。
(薔薇の、花束……?)
ゆっくり体を起こして改めてテーブルを見た。花束のそばにカードがある。手に取ると「おはよう」とだけ書いてあった。
(これ、修一朗さんの字だ)
誕生日の贈り物に付いていたカードを思い出した。いまでも大事に保管しているカードは、もう何度見返したかわからない。だから筆跡を間違えるはずがない。
(修一朗さんがこの花束を……?)
頬が熱くなった。これまでいろんな贈り物をもらったけれど花束なんて初めてだ。
(修一朗さんって、こういうことをする人だったんだ)
真っ赤な花びらをそっと撫でる。薔薇の濃密な香りに昨夜のことが蘇った。
まさかあんなふうに匂いを嗅がれるとは思わなかった。しかも最後は首にキスまでされた。まるで外国映画にありそうなワンシーンだと思ったからか、姉と観たラブストーリーを思い出す。映画の登場人物と自分を重ね合わせてしまい顔がボボッと熱くなった。
(僕は修一朗さんが好きだ)
新しい修一朗さんの一面を知るたびにますます想いが募る。
(でも、このまま好きでいてもいいんだろうか……姉さんがいたらなんて言っただろう)
ふと、「千香ちゃんは笑顔が一番可愛いわ」と言われたことを思い出した。「何それ」と笑い返すと、「そういう照れくさそうな笑顔も好きよ」と言ってにこりと笑っていた。
「わたしね、千香ちゃんがずっと笑顔でいられるように毎日たくさん神様にお願いしているの」
「えぇ? 僕のことじゃなくて自分のことをお願いすればいいのに」
「あら、わたしの一番の願い事よ?」
「じゃあ僕も一番の願い事をする。どうか姉さんが早くよくなりますように」
「ふふっ、千香ちゃんは優しいのね」
「そんなことないよ」
「千香ちゃんはとても優しいわ。でも、優しすぎて心配になる」
「どういうこと?」
「だから神様にお願いしたの。“世界で一番千香ちゃんを大事にしてくれる人をください”って」
「意味がわからないよ」
「いつかきっとわかるわ」
そう言って笑ったのはいつだっただろう。僕が中等科に進学した後だっただろうか。
(もしかしてあのとき話していた“大事にしてくれる人”って、修一朗さんのことだったんだろうか)
聞きたいことは山ほどあるのに、もう尋ねることはできない。もっといろんなことを話しておけばよかった。そんなことをつらつら考えながら午前の時間を過ごした。
午後、いつもどおり食事を終えると片付けに来た使用人が「修一朗様がお呼びでございます」と告げた。途端に昨夜のことが蘇り顔が熱くなる。
(食事の後でよかった)
そうじゃなければまた残してしまうところだった。少し緊張しながら「わかりました」と答えた。
軽く身なりを整えてから部屋に向かった。昨夜、修一朗さんに部屋まで送ってもらったときのことを思い出しながら廊下を歩く。
(「僕は本気だよ」だなんて……)
いくら修一朗さんがそう思っていても現実は厳しいはずだ。そもそも男のβと結婚しようだなんて馬鹿げている。仮に結婚と似たような状況になれたとしても、修一朗さんと縁を結びたい人たちが諦めるとは思えない。
(都留原家だってきっと諦めないだろう)
駄目だ、どう考えても難しいことばかりだ。歩きながら「ふぅ」とため息ばかりが漏れる。
部屋に入るとどこかに出かけたのか修一朗さんはしっかりとタイを着けていた。そういうかっちりした姿も素敵で、つい惚れ惚れと見つめてしまう。
「早いに越したことはないと思って、役所に書類を取りに行っていたんだ」
そう言って修一朗さんが微笑んだ。
「書類?」
「これだよ」
差し出されたのは婚姻届の書類だった。テーブルに置かれた書類に目を見開く。
「世の中まだまだ事実婚が主流と言われているけれど、婚姻届を出すという法律は帝のもとで決まったことだからね。それに僕はこうしたことはきっちりしておきたい性分なんだ」
「法律のことは、学校で教わりました」
かろうじて答えられたのはそれだけだった。婚姻届の法律は二十年ほど前に定められた。しかしその後もこれまでどおりの事実婚が多く、「それでは帝の権威に関わる」ということで華族の間で書類を提出する動きが加速しているのだという。
書類を見て、そっと視線を上げた。修一朗さんは本当に書類を出すつもりなのだろうか。
「どうかしたかい?」
「本当に出すんですか?」
「もちろん」
「でも、僕は……」
婚姻届に同性の名前は書けない。そういう法律だと学校で習った。ただしαとΩの結婚は別で、αとΩなら同性でも結婚できる。けれど僕はΩじゃない。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「でも……」
「この結婚に反対する人は誰もいない。きみのお父上もだ」
「父と会ったんですか?」
「書類を取りに行く前にね。僕が『婚姻届を提出してもかまいませんか?』と確認したら、驚きながらもすぐに頷いてくれたよ」
父の様子が目に浮かんだ。そんなことできるはずがないとわかっているのに、それでも珠守家と縁を結びたくて同意したのだろう。
「もちろん僕の家族も千香彦くんとの結婚には賛成してくれている」
「えっ?」
「もしかして反対されていると思ったのかい?」
そんなの当然だ。いまや珠守家は誰もがうらやむ大華族なのだから、役に立たない男のβとの結婚を喜ぶはずがない。
「家族は僕が本気なら好きにすればいいと言ってくれている」
「まさか……」
「もともと珠守の人間はそういう気質なんだ。自分がこうだと思ったら真っ直ぐに突き進む。邪魔をされようものなら片っ端から排除する。珠守に生まれるαはとにかく我が強くてね。とくにつがいに関しては強い執着を持つ血筋みたいで、つがいに何かしようものなら身内でも身の危険を感じるくらいなんだ」
修一朗さんの目がギラリと光ったように見えた。背中が震えるような感覚に、一瞬αの威圧かと思った。けれどそれとは違う。胸が苦しくなるようなものを感じるけれど、父を前にしたときのような恐ろしさはない。
「僕は千香彦くんと結婚したい」
「……それでも無理です」
「千香彦くんは僕と結婚したくない?」
「そんなことは……僕だって……だけど、僕じゃつがいにはなれません」
つがいとはαとΩの特別な婚姻関係のことを指す。αとΩの結婚は“つがい婚”と呼ばれ、帝室の方々の結婚でも使われる由緒ある言葉だ。
「つがいの件は一旦置いておこう。とにかく結婚は問題ない。僕にはそうできるだけの力がある。婚姻届も無事に受理されるよ」
修一朗さんがにこりと微笑んだ。
「珠守の家は少しばかり役所に顔が利くんだ。たとえばΩの表記漏れや記載間違いがあったとしても、珠守が出す婚姻届は必ず受理される」
「それって……」
「多少はお偉方に包むことになるだろうけれど、それはいつものことだ。国も役所も大陸との戦争に勝ったことで沸き立っている。おかげで多少のことには目を瞑ってくれる。加えてこの好景気だ。懐さえ潤えば細かなことは気にしないお偉方も多い」
にこりと微笑みながら修一朗さんが隣に立った。そうして僕に三人掛けのソファを勧めながら隣に腰かける。
「それでも駄目だと言われたら奥の手を使おう。兄の奥方は現内務大臣の妹でご尊父は元大蔵大臣、お祖父様は先の時代の内務卿でいらっしゃる。そうしたことを伝えれば大抵は融通を利かせてくれる」
話の内容より出てきた人たちの肩書きに驚いた。「珠守は成金だ」なんていまだに噂する人たちがいるけれど、いまの珠守家に勝る華族がいったいどのくらいあるだろうか。屋敷や学校で聞いた噂話を思い出し、「あぁ、そういうことか」と腑に落ちた。
おそらくそうした話を熱心にしているのは力を失った華族たちに違いない。遷都前は由緒正しい家柄だったとしても大陸での戦争で一変した華族は多いと聞く。寳月のように落ちぶれた家も少なくはないと聞いた。それでも自尊心や嫉妬心から「成金だ」なんて口さがないことを言っているのだろう。
(いくら蔑もうとしても現実は違う。いまや珠守家は歴とした大華族だ)
そんな珠守の家にはたして僕はふさわしいだろうか。
「僕はそうしたお歴々の名前を使ってでも結婚したいと思っている。それでも足りないというなら、姉の婚約者は宮様の従妹でいらっしゃるとちらつかせてもいい。そのくらい僕は千香彦くんとの結婚を真剣に考えているんだ」
見たことがないほどの強い眼差しにドクンドクンと鼓動が強くなった。
「でも……僕はただのβの男です。そんな無理をしてまで、」
修一朗さんの指が言葉を遮るように僕の唇に触れた。
「僕にとってきみはただのβの男じゃない。僕だけの大事な人だ」
そう言って鼻をクンと鳴らした。
「千香彦くんは香りのことを気にしているようだけれど、僕には千香彦くんの香りがわかる。シャボンと少し甘い香りが混ざっているのがきみの香りだ。そして千香彦くんも僕の香りがわかる。いつもつける香水に、たまに兄の葉巻や姉が好きなコーヒーの香りが混ざっているのが僕の香りだ。それで十分だと思わないかい?」
それはただの体臭だ。αやΩの香りとは違う。それなのに首を横に振ることができなかった。修一朗さんがそれでいいと言ってくれるなら僕は修一朗さんのそばにいたい。偽りのΩになってでも隣にいたいと思ってしまった。
「千香彦くんがΩかどうかは関係ない。僕の運命の相手は千香彦くんだ。それとも僕にそう想われるのは迷惑かな」
そんなことはない。好きだと言ってもらえるだけで天にも昇る気持ちになる。いまだって無理を押しても婚姻届を出そうと言ってくれるのが嬉しくて仕方なかった。
「僕はどんな手を使ってでも千香彦くんと結婚したいと思っている」
あぁ、夢なら覚めないでほしい。僕は修一朗さんと結婚したい。許されるならこのままそばにいたい。これまで我慢してきた気持ちがじわじわとせり上がってくる。
「僕は我が儘で諦めの悪い男なんだ。もし千香彦くんがうんと言ってくれなくても、頷いてくれるまで毎日想いを告げるよ」
そう言って唇に触れていた修一朗さんの指が動いた。優しく擦れる感触に唇がピリピリする。首筋や背中にまでジリジリした痺れが広がっていく。
「僕の運命の相手は千香彦くん、きみだよ」
何かが僕の中でパチンと弾けた。鼓動がどんどん速くなるのを感じながら、僕は顎を少し上げてそっと目を閉じた。
指とは違う温かくて柔らかなものが唇に触れた。軽く二度触れたあと、チュッと音を立ててほんの少し吸われる。それだけで頭がふわふわして体の芯がゾクゾクした。触れ合っているところから優しいのに燃えるような熱が僕の中に広がっていく。
(僕は修一朗さんが好きだ。……僕は修一朗さんと一緒にいてもいいのかな)
閉じた瞼の裏に微笑む姉の姿が蘇った。都合のいい幻だとしても、姉の微笑みに背中を押された気がした。
(僕は修一朗さんと一緒にいたい)
いまも、これからも、この先ずっと一緒にいたい。できることなら修一朗さんと添い遂げたい。男のβでしかない僕が思うには傲慢すぎる願いに神様は呆れてしまうだろうか。
それでもかまわないと思った。神様に呆れられても修一朗さんの手を取りたい。ほかには何もいらないから修一朗さんの隣にいさせてほしい。
もう少しだけ顔を上げる。優しい触れ合いから少しだけ大人の触れ合いに変わった。修一朗さんの指が僕の耳に触れ、縁を確かめるように撫でながら唇の角度が何度も変わる。
気がつけば「もっと」という言葉が頭に浮かんでいた。「もっと」の後に何が続くのか自分でもわからない。でも、これだけじゃ物足りないと思ってしまった。もっと、もっとと貪欲に何かを求めてしまう。
(僕はなんて浅ましいんだ)
こんな僕を知ったら修一朗さんだってきっと呆れるに違いない。そう思っているのにこのままじゃ抑えきれなくなりそうだ。
(もっと修一朗さんに触れたい……もっと僕に触れてほしい)
僕はなんて欲深いのだろう。
(……あぁ、終わってしまった)
唇に感じていた熱が遠ざかった。幸せな気持ちの中に、ほんの少し不満のようなものを感じて顔を伏せる。
(唇が熱い)
まだ何かが触れているようにピリピリする。それに体の奥がジクジクした。それが何か気づいてはいけないような気がしてそっと目を閉じた。




