香り
(やっぱり頷くんじゃなかった)
夕食を食べながらそんなことばかり考えていた。あのときは修一朗さんの言うとおりにするのがいいと思ったけれど、よくよく考えたら夜更けに部屋を訪ねるなんていいはずがない。
(そもそも好きな人の部屋に夜行くなんて……って、僕は何を)
顔が熱くなった。恥ずかしいことを考えてしまったと箸が止まる。
(そりゃあ僕は修一朗さんのことが好きだけど、修一朗さんは……)
昼間言われた「僕はきみにずっと恋をしているんだ」という言葉が蘇った。
(本当なんだろうか)
修一朗さんが嘘をつくとは思えない。それでもやっぱり信じられなかった。それなのに本心では嬉しくて頬が緩みそうになる。疑う気持ちと喜びが混じり合って落ち着かなくなってきた。いろんな意味で胸がいっぱいになり、結局夕食を半分近く残してしまった。
片付けに来た使用人が困り顔をしている。食事を残したのだと修一朗さんに報告されてしまうかもしれない。それじゃあまた心配をかけてしまう。
「あのっ。具合が悪いわけじゃないんです。このあと修一朗さんの部屋に行くので緊張しているからというか、それで……」
言い訳の内容に恥ずかしくなった。これじゃあ修一朗さんのせいだと言っているようなものだ。「すみません、なんでもないです」と言いながら使用人を見た。てっきり呆れていると思っていたのに、なぜかハッとしたような顔をしている。それどころか「そうでございました」と言いながら顔を赤くした。
あっという間に片付けを終えた使用人が部屋を出て行った。顔を赤くしたままだったのは気になるけれど、それよりいまはこのあとのことだ。
(とにかく修一朗さんの部屋に行こう)
約束をしたのに顔を見せなければ心配をかけてしまう。重くなった腰を上げて羽織っていたカーディガンを整え直した。おかしなところはないか確認し、念のためとズボンをパンパンと軽く叩いてから廊下に出る。
(それにしても夜に会いたいなんてどういうことだろう)
もし用事があるなら明日でもいいはず。そもそも夜話をしないといけないほどの急ぎの用事があるとも思えない。
(……もしかして、情人になってほしい、とか……)
頭をよぎったとんでもない考えに「まさか」と否定した。けれど、絶対にないとは言い切れない。
(修一朗さんに限ってそんなことあるはずがない)
それでも夜更けという時間帯が僕を惑わせた。
華族や大富豪の中には情人の一人や二人持つのは当たり前だと考える人たちがいる。都がまだ西にあった頃は側室を持つ帝に倣って第二夫人や第三夫人を持つ華族もいた。東に遷都してからは妃は一人のみと定めた帝に追随してはいるものの、昔の慣習が捨てられないのか情人を持つ華族や富豪は絶えないと聞く。
(だからって男のβを情人にするだろうか)
僕なんかを情人にすれば世間体が悪い。「いや、とっくに噂話は広がっているか」とため息が漏れた。華族や富豪が集まるパーティで、出来損ないのβ男がαに取り入っていると嗤う人たちの声が聞こえるような気がした。
段々と気分が重くなるのを感じながら廊下を歩いた。昼間と違い庭に面した廊下は薄暗く、それでも時々すぅっと明るくなるのは雲の間から月が顔を覗かせるからだろう。
ふと、庭に目が留まった。窓は閉まっているのに金木犀の香りがする。近くにあるのだろうかと見たけれど遠くははっきり見えない。
(Ωだったらよかったのに)
こんなふうに修一朗さんの香りを感じ取ることができれば、僕ももっと……そんなことを考える自分に笑いたくなった。
(とにかく何を言われても従おう)
それしか身代わりの僕にできることはない。「それに僕は修一朗さんのことが好きなんだし、情人でも御の字じゃないか」と思うものの胸がキリリと痛くなった。
踏みしめるように廊下を歩き、最後の角を曲がる。この先に修一朗さんの部屋がある。喉がごくりと鳴った。指先が少し冷たい。それでも修一朗さんを待たせるわけにはいかないと何度か深呼吸してからドアを叩いた。
「どうぞ」
いつもと変わらない声に胸がぎゅうっと締めつけられた。苦しい気持ちを無理やり押し込めながらドアを開ける。
「待っていたよ。さぁ、入って」
僕が開ける前にドアが開いた。開けたのはもちろん修一朗さんで、お礼を言おうとしたけれど目の前の光景にポカンとしてしまった。
今朝、懐中時計を持って来たときにはなかった寝椅子が目の前にドンと置かれている。元々その場所にあったはずの小さな丸テーブルと椅子は壁際に追いやられ、ほかの家具も位置が変わっていた。
(ソファや椅子ばかりが並んでいる)
並べられたソファや椅子の上にはたくさんの物が置かれていた。洋服や着物、靴下や足袋、帯も混じっている。それ以外にも鞄や靴、帽子、それにステッキや本まであった。
「とりあえず思いつくままに僕が使っている物を集めてみたんだ」
置かれている物が修一朗さんの物だということはわかった。でも、どうしてそんなことをしたのだろう。洋服や着物に皺が寄るんじゃないかと心配になって顔を見た。
「これだけあれば僕の香りがわかるんじゃないかと思ったんだけど、どうかな?」
「香り……?」
「一番香りがしそうなのは、やっぱり身に着ける物かな」
「さぁ、どうぞ」と言いながら修一朗さんが僕の背中に手を回した。促されるまま寝椅子に近づく。近くで見ると思ったより多くの着物や洋服が積み重ねられていた。
「遠慮しないで嗅いでみて。もちろん手に取ってもらってかまわないから」
そんなことを言われても困ってしまう。そもそも身に着けていたものの匂いを嗅ぐなんて、持ち主の目の前でできるはずがない。困惑する僕をよそに修一朗さんが楽しそうに洋服を手に取った。
「これなんかどうかな。昨日着ていた服だから、まだ僕の香りが残っていると思うんだ。本当は今朝脱いだパジャマが一番いいんだろうけれど洗濯してしまってね。一応、用意だけはしたんだけど」
修一朗さんの手には濃紺色のパジャマがあった。「はい」と差し出されてもどうしていいのかわからない。
「あの、これはいったい……」
どういう状況かわからなくて窺うように視線を上げる。すると修一朗さんがにこりと微笑んだ。
「これだけ身につけたり使ったりしているものがあれば僕の香りがするんじゃないかと思ったんだ」
「修一朗さんの香り、ですか?」
「香りを感じるのはなにもαやΩだけじゃない。着ているものや持ち物からは多かれ少なかれその人の香りがする。香水だったりお香だったり、もしかしたら食べた料理の匂いや出かけた先の草花の香りがするかもしれない。そういう香りもその人の香りだと僕は思っている」
背中にあった手が僕の肩を抱き寄せた。グッと近くなった修一朗さんの熱に鼓動がドクンと跳ねる。
「もちろん一番に香るのは僕自身のはずだけど、何か感じる?」
修一朗さんが少しだけ身を屈めた。「どうかな?」と耳元で囁かれてますます心臓がうるさくなる。
(こんな状況で香りなんてわかるはずがない)
緊張しすぎて返事すらできなかった。どうしよう、なんて答えればいいのだろう。学校の試験でもこんなに困ったことはない。真っ赤になっているだろう頬を見られたくなくて顔を逸らすと、「千香彦くん」と言いながらさらに顔を寄せてきた。
「ま、待って」
これ以上近づかれたらどうにかなってしまいそうだ。慌てて修一朗さんの胸を押し留めた。それでも修一朗さんは腕を離してくれない。きっと僕が返事をするまでこうしているつもりなのだろう。
ゆっくりと息を吸った。最初に感じたのはふわっとした爽やかな香りで、その中にほんの少し煙るような匂いもする。
「……何の香りかわからないですけど、爽やかな香りと……それに何かを燃やしたような香りがします」
「爽やかなほうは僕が愛用している香水の香りかな。燃やしたような匂いはきっと葉巻だ。夕食の後に兄が葉巻を楽しんでいたからね。僕は葉巻は得意じゃないんだ」
修一朗さんの言葉で、僕は初めて修一朗さんが香水を付けていることと葉巻を嗜まないことを知った。
(そういえば修一朗さんにもらった物から香りがしたことがあった)
ほんのわずかだったけれど、ハンカチや本からほんのり甘い香りがしていたのを思い出す。あれは修一朗さんが使っていた香水の香りだったのだろうか。そうだとしたら十代の頃から香水を使っていたということで、なんてお洒落な人なのだろうと感嘆のため息が漏れた。
「いま千香彦くんが感じた香りが僕の香りだよ」
修一朗さんの言葉にハッとした。
(これは僕が香りのことをあれこれ言ったからだったんだ)
家具の位置を変えてまで僕と香りの話をしようとしてくれている修一朗さんに胸が熱くなった。同じくらい苦しいものがわき上がってくる。
「修一朗さんの香りは感じます。でも、これはαの香りじゃありません」
これだけ密着しているのに感じるのは香水と葉巻の香りだけだ。きっとαの香りというのはこういうものじゃないはず。嬉しいのに切なくて唇をクッと噛み締めた。
「香りはαとΩだけが感じ合うものじゃない。現に千香彦くんは香水と葉巻の香りに気がついた」
「でも、」
「αだとかΩだとかは関係ない。いま千香彦くんが感じた香りが僕の香りだよ」
そう言って修一朗さんがさらに顔を近づけてきた。呼吸まで感じられそうな距離に緊張で体が強張る。
「……千香彦くんからは柔らかなシャボンの香りがする。それだけじゃない。ほんの少し甘く感じるのは千香彦くん自身の香りかな」
クンクンと鼻を鳴らしている修一朗さんの仕草に顔がカッと熱くなった。まさか自分の匂いを嗅がれるとは思わなかった。しかも好きな人にだ。さっきまでとは違う意味で心臓がバクバクし始める。
「あ、甘い、なんて、」
「僕には甘く感じる」
「そんなこと、」
「僕は鼻がいいほうなんだ。これは千香彦くんの香りで間違いない」
またクンと鼻を鳴らす気配がした。居たたまれなさと羞恥で体が小刻みに震える。そもそも清潔じゃない体を嗅がれるなんて恥ずかしくてしょうがない。きっと一日分の汗や埃、ほかにも何か匂いがしているかもしれない。
「あ、あの、もう、」
「僕のことが怖いかい?」
「えっ?」
「こんなふうに強引なことをする僕を軽蔑するかい?」
「そんなこと……」
軽蔑なんてするはずがない。それどころか本心ではこうされることに喜びさえ感じていた。恥ずかしいのに嬉しい。βの僕を求めてくれているような仕草に想いがあふれそうになる。
(でも、βの僕じゃ修一朗さんのそばにはいられない)
男の僕がそばにいたら修一朗さんの醜聞になる。わかっているのに離れたくないと思ってしまう自分が嫌になった。いまだって本当に嫌なら身をよじればいいのに、僕の手は逆に縋りつきそうな感じで動かすことができなかった。
「軽蔑なんてしてません。修一朗さんはその、いつだって優しくて紳士だから」
「紳士か」
なぜか修一朗さんが息を吐くように笑った。
「たしかに僕はずっと紳士であろうと心がけてきた。それが珠守家の次男である僕の有り様だからね。だけど、本当の僕はそこまで紳士じゃない」
いつもと少し違う修一朗さんの声に背中がぞわっとした。このままそばにいては駄目だ。なぜかそう思えて離れようとした。けれど僕が体を動かす前に修一朗さんに両肩を掴まれて抱き寄せられた。
「しゅ、いちろ、さん」
肩を掴む手の力に緊張が走る。身をよじるけれど力は増すばかりで、ますますしっかりと抱きしめられて混乱した。
「きみはもう十九歳、立派な大人だ。僕は一人の大人として千香彦くんを見ている。千香彦くんも僕のことを一人の男として見てほしい」
「修一朗さん……」
「大好きなお姉さんの許嫁としてじゃなくて僕自身を見てほしい」
囁かれた言葉に静電気のようなものが背中を駆け抜けた。そのまま僕の頭をビリビリと刺激して、なぜか首あたりがジクジクし始める。
(そんなの、僕はとっくにそういう目で修一朗さんを見ていた)
もうずっと前から姉の許嫁としてではない眼差しで修一朗さんを見ていた。報われない想いだとわかっていても止められなかった。
「どうか僕を見てほしい。願わくば僕だけを見ていてほしい」
「っ」
耳に熱いものが触れた。直後、チュッという小さな音がして「まさか」と唇が震えた。
「修一朗さ、んっ! 待って、しゅうい、んんっ」
名前を呼ぼうとするたびにチュッと音がする。音と耳の縁に触れる熱い感触にうなじがゾクッと震えた。
気がつけば縋るように修一朗さんの腕にしがみついていた。そうしないと立っていられなかったからだ。なんとか両足で踏ん張ろうとするものの、耳への刺激に腰から力が抜けてしまう。僕が立てなくなっていることに修一朗さんも気づいているはずなのに、耳へのキスをやめようとしない。
「もぅ、やめて……」
息も絶え絶えにそう訴えた。これ以上されたら頭がおかしくなってしまう。体のあちこちがじくじくしてつらかった。
「しぃっ」
息を吹きかけるようにそう囁かれて今度こそ腰が砕けた。立っていられなくなり、必死に修一朗さんにしがみつく。
「あぁ、たまらないな」
「しゅ、ちろ、さん」
「ね? 僕はまったく紳士じゃないだろう?」
囁く吐息に肌が粟立った。ゾクゾクしたものにうなじを刺激されて目眩がする。
「やっぱり甘い香りがする。僕の思い違いじゃない」
「んっ」
耳の下に鼻をすり寄せられて息を呑んだ。何がどうなっているのかわからない。肌に感じる修一朗さんの熱が強すぎて膝がガクガクと震えた。
「きみは僕の運命だ。どうか僕の手を取ってほしい」
「んんっ!」
首筋にチュッと吸いつかれた。それだけで体の奥から熱いものがせり上がり、このままでは果ててしまうのではと焦った。
修一朗さんの腕が離れた。「大丈夫かい?」と問いかける声はいつもどおりで、戸惑いながらも掠れた声で「はい」と頷く。本当は大丈夫なんかじゃない。体中おかしな熱に浮かされて気が変になってしまいそうだ。
フラフラとよろけながらそばにあった寝椅子に腰かけた。積み上げられた洋服や小物が少しだけ崩れて僕の周りを埋める。
(……修一朗さんの香りがする……)
まるでまだ修一朗さんに抱きしめられているような気がした。そう思ったからか全身をビリリと痺れるような感覚が走り抜ける。もしかしてΩもこんなふうに感じるんだろうか。そんなふうに思ってしまった自分に驚いた。




