姉の許嫁だった人・3
「お父上から何も聞いていないかな」
「何を、でしょうか」
「もしかしてと思っていたけど、やっぱりか」
少し困ったような顔で修一朗さんがため息をついた。もしかして父と何か大事な約束をしていたのだろうか。そうだとしたら、僕は何も聞かずに珠守家に来てしまったということだ。
(ちゃんと挨拶すべきだった)
家を出る日の朝、挨拶をしようと父の部屋の前までは行った。でも声をかけることはできなかった。姉の死や修一朗さんのこと、自分の行く末のことばかり考え、玄関で見送る父を見てもただ頭を下げて逃げるように家を出た。
「いや、これは僕の落ち度だな。千香彦くんとお父上の関係は明香莉ちゃんからも聞いていたのに、浮かれて失念していた僕が悪い」
「……姉が、僕と父のことを話していたんですか?」
頷く修一朗さんに驚いた。まさか家の中のことまで話していたとは思わなかったからだ。
姉は病弱ながら家庭教師をつけてもらい、女学校に通う人たちと変わらない教養を身に着けていた。もちろん行儀作法もだ。僕の目から見ても名家の淑女として立派な人だったと思う。そんな姉が、いくら許嫁とはいえ修一朗さんにうっかり家の事情を話すとは思えなくて困惑した。
「明香莉ちゃんはずっと千香彦くんのことを心配していたんだ」
「僕のことを……」
「『このままじゃ千香くんは潰れてしまう』と言ってね。僕と会うたびに千香彦くんがどんな子か熱心に話してもくれた」
もしかして微笑み合っているときも僕の話をしていたのだろうか。
「姉がそんなことを……」
たしかに僕と姉は仲のよい姉弟だった。僕を不憫に思ってくれていたのも知っている。それでも父とのことまで話すなんてと驚きを隠せない。
「明香莉ちゃんには僕の気持ちがすっかりばれていたからなぁ。たぶん半分はからかいだったんじゃないかな」
どういう意味だろうか。
「千香彦くんの話を聞くたびに顔を赤くしたり青くしたりする僕のことがおもしろかったんだろう。まぁ、僕も千香彦くんの話が聞きたくて少し大袈裟に反応していたからお互い様ではあったんだけど」
「すみません、よくわからないんですが」
「僕はね、千香彦くんのことをずっと想っていたんだよ」
僕の耳はどうにかしてしまったに違いない。修一朗さんの声は聞こえたけれど意味がわからなくて口を閉じた。理解しようにも混乱するばかりで頭がうまく動かない。そんな僕を見た修一朗さんが「あぁ、やっぱり伝わっていなかったか」と言って眉尻を下げた。
「これでも僕なりに想いを伝えているつもりだったんだけどな。いや、やはり明香莉ちゃんの言うとおりだったというわけだ。まったく僕は駄目な男だ。言葉にしてもし拒絶されたらと尻込みをしてしまった。それに、千香彦くんは僕のことが好きだろうからという甘えもあった」
最後の言葉にギョッとした。まさか、修一朗さんは僕の気持ちを知っていたということだろうか。いや、そんなはずはない。だって、知られないようにできるだけ言葉を交わさないようにしてきた。もっと話したい気持ちをグッとこらえて我慢した。
(もしかして……)
おそるおそる「まさか、姉さんが……?」と尋ねると、少し困ったように微笑みながら修一朗さんが頷いた。姉が僕の気持ちに気づいていたことに驚いた。いったいいつ気づいたのだろう。そんなことを考えながら「それもそうか」と納得もしていた。
僕と姉はいつも一緒にいた。それこそ姉は生まれたときから僕を可愛がってくれていたのだと聞いている。そんな姉なら僕の些細な仕草や表情から気持ちに気づいていたとしても不思議じゃない。
「千香彦くんが僕のことを好いてくれているらしいと聞いたとき、僕がどれだけ嬉しかったかわかるかい?」
「い、いえ……」
「まさに天にも昇る気持ちだったんだ」
まるで舞台に立つ役者のような言葉だと思った。もしかして修一朗さんは僕をからかっているのだろうか。
「そんなこと……それに僕はただのβなのに……」
思わずそうつぶやくと、修一朗さんが「じつはね」と少し遠い目をした。
「明香莉ちゃんとの婚約話が出たあと、偶然きみたちを見かけたことがあったんだ」
「僕たちを?」
「うん。たしか神田のあたりだったかな。明香莉ちゃんと千香彦くんが一緒にいるところを偶然ね」
「神田……もしかして書店ですか?」
神田のあたりには姉が好きだった小説を扱う店がある。姉が病院に行く日は、僕が初等科の授業を終えてから必ず迎えに行っていた。目的は姉と一緒に書店巡りをすることで、最後に喫茶店で甘いミルクセーキを飲むのが楽しみだった。
「乗り合いバスの停車場の近くにあった書店だったかな。明香莉ちゃんの顔は写真で見ていたから知っていたんだけど、隣にそっくりの子がいて驚いたのなんの」
まだ男らしさの片鱗もなかったから、きっと少女のように見えたことだろう。迎えに行くときは制服を着ていなかったし、あの頃は姉のお下がりのブラウスを着ることさえあった。
「二人で顔を寄せ合って本を見ている姿が微笑ましくてね。なんて可憐な姉妹だろうと……あぁ、ごめん。あのときは千香彦くんのことを妹だと思っていたんだ。ところが顔合わせのときに見た千香彦くんは初等科の制服を着ていた。男の子だと知って、また驚いた」
そういえば初めて修一朗さんに会ったとき、やけに驚いた顔をしていたような気がする。
「あのときは本当に驚いた。そう、とても驚いたんだ。きみがβだということに心の底から驚いた」
「えっ?」
「僕はきみこそが運命の相手だと思っていたんだ。婚約の相手は明香莉ちゃんだったけど、お父上の様子から珠守との繋がりさえ持てればいいのだと確信していた。それなら婚約相手が妹に代わっても断られることはないだろうと考えた。十歳違いの婚約者なんて華族の間では珍しくないからね。だけどβの男の子が相手だとしたらそう簡単にはいかない」
鼓動がどんどんうるさくなっていく。修一朗さんは何を言っているのだろう。修一朗さんは姉の許嫁で、姉が亡くなるその日まで許嫁だった。それなのに、どうして僕のことを“運命の相手”だなんて言うのだろうか。そもそも僕は運命の相手にはなり得ないのに。
「僕は、βです」
いくらΩのように美しいと言われてもΩにはなれない。βの僕が修一朗さんの運命の相手になれるはずがない。
「わかっている。それでもきみは僕の運命の相手だ」
「あり得ません」
「いいや、間違いない。僕は自分の本能を信じている。僕の運命の相手は千香彦くん、きみだ」
修一朗さんは顔合わせをしたその日のうちに、この話を姉にしたのだそうだ。最後までじっと話を聞いていた姉は、条件を一つ出したのだという。
「わたしの命はおそらく長くありません。わたしがいなくなったあと千香ちゃんを寳月の家から救い出してくれるのなら“千香ちゃんの義理の兄になる人”という立場を差し上げます」
修一朗さんは姉の条件を呑んだ。「受け入れれば千香彦くんのそばで成長を見守れると思ったんだ」と修一朗さんが微笑んだ。
「こうして僕と明香莉ちゃんは共犯者になった」
「共犯者、」
「そう。千香彦くんを守るという共通の目的を持った戦友でもあるかな」
姉と修一朗さんとの間でどんな言葉が交わされたのかはわからない。僕には想像できないことばかりで理解が追いつかなかった。
「僕の気持ちはあのときから変わっていない。むしろ年々強くなっているくらいだ」
「でも僕は、」
「僕のことをひどい男だと思うかい?」
「えっ?」
「大事な姉をだしにしていた最低な男だと思うかい? いや、そう思われても仕方ないとわかっている」
「そんなこと……! そんなこと思ったりしません。だって姉は、姉さんは本当に幸せそうだったから……」
修一朗さんを見るときの姉の嬉しそうな顔が頭に浮かんだ。修一朗さんの隣で微笑んでいた姉は、本当に修一朗さんに想いを寄せていなかったのだろうか。僕のことを託すためだけに修一朗さんと婚約したのだろうか。
(本当はどう思ってたの?)
心の中で問いかけても浮かぶのは楽しそうに笑う姉の姿ばかりだ。
「千香彦くん、僕はきみにずっと恋をしているんだ」
修一朗さんの真剣な眼差しにドキッとした。同時に姉に言われた言葉を思い出した。
――千香ちゃんは大好きな人と絶対に結ばれてね。
あれはまだ初等科を卒業する前だった。あのときは幼すぎて、どうしてそんなことを言うのかわからなかった。だけど今ならわかるような気がする。姉はあのときすでに僕の気持ちに気づいていたのだろう。
「僕の想いは変わらない。僕は千香彦くんと結婚したいと思っている」
「で……も、僕はβです。それに男です。僕では、その、修一朗さんの子どもを生むことができません。それなのに修一朗さんと、αと結婚するなんて」
「千香彦くんがβだろうと男だろうと、僕にとっては些細なことでしかない。僕は千香彦くんだから好きになった。僕の本能がきみだと言っている」
「でも、」
「僕の想いが信じられない?」
「だって……」
「僕が初めて千香彦くんを見たのは、きみがまだ九歳のときだ。それからずっと千香彦くんだけを見てきた。こんなことを言っては頭のおかしなやつだと思われてしまうかもしれないけれど、僕はそれだけ真剣にきみだけを想ってきた。この気持ちに嘘偽りはない。こんなに想っているきみが運命でないはずがない」
真剣な眼差しにトクトクと鼓動がうるさくなる。
「でも僕はβだから、Ωのような香りはありません」
αはΩの香りに惹かれる。運命の相手かどうかも香りでわかるのだと言われていた。その香りが僕にはない。そもそもβの僕にはαの香りがわからない。Ωを誘うというαの香りがわからない僕が、本当に修一朗さんの隣にいてもいいのだろうか。
「僕には修一朗さんの香りもわかりません」
「香りは互いを知る方法の一つでしかない。すべてが香りで決まるわけじゃない」
「でも……僕には修……αを惹きつける香りがありません。僕は何も持っていません」
そうだ、僕は何も持っていない。Ωの性もαの優秀さも、何も持たないβとして生まれてしまった。だから僕は役立たずだと言われてきた。実の親にも必要ないと言われてきた僕を優秀なαである修一朗さんが欲しがるはずがない。
「千香彦くんは役立たずじゃない。何も持っていないなんてこともない」
修一朗さんの指が目尻を撫でた。泣いているわけでもないのに鼻の奥がツンとした。
「少なくとも僕を惹きつけるものを千香彦くんは持っている」
「そんなもの……」
「僕のことは僕が一番よく知っている。もしかすると千香彦くんのことも僕のほうが知っているかもしれないよ?」
「……そんなこと……」
目尻を撫でていた指が止まった。女々しい僕にさすがに呆れたのだろう。
(本当は嬉しいくせに)
自分でも自分のことが嫌になる。自信がなくて臆病で、それなのにαに想いを寄せて、修一朗さんに想われていると言われても信じられないくせに諦めることもできない。自分がどうしたいのかさえわからなかった。
「千香彦くんはもっと我が儘になっていい。いや、なるべきだ」
「修一朗さん……?」
「こう見えて僕はとても我が儘なんだ。このままでは僕ばかり我が儘になって申し訳なくなる。だから千香彦くんも我が儘になってほしい」
「我が儘……と、言われても……」
我が儘になってもいいなんて言われたのは初めてだ。小さい頃から父に言われてきたこととは真逆の言葉に戸惑ってしまう。
「そうだ。今夜、夕食を食べ終わったら僕の部屋に来てほしい。今日一番の僕の我が儘に付き合ってもらえないかな」
そう言って僕の頬をするりと撫でた。優しい感触に目元が熱くなる。
(僕は、我が儘を言ってもいいんだろうか)
返事をしようとしたけれど口がうまく動かない。
「部屋に来てくれるかい?」
もう一度そう言われて耳が熱くなった。行きたい、そう思った次の瞬間、こくりと頷いていた。
「よかった。夕食を食べ終わったら忘れずにね。そうだ、夕食は消化がいいものを用意するように伝えておこう。ゆっくりしっかり食べて。時間が遅くなるかもなんて心配はしなくていいから」
修一朗さんがなんだか楽しそうに見える。あれこれ考えることはあったけれど、考えたところで何もわからない。それなら修一朗さんが言うとおりにしてみよう。そう思い、もう一度小さく頷き返した。




