姉の許嫁だった人・2
「昼食を食べなかったそうだけど、どこか具合が悪いんじゃないかい?」
お昼過ぎに修一朗さんが部屋に来た。ドアを開けたときからずっと心配そうな顔をしている。自分のせいでそんな顔をさせているのかと思うと、申し訳ないのと同時に自分が情けなくなった。
「なんでもありません。大丈夫ですから」
申し訳なさに胸の痛みが加わった。ここまで気遣ってくれるのはどうしてだろうと、性懲りもなくまた考えてしまう。
「そうは言っても顔色がよくない。具合がよくないのなら医者を呼ぼう」
「いえ、本当に大丈夫です」
やっぱり修一朗さんは優しい。その優しさがいまは苦しくて仕方がなかった。
(αなのにβの僕にも優しい。そんな人だから僕は好きになったんだ)
大好きな姉が好いていた人で、いつの間にか僕も好きになっていた人。ただ近くで見ているだけでいいと思っていた。でも、それはとてつもなく苦しいことなのだとようやくわかった。
(そもそも僕が想い続けていい人なんかじゃない)
修一朗さんは、いずれ家柄のよいΩと結婚することになる。そのとき傷つくくらいならいまのうちに諦めてしまったほうがいい。
わかっているのに胸の痛みに唇が震えた。膝の上で両手を握り締め「気持ちを悟られないようにしなければ」と必死に表情を繕った。朝から何度も「早く踏ん切りをつけなくては、諦めなくては」と言い聞かせていたのに、本人を前にするとやっぱり想いがあふれそうになる。修一朗さんの顔を見てしまえば余計なことを口走りそうな気がして、そっと目を伏せた。
「やっぱり何か悩んでいるように見える」
「そんなことは……」
「じゃあ僕の顔を見て」
無理だ。そんなことをすれば僕は……修一朗さんから顔を背けるように頭を動かした。すると修一朗さんが目の前で屈んだ。視界の端に床に膝をつく修一朗さんの姿が映る、まさかの行動に驚いて顔を上げると、思いのほか近くに修一朗さんの顔があって息を呑んだ。
「僕では相談相手になれない?」
「そんなことは……ないです、けど……」
答える声が尻すぼみになった。修一朗さんは優しくて頼りがいがある。珠守家の次男としてもαとしても、もちろん同じ男としても尊敬できる人だ。でも、だからこそこのまま想いを抱き続けるわけにはいかない。修一朗さんの負担になりたくないと思った。
唇をグッと噛んだ。どうやって言い繕おう。どう言えば修一朗さんを心配させずに済むだろう。あれこれ考えるもののよい案が浮かばず返事ができない。
「もしかして余計な噂話でも耳に入ってしまったかな」
修一朗さんの言葉にハッとした。俯き加減だった顔を上げると困り顔の修一朗さんと目があった。どうかそんな顔をしないでほしい。いつもどおり笑ってほしい。そう思っても返す言葉がわからない。
「都留原家のことなら気にする必要はない」
やや固い声に、膝に載せた手が少しだけこわばる。そうだ、ただの身代わりでしかない僕が気にすることじゃない。わかっているのに修一朗さんに突き放されたような気がして胸がひどく痛んだ。
(余計なことは言わなくていい。僕はただ「婚約おめでとうございます」と言えばいい)
それが僕にできる最低限のことだ。小さく息を吸った。意を決して声を出そうとしたけれど、「婚約」という言葉を思い浮かべただけで喉が詰まってしまう。そんな自分が情けなくて、やっぱり修一朗さんの顔を見ていられなくなった。
「朝から嫌なことを聞かせてしまったみたいで申し訳なかった。まったく使用人たちときたら……いや、僕のせいだな。僕が朝から不機嫌にしていたから使用人たちも気にしたのだろうし」
一瞬、父のことが頭をよぎった。父は口さがない使用人を嫌っていて、噂話をしたと聞いただけでその使用人にすぐに暇を出すくらいだった。
僕のせいで使用人が辞めさせられるのではと思った。僕のせいでこれ以上迷惑はかけられない。慌てて「すみません」と頭を下げると「どうして千香彦くんが謝るのかわからない」と返されて言葉が詰まった。
「あぁ、違う、違うんだ。怒っているわけじゃなくて、千香彦くんを不安にさせた自分が情けないやら不甲斐ないやらで……。いや、こういうのも八つ当たりというんだろうな。申し訳なかった。どうか怯えないでほしい」
「いえ……立ち聞きした僕が悪いので……」
「偶然耳に入っただけだろう? きみは噂話に耳をそばだてるような子じゃない。我が家の使用人にもおもしろがって噂話を拡げるような者はいない。大丈夫、こんなことで使用人を辞めさせたりはしないよ。そもそもそんなことをすれば僕が父に大目玉を食らってしまう」
あぁ、修一朗さんはなんて優しいのだろう。こんなにも優しいαがいるのかといまさらながら驚いた。優しくて素敵で……駄目だ、諦めようと決意した気持ちが揺らいでしまう。
(揺らぐなんて……そもそも諦める気持ちなんて固まってすらいないのに)
初めて会ったときから僕は修一朗さんに惹かれていたのだと思う。十年近くかけて少しずつ膨らんできた想いをなかったことになんてできるわけがない。
いつもと変わらない微笑みを浮かべる修一朗さんの顔が、少しだけ苦笑めいたものに変わった。
「まったく、都留原のご隠居にも困ったものだ。きっぱりと断りを入れたというのに朝早くから押しかけてくるなんて、礼儀も何もあったものじゃない」
思わず「え?」と声が漏れてしまった。慌てて口を閉じ、それでも気になってそっと修一朗さんを見る。
(いま、断りを入れたって……)
まさか、いや聞き間違いだ、でも……そんな小さな期待と困惑がグルグルと僕の中で回った。
「千香彦くんは都留原と婚約の話が進んでいると思ったんだろう?」
困ったような、それでいて謎かけをするような修一朗さんの声に小さく頷き返した。
「やっぱりそうか」
「……違うんですか?」
「万が一にもそんなことはあり得ない。そもそも僕には千香彦くんという婚約者がいるんだ。それなのに別の人と婚約するなんてあるはずがない」
「でも、僕は……僕は、姉の身代わりです。押しつけられた厄介者のβです」
「誰がそんなことを?」
修一朗さんの声が低くなった。同時に威圧的な気配を感じて体が震える。まるで怒っている父を前にしているときのような感覚に、背中を冷たい汗が流れ落ちた。
気がつけば腕がブルブルと震えていた。体が強張り呼吸まで苦しくなる。小さいときはよくこんなふうになっていた。息が苦しくて汗が止まらなくて、このまま死ぬんじゃないかと怖くなったことさえあった。
だから父の前ではことさらおとなしくするようになった。何も言わず、何か思うことがあっても顔に出さないように気をつけた。そのうち自分は空気なのだと思うようになった。そうすれば父の恐ろしい威圧を受けずに済む。それが寳月の家での僕の生き方になった。
「ごめん、威圧するつもりはなかったんだ」
修一朗さんの手が頬に触れた。いつもなら心が躍るくらい嬉しいことのはずなのに、いまは鳥肌が立つような恐怖を感じて顔が強張る。そんな僕に気づいたのか、修一朗さんが慌てたように頬から手を離した。
「どうか怖がらないでほしい。僕は怒っていない。千香彦くんを怒ったりしない。あぁ、しまったな。明香莉ちゃんにあれだけ注意されていたというのに僕ときたらなんてことだ」
修一朗さんが心底困ったような顔をしている。それも気になったけれど、姉の名前が出たことのほうが気になった。何度も手を伸ばしたり引っ込めたりしながら修一朗さんが「大丈夫かい?」と僕の顔を覗き込む。
「もう僕のことは怖くない? 気持ち悪いだとか吐き気がするとかは?」
「大丈夫、です」
僕の返事に「よかった」と修一朗さんが息を吐いた。その様子に「もしかして、いまのが修一朗さんの威圧なんだろうか」と考えた。
αは威圧という独特の気配を放つことができる。たとえば敵対するαと対峙したときや大事に思っているΩを守るとき、意識して放つこともあれば無意識に漂わせることもあるのだそうだ。
そうしたαの威圧を敏感に感じ取るのがΩで、場合によっては発情状態を促すこともできるのだと言われている。Ωは発情すると子ができやすくなる。αは自らの子を残すためにそうした能力を持ち、Ωはより優秀なαの子を生むため本能的にそうなるのだという話だ。
実際にそうしたことがあるのかβの僕にはわからない。だけどβの僕でも怒りによるαの威圧の影響力はよく知っていた。
(寳月の家ではよく感じていたから)
不機嫌なときの父が放つαの威圧に何度体調をおかしくしたことだろう。小さいときはすぐに気分が悪くなり、それが嫌で父と同じ部屋にいることを避けるようになった。
「本当に大丈夫かい? 千香彦くんはαの威圧に敏感だと知っていたのに申し訳ないことをしてしまった」
「敏感かは、わかりませんけど」
「明香莉ちゃんから聞いているよ。お父上の威圧に当てられてよく寝込んでいたそうじゃないか」
「小さいときの話です」
「それでも注意することに越したことはない。僕は一般的なαより威圧の力が強いんだそうだ。父や兄からも気をつけるように散々言われてきた。それなのに、どうも千香彦くんのことになると抑えが効かなくなるというか……いや、これはただの言い訳だな」
修一朗さんが困ったように眉尻を下げた。こんな表情を見るのは初めてだ。人によっては情けなく感じるのかもしれないけれど、僕には修一朗さんの優しさに思えて胸が熱くなった。
「僕はもう、大丈夫ですから」
優しい修一朗さんにこれ以上心配をかけたくない。そう思い、もう一度「大丈夫です」と口にした。僕の気持ちが伝わったのか、修一朗さんがふわりと微笑んでくれる。
「ありがとう。千香彦くんは優しいね」
「そんなことは……優しくなんてありません」
「そんなことはない。子どものときから見ているけど千香彦くんは優しい。いや、優しすぎる。もしかして“身代わり”だと思っているのも僕への優しさからだったりするのかな」
「……そんなことは……」
「千香彦くんは僕がいずれ名家のΩを迎えると思っている。そうするのが僕にとっていいことだと思っている。だから身を引こうとしている。違うかい?」
「それは……」
たしかにそう考えた。だけどそれは優しさじゃない。真実だ。
「あぁ、何もかも明香莉ちゃんの言っていたとおりだ。あんなに念押しされたというのに、僕はすっかり舞い上がってしまっていた」
修一朗さんが膝の上にあった僕の手をギュッと握り締めた。驚いて修一朗さんを見ると、先ほどまでと違い真剣な顔をしている。何かよくないことを言われるのではないかと心臓が嫌な鼓動を刻み始めた。
「僕は千香彦くん以外の人と結婚するつもりはまったくない。だから安心してほしい」
「……え……?」
「本当は屋敷に来た日にきちんと伝えるべきだった。それなのに来てくれたのはすべて承知のうえだと勝手に思い込んで舞い上がってしまったんだ」
どういう意味かわからず、僕はぽかんと修一朗さんの顔を見つめた。




