姉の許嫁だった人・1
(緊張してきた)
朝の爽やかな光が窓から差し込んでいる。眩しさに少し目を細めながら、僕は修一朗さんの部屋に向かっていた。
一人掛けのソファの端に懐中時計が挟まっていることに気づいたのは昨日の夕食後だった。これがハンカチなら次に会ったときに返せばいいかと思っただろう。けれど懐中時計は仕事でも日常生活でも必要なはずだ。なければ困るんじゃないだろうか。
すぐに返さなくてはと考えた。だけど、夜遅くに部屋を訪ねるのはさすがにはばかられる。それなら翌日の朝一で届けたほうがいい。そう思い、朝を待ってから修一朗さんの部屋を訪ねることにした。
(それにしてもこれで何度目だろう)
とてもしっかりした人に見えるのに部屋に忘れ物をするのは三度目、いや四度目だ。
(もしかして案外うっかりさんなのかな)
背が高くて優しくて大人の修一朗さんがうっかりさんだなんて……なんだか可愛い。
(って、僕は何を……)
頭に浮かんだ言葉を慌てて打ち消した。少し熱くなった頬を擦りながら廊下を歩く。
(庭に沿った廊下を真っ直ぐ進んで、この先の角を曲がって……)
初めて修一朗さんの部屋に入ったのは二週間ほど前だ。そのとき教えてもらった道順を思い出しながら進む。
(それにしても、まさか部屋に入る日が来るなんて思ってもみなかった)
たまたま散歩していた場所が修一朗さんの部屋に近いからという理由で部屋に誘われた。「部屋でお茶でもどうかな」と言われたことが嬉しくて思わず頷いてしまったけれど、厚かましいと思われなかったのかいまでも気になってしまう。ちなみにそのときいただいた緑茶とどらやきの味は緊張しすぎてまったく覚えていない。
帰り道は迷子になったら大変だからと修一朗さんが部屋まで送ってくれた。そのとき「せっかくだから僕の部屋までの道順を教えておこう」と言われ、もう一往復することになった。
(あのときも思ったけれど、やっぱり少し遠回りのような気がする)
珠守の屋敷の造りがどうなっているかはわからない。それでも寳月の家を思い出すと随分外側を歩いているような気がした。庭に面しているこうした廊下は母屋の端のほうにあるのが一般的で、そう考えると教えてもらった道順はやはり遠回りじゃないだろうか。
「千香彦様、おはようございます」
「お、おはようございます」
廊下を曲がったところで使用人に出くわした。珠守家の使用人はみんな同じ洋装をしていて、人数も多いからなかなか顔を覚えることができない。声をかけてくれたということは、もしかして僕の部屋を担当している人だったんだろうか。そう思って振り返ったけれど使用人の姿はもうなかった。
(僕にまで挨拶しなくてもかまわないのに)
それに「千香彦様」なんて呼ばれると恐縮してしまう。寳月の家では滅多に名前を呼ばれることがなかったからか落ち着かなかった。厄介者にまで気を使わなくてはいけない使用人のことを考えると、部屋を出るのは極力やめたほうがいいのではと思ってしまう。
あれこれ考えながら最後の角を曲がると修一朗さんの部屋が見えた。
(もう訪ねても大丈夫だよな)
朝食の時間からたっぷりと一時間は経っている。念のため朝食を用意してくれた使用人に確認もした。今日は昼まで部屋にいるという話だから迷惑にはならないはずだ。
懐中時計を確認し、すぅっと息を吸ってからコンコンとドアを叩く。
「どうぞ」
ドアの向こう側に修一朗さんがいるのだと思うだけで胸がトクンと跳ねた。
(落ち着け、落ち着け)
いつもどおりの顔でないと気持ちを悟られてしまうかもしれない。緩みそうになる頬を引き締め、小さく深呼吸してからドアを開けた。
「おはよう、千香彦くん」
すっかり見慣れたシャツにベスト、ズボン姿の修一朗さんは相変わらず素敵だ。タイを着けていないからか、いつもより柔らかい印象を受ける。
「おはようございます。朝からお邪魔して申し訳ありません」
「かまわないよ。それに千香彦くんならいつでも大歓迎だ」
そんなことを笑顔で言わないでほしい。せっかく落ち着いた鼓動が修一朗さんにまで聞こえやしないかと心配になる。
「昨日、こちらを部屋にお忘れでしたよ」
「あぁ、またやってしまったな。助かるよ」
「いえ、っ」
言葉が詰まったのは懐中時計を取ろうとした修一朗さんの指が手のひらに触れたからだ。たったそれだけで顔が赤くなりそうになる。
「そうだ、お礼にココアはどうかな。ちょうど今朝、注文していたものが届いたんだ」
「でも、」
「僕も味見しようと思っていたところだから遠慮しなくていいよ」
「それじゃあ、いただきます」
懐中時計を受け取った修一朗さんが、そのままワゴンの前に立った。そうしてココアの容器を開けながら「おいしいと評判のココアなんだ」と教えてくれる。
僕は小さく深呼吸をしながら小振りなテーブル前の椅子に座り、そっと修一朗さんの後ろ姿を見た。
(どうして修一朗さんはこんなにも優しくしてくれるんだろう)
珠守家に来てから一カ月余りが経った。毎日のように顔を合わせる修一朗さんとは姉が生きていたときよりずっと親しくなったと思う。以前よりも話す機会が増え、庭の散歩も週末の恒例になりつつあった。
それだけでも胸がいっぱいだというのに、最近は着物や洋服まで届けてくれるようになった。身代わりの身でそこまでしてもらうわけにはいかない。そう思ってやんわりと断ったけれど、悲しそうな顔をされて結局断り切れなかった。
(着ていく場所なんてないのに……)
それなのに服は増える一方だ。このままではあまりにもったいないと思って散歩のときに着るようにした。そのことに修一朗さんは思いのほか喜んでくれた。
「よく似合っている。僕の見立てでは着てもらえるか不安だったんだ」
そう言ってはにかむ修一朗さんに心臓がバクバクした。真っ赤になっているに違いない顔を見られたくなくて慌てて俯いたくらいだ。
(修一朗さんはとても優しい。だけど、本当は僕のことをどう思っているんだろう)
僕は姉の代わりに押しつけられたβで珠守家にとっては厄介者のはず。修一朗さんも本心ではそう思っているんじゃないかと気になって仕方がなかった。
それでも尋ねることはできなかった。身代わりの身で「どうしてよくしてくれるんですか」なんて聞けば気分を悪くさせてしまうと思ったからだ。
(そうじゃない。本当は修一朗さんの本心を聞くのが怖いんだ)
もし押しつけられて仕方なくと言われたら悲しくなる。死んだ姉の代わりだとはっきり言われたら、僕は傲慢にも傷ついてしまうだろう。それなら曖昧なままのほうがいい。どんな関係性なのかはっきりしないまま、こうして密かに修一朗さんを想い続けていたかった。
「千香彦くん?」
「えっ? あっ、ええと、」
傍らに立つ修一朗さんに顔を覗き込まれて驚いた。咄嗟に少しだけ身を引くと、苦笑するように「何度か声をかけたんだけどね」と言いながら修一朗さんが向かい側に座る。
「さっきからじっと何かを考えているようだけど心配事かな?」
「すみません。少しぼうっとしていました」
「もし困ったことがあるならなんでも言ってほしい。ここは千香彦くんの家でもあるんだから遠慮しないで」
「ありがとうございます」
やっぱり修一朗さんは優しい人だ。優しすぎて胸が苦しくなる。
(さすがにここが僕の家だなんて思うことは難しいかな)
寳月の家もそれなりの格式ある屋敷だったけれど、珠守の屋敷は洗練されていて寳月の家とは大違いだ。そんな近代的で立派な屋敷を自分の家のように思うなんて僕にできない。それでもそう言ってくれる修一朗さんの言葉が嬉しくて切なくなる。
(やっぱり姉さんが好きになるだけのことはある)
こんな素敵な人を好きになった姉はきっと幸せだったに違いない。許嫁になり、どれだけ幸福に思っていたことだろう。
不意に姉と修一朗さんが微笑み会っている姿が蘇った。絵物語のような二人の姿は思い出すだけで温かい気持ちになるのに同じくらい、いや、それ以上に胸が苦しくなる。用意してもらったココアの甘さとは裏腹に飲むたびに胸の奥に苦いものが広がっていく。
「千香彦くん、本当に大丈夫かい? 少し顔色が悪いように見えるけど」
「大丈夫です。あの、ココアありがとうございました。部屋に戻ります」
「千香彦くん、」
呼び止める修一朗さんを無視するように頭を下げて急いで部屋を出た。僕はいまきっと変な顔をしている。そんな顔を修一朗さんに見せるわけにはいかない。
(僕は姉さんの身代わりでただの男のβだ。αの、しかも男性の修一朗さんに想いを寄せるなんてやっぱり間違っている)
部屋へ帰る道すがらそう思った。何度も何度もそんなふうに考えながら両手をグッと握り締める。
(ただ想い続けているだけなんて僕には無理だ。やっぱり早く気持ちを整理して諦めたほうがいい)
そうしないといつかきっと修一朗さんに想いがばれてしまう。いまみたいにおかしな態度を取って修一朗さんを不快にさせてしまうかもしれない。なによりこんなに近くにいるのに想いを抱いたままで平気でいられるはずがなかった。
(早く断ち切らなくては)
そう自分に言い聞かせながら廊下を歩いた。窓から差し込む光はキラキラ眩しいのに、僕の気持ちは夕暮れ時のように暗い。そんな気持ちから逃げるように少し足早で部屋へと向かう。そうして廊下の角を曲がろうとしたところで部屋の前に使用人が二人立っていることに気がついた。きっと掃除に来たのだろう。籠に布がたっぷり入っているということは終わった後かもしれない。
(こんなにもよくしてもらっているのに、これ以上欲を掻いては駄目だ)
ため息をついたところで使用人たちの声が耳に入ってきた。
「都留原のご隠居様がまたいらっしゃったそうよ。しかも朝早くに」
「まぁ、まさか依子様との縁談の件で?」
「そうじゃないかって話よ」
「それで修一朗様は朝から不機嫌でいらっしゃったのね」
歩き出そうとしていた足が止まった。「都留原」という名前と「縁談」の言葉に心臓が嫌な音を立てる。
都留原とは、おそらく帝室に連なる華族、都留原家のことに違いない。姉と修一朗さんとの婚約が決まる直前に、父が「都留原が横やりを入れてきた」と憤慨していたのを思い出した。
大陸との戦争前、寳月家と都留原家は同格の華族だったと聞いている。ところが戦後、事業で深い傷を負った寳月家は没落の一途を辿り、逆に帝室と縁戚になった都留原家は揺るぐことのない名家となった。爵位を失ってしまった寳月家とはいまや雲泥の差だ。
そんな都留原家が、姉が亡くなったと聞いて修一朗さんを放っておくはずがない。たしか都留原の家には僕と同じくらいの年のΩがいたはずだから、そのご令嬢との婚約話を進めているのだろう。
(珠守家と繋がりを持ちたいのはなにも寳月家だけじゃない。多くの華族が親類縁者になることを望んでいる)
いまの時代、家名や血筋だけでは立ち行かない。そこに財力があってこそ家柄を保つことができる。だから父はβでもいいからと僕を修一朗さんに押しつけた。ほかの華族が大きな財力を持つ珠守家にΩや娘を嫁がせたがるのは当然だ。
使用人が立ち去ったのを確認してから部屋に入った。いつものように整えられた部屋が急に余所余所しく感じられる。ついさっき「ここは自分の家じゃない」と思ったばかりなのに、馴染んできていた部屋の空気まで知らないもののように思えて寂しい気持ちがわき上がった。
(僕はなんのためにここにいるんだろう)
父は姉の代わりだと言っていたけれど、どう考えても許嫁の身代わりにはなれない。珠守家が寳月の家名をほしがったとも思えない。それに寳月より都留原家のほうがよほど箔がつくはずだ。
それなのに修一朗さんは僕を引き受けた。毎日のように部屋にやって来ては話をし、週末には二人で庭を散歩したりもする。着物や洋服まで届けてくれる。
(僕は修一朗さんにとって何なんだろう)
窓の外を見ながらぼんやりとそんなことを考えた。ただひっそりと生きていけばいいと思っていたのに胸の奥がモヤモヤして不安になる。余計なことを考えては駄目だとわかっていても考えずにはいられない。
(寳月の家では何も考えずに過ごせたのにな)
修一朗さんの姿を思い返すたびに胸が苦しくなってどうしようもなかった。そのせいか、せっかく用意してもらった昼食に手を付けることができなかった。




