身代わりβの密やかなる恋2・終
うなじを噛まれた後、僕は完全に発情したのだそうだ。「だそうだ」というのは修一朗さんに後で教えてもらったからで、最中のことはあまりよく覚えていない。
ただ、最初から最後まで信じられないくらい興奮したことと気持ちがよかったことは覚えている。あんなに気持ちがいいことが世の中にあるなんて知らなかった。
僕も十九歳、もちろんそうした知識は多少なりと持っている。けれど僕が知っているのは男のβとしてのもので、Ωとしてのことは何も知らなかった。キスであんなに蕩けることも、うなじを噛まれるたびに体が熱くなることも、αを受け入れるとどれだけ幸せで満ち足りた気持ちになるのかも、すべて修一朗さんが教えてくれた。
同時に修一朗さんからαの発情についても聞いた。Ωが発情すると、そばにいるαも発情とよく似た状態になるのだという。つまりあのとき僕たちは二人とも発情していたということだ。
(発情した状態でうなじを噛まれると絆が深くなると聞いたけれど……)
だからだろうか。初めて肌を重ねてからというもの僕の体はすっかり変わってしまった。発情していなくても修一朗さんと肌を重ねるたびに気持ちがよくて意識が飛んでしまう。目の前で火花が飛び散ることもあった。おまけに後ろが濡れるようにもなった。
最初は自分の体がどうにかなってしまったのではないかと恐ろしかった。けれどいまは怖くない。むしろ修一朗さんを迎え入れるために変わったのだと思えて誇らしかった。
(修一朗さんはきっと僕に満足してくれている)
そうでなければ毎日のように僕を求めたりしないはず。新婚夫婦だってひと月もすれば落ち着くと聞いた。それなのに修一朗さんはいまも毎晩のように僕を……。
(って、昼日中から僕はなんてことを……)
とんでもない物思いに耽ってしまったと顔が熱くなった。落ち着かない気持ちをなんとかしたくて左手薬指に光る指輪を撫でる。
年が明ける前にうなじを噛まれて正真正銘のつがい婚となった僕たちは、修一朗さんが話していたとおり梅の花が咲く頃に式を挙げた。その頃には僕をβだと疑う声はすっかり消え、代わりに「滅多に姿を見せない深窓の奥方」と噂されるようになっていた。
初めてその話を聞いたとき、僕は思わず笑ってしまった。深窓の令嬢になったことなんて一度もない。高等学校にも通っていたし、いまだって修一朗さんと連れ立って演劇や映画鑑賞に行くことがある。それなのに華族社会では「深窓の」と付けるらしい。
(まぁ、理由はわかっているけれど)
嶽川子爵のパーティ以来、どのパーティにも顔を出していないからだ。パーティは夫婦同伴が普通なのに、修一朗さんは留守番ばかりを僕に言いつけて二度目のパーティがいつになるのかすらわからない。
大事にしてくれるのは嬉しい。Ωになったばかりの僕を心配してくれていることもわかっている。それでも僕だって修一朗さんが大事だ。大事な修一朗さんを一人でパーティに行かせるのは心配で仕方がなかった。
(今夜こそ僕も一緒に行く)
改めてそう決意し、昼食を食べ終わってから「やっぱり僕も一緒に行きます」と修一朗さんに訴えた。
「今夜のパーティにかい?」
「はい」
「千香彦くんの気持ちはわかるけれど」
「行きたいんです」
修一朗さんが困ったような顔になった。少し前までの僕なら修一朗さんを困らせたくないと思ってすぐに諦めただろう。でもいまは違う。もちろん困らせたくはないけれど、同じくらい僕の考えも聞いてほしいと思っていた。
「僕は心配なんです」
「僕のことがかい?」
「はい。パーティにはよい家柄のΩも参加します。誰もが修一朗さんに近づきたいと思っているはずです」
「それなら心配いらないよ。僕はどこに行っても千香彦くんという運命の相手と結婚したのだと公言しているからね」
「でも、αはΩに誘われれば抗うことが難しいと聞きました。修一朗さんにうなじを噛ませようとするΩがいるかもしれません」
「なるほど、話のでどころは姉かな」
Ωがそうした方法で意中のαを手に入れようとする話は物語の題材でもよく使われている。だからβだった僕も知っていた。けれどあれは本や映画の中の話だ。そう思っていたけれど、実際にそうしたことがあるのだと教えてくれたのは薫子さんだった。その場にいた義理の兄の孝太朗さんも「昔から聞く話だね」と苦笑していた。
(僕はほかのΩを修一朗さんに近づけたくない)
まさか自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。いや、嫉妬なんて生やさしい感情じゃない。僕以外のΩが修一朗さんの前に立つのだと想像するだけでうなじがビリビリした。
驚いたように少しだけ目を見開いていた修一朗さんが「フッ」と表情を緩めた。僕はこんなにも真剣なのにどうして笑うのだろう。訝しむように見ていると「ごめん」と言ってまた笑った。
「どうして笑うんですか?」
「いや、随分変わったなと嬉しくなってね」
「当然です。僕はもうβじゃありません。Ωとして修一朗さんの隣にいるんです。僕以外のΩが修一朗さんに近づくかもしれないと心配するのは当たり前です」
「ははは、明香莉ちゃんが話していたとおりだ」
なぜここで姉の名前が出てくるのだろう。首を傾げると「明香莉ちゃんが教えてくれたんだよ」と言いながら修一朗さんが立ち上がった。そうして食後のお茶を飲んでいた僕の隣に座る。
「きみは案外気が強いところがあるのだと聞いたときは疑問に思ったけれど、どうやら本当だったみたいだね。それに意地っ張りで頑固なところもある」
指摘されて頬が熱くなった。そうしたことは高等学校の級友たちにも言われたことがあったからだ。自分ではそんなふうに思ったことはなかったけれど、姉がそう話したのならきっとそうなのだろう。
姉は僕より僕のことを知っていた。寳月の家での僕しか知らないはずなのに、姉には何もかもわかっていたのだと思うと今さらながら嬉しくなる。
「こんな僕は嫌ですか?」
もし修一朗さんが嫌だと言うなら改めなくては……そう思いつつ、嫌われたらどうしようと窺うように視線を向ける。
「まさか、僕が千香彦くんを嫌うことなんてあるはずがない」
すぐさま修一朗さんが否定するように体の前で両手を振った。
「気が強いというのは自分の意見をしっかり伝えることができるということだ。それに意地っ張りなのは強い信念を持っているとも言えるし、頑固というのも他人の意見に簡単に流されないということでもある」
修一朗さんの言葉に目をパチパチと瞬かせた。級友たちは「そんなんじゃ生きづらくなるぞ」と笑っていた。でも、修一朗さんは違う。それどころか肯定するような言葉を口にした。まさかそんなふうに言われるとは思わず、きょとんとしてしまった。
「千香彦くんは元々自分をしっかり持つ子だったと聞いているよ。それが長く抑えつけられ、自分の気持ちを口にする場さえ与えられなかった。僕はそうした環境がきみを変えてしまったのではと思っていたんだ」
「変えてしまった……」
「初めて会ったときのきみは眩しいほどキラキラしていた。それが会うたびに段々と沈んでいくのが心配で仕方がなかった。ようやくきみ本来の姿に戻りつつあるのだと思うと嬉しいよ」
修一朗さんの言葉に胸がくすぐったくなる。同時に不安にもなった。
「こんなことを言うなんて生意気だと思っていませんか? βの男ならまだしも、Ωが口うるさく言うなんて……」
名家のΩはαを立てる慎み深い存在であれと育てられる。αの半歩後ろを歩き、αの言葉に逆らってはいけない。それこそ僕の母のようなΩが最良だと言われていた。なによりΩの一番の役目は優れた子を生み、嫁ぎ先を栄えさせることだ。これはΩだけでなく地位や財を持つ家に生まれたβの女性にも求められた。
もし僕がβの女性だったらきっとそう育てられていただろう。でも僕は男のβで父にとって存在しないも同然だった。侯爵家だった寳月にとって男のβは家を栄えさせることのできない存在で、優れた嫁ぎ先を手に入れられる女性ですらない役立たずでしかなかった。
「この国ではΩの地位は依然として低いままだ。名家と呼ばれる家に生まれてもね。帝室のΩや宮家のΩでさえαの後ろに立てと教育される。僕はそんなことではよくないとずっと思っていた」
修一朗さんがにこりと微笑んだ。
「いまの千香彦くんは僕の理想の姿そのものだ。自分の思ったことをきちんと口にし、こうして僕の話もしっかり聞いてくれる。ただ受け入れるのではなく理解しようとしてくれる。最近勉学に励んでいるのも僕の話を理解しようとしてくれているからだろう?」
「それは……僕は高等学校を出ましたけど、実際は好きなことしか学んでいません。どうせ家に戻れば無駄になると諦めていたからです。でも、僕は修一朗さんと結婚しました。それなのにこのままじゃいけない。僕自身が許せない、そう思ったんです。学び直すには少し遅いかもしれませんけど……」
「そんなことはない。前にも言ったとおり、学びたい気持ちがあればいつだって知識を身に着けることができる。気持ち次第で人はどんなふうにも変われる。βだとかΩだとかは関係ない」
修一朗さんに言われると本当に変われる気がしてきた。僕はまだできる、もっと学べる、そんなやる気のようなものが沸々とわき上がってくる。
「千香彦くんのことが眩しくてたまらないよ。もちろん応援もしている。ただね……」
どうしたのだろう。修一朗さんが再び困ったような顔をした。
「最近の千香彦くんはますます美しくなってきた。こういうのを内面の美しさというのだろう。問題は千香彦くんは外側もとても美しいということだ。僕としては誇らしい限りだけれど、パーティに行けば誰もが千香彦くんに目を奪われるのは間違いない。そうなったとき、僕の嫉妬心がおとなしくしてくれるかどうかが問題だ」
まるで先日観たハムレットの演劇のような口調に思わず吹き出してしまった。「笑い事じゃないよ」と少しむくれる修一朗さんがおかしくて「だって」とまた笑ってしまう。
「僕にとっては大問題だよ。美しく優しく、それにΩの気高さまで備えた千香彦くんに懸想する輩は多い。まったく、何度蹴散らしても懲りないんだから困ったものだ」
「どんな人に言い寄られても僕には修一朗さんだけです」
「宮様に言い寄られてもかい?」
「もちろんです。たとえ外国の王様に手を差し出されても、僕が手を伸ばすことは絶対にありません」
「手を伸ばす前に僕がその王様の前に立ちはだかってやろう」
舞台俳優のように修一朗さんがうやうやしい手つきで僕の手を取った。そうして外国映画のように手の甲にキスをする。
「僕には修一朗さんだけです。修一朗さんがいたから、僕はΩになりたいと思ったんです」
「ありがとう」
微笑む修一朗さんに顔を近づけた。そうしてゆっくりと唇にキスをする。
(修一朗さんは僕が変わったというけれど、もし本当に変わったのだとしたら修一朗さんのおかげだ)
僕は早く修一朗さんにふさわしいΩになりたいと思っている。「後天性Ωになりたい」と願っていたのと同じくらい強くそう思っていた。
誰もが「さすがは珠守修一朗が選んだΩだ」と納得するΩになりたい。修一朗さんが自慢したくなるΩになりたい。自分で自分のことを誇らしく思えるΩになりたい。そして、そうなれるという自信も少しずつ感じられるようになってきた。
(修一朗さんが聞かせてくれた外国にいるようなΩになるんだ。そして修一朗さんが見ている未来を僕自身の足で歩いていく)
修一朗さんからふわりと甘い香りがした。その香りを嗅ぐだけで僕の体はじわりと熱くなる。心地いい熱に身を任せながら、僕のほうから舌を絡ませるキスをした。




