Ωとしての覚醒
大好きな声が聞こえてきて目を開けた。ゆっくりと顔を上げると、いつもどおりの微笑みを浮かべている修一朗さんの顔があった。
「修一朗さん」
呼びかける自分の声がやけに甘い。こんな声を聞かれるのは恥ずかしいのに、やっぱり名前を呼びたくて「修一朗さん」ともう一度口にした。すると「こういう千香彦くんも可愛いね」と言って修一朗さんが目を細めた。
「そろそろじゃないかと思っていたけれど予想どおりだった。……うん、とてもいい香りがする」
少し屈んだ修一朗さんが耳のあたりに顔を近づけ、クンと鼻を鳴らす。それだけでうなじにぞくりと鳥肌が立った。
「くすぐったい……」
「ははは、ごめん。でもこんなにいい香りをさせている千香彦くんが悪いんだよ」
「いい香り……?」
「僕が大好きな香りがしている」
そう言って今度は首のあたりを嗅ぎ始めた。うなじがゾクンとしてお腹の奥がカッと熱くなる。どうしよう、体臭を嗅がれているというのに気持ちがいい。首飾りをしているから吐息が触れるはずがないのに、肌に熱い息が当たっているような気がして腰までゾクゾクしてきた。
「修一朗様」
どこからか女性の声がした。せっかく気持ちがよかったのに修一朗さんの顔が僕から離れてしまう。
「これは失礼。あなたはたしか都留原の……あぁ、申し訳ない。名前を失念してしまいました。もしかして千香彦くんが何か迷惑でも?」
「そうではなくて……修一朗様は何をなさっていらっしゃるの?」
「じつは千香彦くんの発情時期が近くてね。本来なら外に出ないのがいいんだろうけれど、結婚して初めての社交パーティだったからつい無理をさせてしまった。どうしても一緒にいたかった僕の我が儘というやつだな」
修一朗さんの指が首飾りをスルスルと撫で始めた。直接肌を撫でられてるわけじゃないのに、うなじがゾクゾクしてたまらない気持ちになる
「それに先日とんでもない記事が雑誌に載ったばかりでもあるしね。珠守のプリンスと結婚したのはβの男だった、なんてまったくもってくだらない。おかげでどこに行っても記者がうるさくてかなわないよ」
耳の下あたりを撫でていた指がうなじに移った。首飾りの上を撫でているはずなのに、まるで直接肌を擦られているような気がして「んっ」と声が漏れてしまう。
「まったく迷惑な話だ。今夜も一人で来れば“あの記事は本当だったのか”なんて勘繰る人たちが出てきただろう。華族はそうした話が大好きだからね。そういうこともあって無理を言って同行してもらったんだけれど……千香彦くん、大丈夫かい? ほら、僕にしっかり掴まって」
促されるまま修一朗さんの背中に両手を回した。すぐに大好きな香りが鼻いっぱいに入ってきて嬉しくなる。喜びと満足、それに少しの興奮で「ふぅ」と熱いため息が漏れた。
「香りがどんどん強くなる……やっぱり千香彦くんの香りが一番だ。きみの香り以上に僕を興奮させる香りはこの世に存在しない。あぁ、たまらないな」
「ん……」
気がつけば首や頬、額までもクンクンと嗅がれていた。恥ずかしいのに嬉しくて背中がブルブルッと震える。飲んだことはないけれど、お酒に酔うというのはこういう感覚なのだろうか。そんなことを思いつつ、もっと嗅いでほしくて背中に回した手にギュッと力を込めた。
「こうして甘える千香彦くんはなんて可愛いんだろう。普段からもっと甘えてほしいんだけれど……いや、これも発情したときのお楽しみと思えば悪くないか」
「発情だなんて、そんなことあり得ませんわ」
また女性の声がした。何かを引っ掻くような不愉快な音のように聞こえて眉間にギュッと皺が寄る。
「なぜそんなことを?」
「なぜって……その方はβですもの。わたくし小さいときにお会いしていますけれど、あのときも間違いなくβでしたわ。それにその方のお父様もβだとおっしゃって、」
「あなたには千香彦くんがβに見えるのかい? こんなにも魅力的な香りを漂わせているというのに?」
「それは……」
女性の声が途切れた。ところが納得できないことでもあるのか「だってそんなはずは……」とつぶやく声が聞こえてくる。
大好きな香りの中に、ほんのわずか嫌な匂いが混じり始めた。この匂いは嫌だ。もっと修一朗さんの香りがほしい。嫌な匂いを嗅がなくて済むくらい大好きな香りがほしい。
何度も頭を振るのに嫌な匂いが消えてくれない。どこかでお菓子作りにでも失敗したのだろうか。不快になるほど甘ったるい匂いが気持ち悪くて、嫌々をするように修一朗さんの胸に額を擦りつけた。
「どうやら本格的な発情が始まったみたいだね。申し訳ないが、僕たちは先に失礼させてもらうよ」
修一朗さんの大きな手が僕の腰をグッと引き寄せた。それだけでお腹の奥がゾクッとして股間まで熱くなる。
「そういえば先ほど宮家がどうとかいう興味深い話が耳に入ったけれど、都留原のご隠居には黙っておいてあげよう。今夜の僕はとても気分がいい。それこそ些細な雑音なんてすぐに忘れてしまうくらいにね」
嫌な匂いが一瞬だけ強くなった気がした。気持ちが悪くて修一朗さんの服をギュッと掴む。
「ただし今夜に限って、という話だ。次に余計なことを口にすれば、あなたも都留原の家も僕が全力で潰すことになる」
「抱き上げるよ」と言う声にこくりと頷き、爪先立ちをしてから首に両手を回した。すぐに力強い腕に抱きかかえられ、大好きな香りに全身を包み込まれる。
(修一朗さんの香りが強くなった。あぁ、あぁ、なんていい香りだろう)
嬉しくて首に回していた手で修一朗さんの両頬を包み込んだ。どうしても触れたくて、唇を触れ合わせるだけのキスをする。
「こんなにも可愛いことをされたら僕は完敗だ。さぁ、僕たちの部屋に帰ろうか」
「はい」と返事をしたつもりだけれど、ちゃんと声は出ていただろうか。なんだかずっと頭がぼんやりして、いろんなことがよくわからなくなってきた。
(そういえば僕はどこにいたんだっけ……)
場違いだと感じるところにいて、それから暗い庭に行き、そこで誰かに……駄目だ、うまく思い出せない。ついさっきのことだというのに僕はどうしてしまったのだろう。
体が揺れている。修一朗さんが歩き出したのだろう。するとすぐに甘ったるい不快な匂いが追いかけてきた。さっきからなんて嫌な匂いだろうか。こんな匂いは嗅ぎたくない。修一朗さんにも嗅いでほしくない。
そう思った途端にうなじが燃えるように熱くなった。同時に体の内側から熱い何かがあふれ出す。「はぁ」と吐き出した息まで熱い。
「すごいな。もう香りを放つことができるのか」
すぐそばから少し興奮したような修一朗さんの声がした。
「Ωは愛するαをほかのΩに奪われないように、自らの香りを強く放つことがあると言われている。そうしてαにほかのΩの香りを嗅がせないようにするためだ。αが優勢になったことでそうしたことができるΩは減ってきたと言われているけれど、千香彦くんのこの香りはまるでαの威嚇のようだね。僕のためにこうして香りを放っているのかと思うとたまらなく興奮するよ」
声を聞くだけで耳が震え、修一朗さんに触れている場所がカッカと熱くなる。何を求めているのかわからないのに早く、早くと気分が急いて仕方がなかった。
「そう焦らないで。わかっている。もちろん今夜きみを僕だけのΩにするから」
修一朗さんの言葉に息苦しいくらい体が熱くなった。「早く」とうわごとのようにつぶやくと「僕もじつは急いているんだ」と苦笑するような声が返ってくる。
(早く……ここは余計な匂いがたくさんしていて落ち着かない)
先ほどの甘ったるく不快な匂いとは少し違うけれど、似たような甘い匂いがあちこちからしていた。なかには僕たちに真っ直ぐ向かってくるような匂いまである。
早くここから離れたい。いろんな匂いに頭が痛くなってきた。目を開けているのが苦しくてギュッと目を瞑る。それでも嫌な匂いに追いかけられているような気がして、修一朗さんの首に回した手にギュッと力を入れた。
「もうすぐ車だ。あと少し辛抱できるかい?」
コクコクと頷いてから大好きな香りがする首に顔を埋めた。スーッと息を吸うと胸いっぱいに大好きな香りが入ってくる。
(あぁ、僕の大好きな香りがする。香りはこれだけでいい。これしかいらない。いつもどおり爽やかな……)
違う。いつもどおりじゃない。香水の爽やかな香りはするけれど、それより甘い香りのほうがずっと強くなっていた。
甘い香りも前から感じていたけれど、以前とは違い甘いだけじゃない気がする。甘いけれどうっとりするような……こういうのを“蠱惑的な香り”というのだろうか。
(この香りをずっと嗅いでいたい)
襟の中に鼻先を突っ込むようにしながら何度も香りを嗅いだ。そんなことをしてしまったのは首のあたりが一番強く香りを感じたからだ。何度も鼻を鳴らしていると、「ちょっといいかい?」と言って修一朗さんが僕をどこかに下ろそうとした。
「嫌です」
「僕も離れがたい気持ちではあるけれど、車に乗らなくては屋敷に戻れないよ」
屋敷という言葉に修一朗さんの部屋が頭に浮かんだ。あの部屋なら修一朗さんの香りで満たされているはず。早くあそこに帰りたい。早く修一朗さんの香りだけがする場所に戻りたい。
「早く帰りたい」
そうつぶやくと「僕も同じ気持ちだよ」と言って、修一朗さんが額にキスをしてくれた。




