都留原のご令嬢との対峙
ちょうど姉に修一朗さんとの婚約話が出ていた頃のことだった。当時の姉はまだ一人で外出することが可能で、修一朗さんとのことを大々的に公にしたかった父は姉の誕生日を祝うパーティを開いた。子どもだった僕には国中の華族が集まっているように見えるほどの賑わいだったのを覚えている。
自慢の庭にテーブルを出し、そこに洋酒や珍しい果物、お洒落な料理を並べる。寳月の家では滅多に見ない洋食に僕は目を輝かせた。その場にいてもいいけれど余計なことはするなと言われていた僕は、目立たないように綺麗でおいしそうな甘い物ばかりを手にとっては庭の片隅で静かに食べて楽しんでいた。
そんな僕をじっと見る女の子がいた。はじめは気のせいかと思った。けれど二つ、三つと食べ進めている間も女の子は僕ばかり見ている。どうして僕ばかり見るのだろうとそのときは疑問に思うだけだったけれど、きっと姉そっくりの顔だから見ていたに違いない。目の前のご令嬢には、あのときの女の子の面影があった。
(都留原家が横やりを入れてきたと聞いたのも、たしかあの頃だ)
おそらく敵情視察に来ていたのだろう。あの後も顔をしかめながら都留原家の話をする父を何度か見ている。ご令嬢も僕の中にあの頃の面影を見つけたのか「やっぱり」とつぶやいた。
(都留原家は修一朗さんとの婚約に躍起になっていた。ということは、この人が修一朗さんの……)
都留原家が婚約の申し入れをしていたご令嬢に違いない。喉がひくりと動いた。寒いのに背中を嫌な汗が流れ落ちる。
(なんて堂々としているのだろう)
華やかなドレスを纏い、首には暗い庭でもかすかに光る装飾品が付いたΩ用の首飾りをしていた。Ωは「可憐な」と言われることが多いけれど、目の前のご令嬢の姿に「華やかな」という言葉が一番に浮かんだ。表情にもたたずまいにも自信のようなものを感じるからだろうか。こういう人こそ正真正銘の華族のΩなのだと痛感させられた。
ご令嬢がにこりと微笑んだ。気圧されるような雰囲気に微笑み返すことすらできない。
「寳月のご子息ですわよね?」
「は、はい」
「修一朗様とご結婚されたと聞きましたわ。おめでとうございます」
「ありがとう、ございます」
声の張りまで違う。これが本物のΩなのかと苦い気持ちがわき上がってきた。嫉妬や敗北のような気持ちになるのを隠すように会釈する。そこまではよかったものの頭を上げることができない。それでもチクチクと刺すような視線を感じて、そっと顔を上げた。
(そうか、この人は怒っているんだ)
僕を見る視線は鋭く、微笑んでいるけれどにこやかな雰囲気は感じられない。きっと僕が修一朗さんと結婚したことに納得していないのだろう。
(当然だ)
いくら婚姻届が受理されたといっても、昔の僕を知っているのなら僕がβだということも知っているはず。大勢が珠守家に遠慮して何も言わなかったとしても、都留原家ほどの家なら文句の一つも言いたくなるだろう。
ご令嬢の目がますます鋭くなった。ところがすぐににこりとした微笑みを浮かべる。
「なんても修一朗様たってのご結婚だとか。結婚の話を聞いたとき、寳月のほうから修一朗様に頼み込んだに違いないと思っていたせいかとても驚きましたわ」
「だってそうでしょう?」と言いながら、ご令嬢が首飾りを指先でクルクルと撫で始めた。
「修一朗様はもともとあなたのお姉様と婚約していたのですもの。婚約者が亡くなったからといって、その弟をすぐに娶ろうなんて普通は考えませんわ。だからてっきり、珠守家との縁を失いたくなくて寳月のほうから持ちかけたのだとばかり思っていましたの」
言い終わると、何かを思いだしたかのように「ふふっ」と笑った。
「わたくし、あなたのことをずっとβだと思っていましたのよ。初めてあなたを見たとき、たしかにとても美しい顔だとは思いましたけれどΩではなかったんですもの。もちろんαでないこともすぐにわかりましたわ。だってわたくし、あのときはもうΩだとわかっていましたから、αもΩもすぐに気づくことができましたの」
ご令嬢の微笑む顔に鼓動が嫌な音を立てる。
(やっぱり疑っていたんだ)
当然だと思った。昔の僕を知る人なら絶対にΩだとは思わない。
ご令嬢の顔を見ることができなくなった。それでも俯いてはいけないと思い、視線だけを少し下げる。するとクルクルと首飾りを撫でているご令嬢の指に目が留まった。なぜか僕の首飾りがググッと絞まるような気がして息が苦しくなる。
(都留原のご令嬢が「この人はβだ」と言えばどうなるだろうか)
たとえ修一朗さんがΩだと言っても「やっぱり」と言う人が次々と現れるに違いない。そうなれば雑誌はおもしろおかしく書き立て、新聞も大々的に報じるだろう。いくら珠守家でもきっと大変なことになる。商売に影響が出るかもしれない。
「それに、あなたのお父様もそうおっしゃっていましたから。たしか……そうですわ。『あれがΩならまだ望みがあったものを』でしたかしら」
耐えきれず目をギュッと瞑った。握り締めた拳がブルブルと震える。
(父ならそう言ったかもしれない)
寳月でのことがあれこれ蘇った。「役に立たない男のβが」と何度言われただろう。それでも耳を閉じ、口を閉じ、ひたすら姉だけを見ていた。姉だけが僕を家族として受け入れてくれていたからだ。
その姉ももういない。大好きだった姉の代わりに修一朗さんと結婚し……違う。僕は修一朗さんに望まれて結婚した。だけど、そのせいで修一朗さん迷惑をかけることになってしまう。修一朗さんの迷惑にだけはなりたくない。迷惑をかけてしまうくらいなら潔く身を引くべきだ。
(そうするのが一番いい。僕はこのまま修一朗さんのそばにいては駄目だ)
わかっている。わかっているのに嫌だと思ってしまった。身を引くなんて、修一朗さんのそばにいられなくなるなんて絶対に嫌だ。
体の奥から何かが沸々とわき上がってきた。ただでさえ熱っぽかった体がさらに熱くなる。目の前がグラッと揺れた気がした。慌てて足を踏ん張るものの、目眩のような感覚に体が少しだけ揺れた。
(これは……なんの香りだろう……)
都留原のご令嬢に少し近づいたとき、やけに甘ったるい香りが鼻に入ってきた。もしかしてご令嬢が纏っている香水だろうか。最近は女性も好んで香水を使うと聞いている。香水には詳しくないけれど、あまりよい香りには思えなかった。
「それなのに、いまさら本当はΩだったなんて言われても納得できませんわ」
不満げな声に続いて目の前からぶわっと香りが広がった。頭が痛くなるような香りに思わず口元を覆った。なんてひどい香りだろう。もはや香水と呼べるようなものじゃない。まるでお菓子や花やシャボン、そういったこの世の甘い匂いを煮詰めたような香りに吐き気がしてきた。
「もしΩだというお話が本当だったとして、どうしてβだなんて嘘をついていらっしゃったの? しかも家族ぐるみでだなんて、どういうことかしら」
ご令嬢が一歩近づいてきた。途端に甘ったるい不快な香りが濃くなった。あぁ、そうか。この香りはこの人から香っているのだ。目の前の……誰だったかな……とにかく、この人から吐き気がするほどの甘い香りが、嫌な匂いがしている。
「それとも、まさか本当はβなのにΩだと偽って修一朗様と結婚したのかしら」
声よりも匂いが気になって仕方がなかった。これ以上匂いが強くなったら息ができない。あまりの息苦しさに一歩下がると、許さないというように女性がまた一歩近づいた。
「もしそうだとしたら大変なことだわ。お祖父さまだって黙っていらっしゃらないはずよ。きっと珠守家に問いただすでしょうし、そうなれば寳月も大変なことになるでしょうね」
女性の声が段々小さくなっていく。反対に甘ったるい匂いがますます強くなってきた。早くこの匂いから離れたいのに、体が熱くて手足をうまく動かすことができない。
「ご自分と寳月の家が大事なら、早く身を引かれるべきだわ。そのほうが修一朗様にとってもよいと本当はおわかりなのではなくて?」
頭が痛い。同じくらい体が熱くて息苦しさが増す。
(なんてひどい匂いだろう。こんな匂いはいらない。僕が欲しいのは爽やかで、それでいて甘い修一朗さんの香りだけだ)
「それともまさか、修一朗様にふさわしいのは自分だと勘違いされているのかしら。おおいやだ、これだから没落した家の人は卑しいと言われるのね。あなたのような偽物は修一朗様にふさわしくないわ。この世で修一朗様にもっともふさわしいΩはわたくしだけよ」
この人は何を言っているのだろう。こんなひどい匂いで修一朗さんに近づこうとしているのだろうか。そんなことが許されるはずがない。そもそも修一朗さんの香りは僕だけのものだ。間違ってもこの不快な匂いと混じるなんて絶対に許さない。
「そうだわ、殿方がいなくては困るとおっしゃるのなら、お祖父さまにお願いしてどなたか紹介して差し上げますわ。華族でも、もし宮家のどなたかがよいとおっしゃるならお声をかけることもできますわよ?」
「とても不快な匂いがします」
僕の言葉が聞こえなかったのか、目の前から「え?」と戸惑うような声がした。
「あなたからはとても嫌な匂いがします。そんな匂いをさせているのに、どうして修一朗さんに近づこうなんて思っているんでしょうか」
「……っ」
女性の頬がパッと赤くなった。すぐさま眉をつり上げ、鋭い眼差しで僕を睨みつけている。
(どうしてそんな顔をするのだろう)
僕はただ正直に思っていることを口にしただけだ。それに間違ったことは言っていない。
「そもそもあなたの匂いを修一朗さんが好むとは思えません。修一朗さんの清々しくて甘い香りに、こんなにも頭が痛くなるような匂いは似合わない」
不快すぎる匂いにますます頭がクラクラしてきた。息苦しいからか体がカッカと熱くなり、そのせいで足元が覚束なくなる。
「さっきからなんて無礼な! ……っ。あなた、その香りは、」
体がグラッと揺れた。踏ん張ろうとしたけれど、なぜか体のどこにも力が入らない。「あぁ、地面にぶつかってしまう」と目を閉じたところで、肩と腰に誰かが触れるのがわかった。
「千香彦くん、大丈夫かい?」




