痛感
体が怠い。なんとかなると思っていたけれど、そろそろ自分を騙すのも難しくなってきた。
(それに熱っぽさもひどくなっている気がする)
ただの微熱ならここまで気にしない。けれど頭がぼんやりするほどの熱となると話は別だ。頬に手の甲を当てた。手も熱いからか、頬と手のどちらが熱いかよくわからない。右の頬、左の頬、最後に額に手を当てたところで姉の顔が頭に浮かんだ。
(姉さんもよく熱を出していたっけ)
昔はそうでもなかった。通院の行き帰りはバスを使い、帰りは僕と一緒に神田の書店に寄ることも喫茶店に行くこともできた。ところが僕が高等学校に入る頃には一人で外出することもままならなくなっていた。
額に手を当てたまま目を閉じる。「ふぅ」と息を吐き、「大丈夫、大丈夫」と心の中でまじないのように唱えた。「大丈夫と唱えていたら本当に大丈夫になるのよ」と微笑む記憶の中の姉に頬が緩む。
(どうか僕を見守っていて。今日は大事な日だから失敗できないんだ)
今日は修一朗さんと初めてパーティに行くことになっている。話を聞いたのは十日ほど前で、そのときも少しだけ体が怠かった。熱っぽさも感じていたけれど、まだ十日もあるし平気だと思って同伴することを了承した。
体調に不安があるなら修一朗さんに言ったほうがいい。もし先方で具合が悪くなれば大勢に迷惑をかけてしまうかもしれない。そんなことになれば「やはり寳月の息子は駄目だ」と言われるだろう。それでも修一朗さんに心配をかけたくなくて言い出すことができなかった。
お昼を過ぎてから仕事で出ていた修一朗さんが帰ってきた。少し遅い昼食を一緒に食べ、着替えてから送迎の車に乗る。
(小さなパーティだと言っていたけれど……)
到着した屋敷は僕が想像していたよりずっと立派だった。主催は子爵家と聞いていたけれど、かつて侯爵位だった寳月の家より大きな建物に呆気にとられてしまった。
「千香彦くんは僕の隣にいてくれればいいからね」
「は、はい」
こうした社交パーティに参加するのはこれが初めてだ。事前に修一朗さんからあれこれ話を聞き、礼儀作法を記した本を読んだりもしたけれど本当に大丈夫だろうか。不安に思いながら修一朗さんの後をついていく。
今夜は嶽川子爵の弟の婚約を祝うパーティということで、珠守家にも案内状が届いたのだそうだ。修一朗さんは「商いで少し縁があっただけなのに」とため息をついていたけれど、僕を同伴すると決めてからは何やら楽しそうな様子だった。
(それもあって体調のことを言い出せなかったんだ)
それに修一朗さんの役に立てる機会でもある。これからもこうした社交パーティにはたくさん招待されるのだろうし、修一朗さんの伴侶として一緒に行くことも増えてくるだろう。それなら早くから参加して経験を積んだほうがいい。
気合いを入れ直し、修一朗さんに続いて大広間に入った。薄暗くなった外とは違い、大広間は眩しいくらい煌びやかで一瞬足が止まった。どこからか西洋の音楽が流れ、歓談している人たちはお洒落な洋装に身を包んでいる。
(やっぱり僕には場違いだ)
すぐにそう思った。おそらく集まっているのは華族のαやΩがほとんどで、中には富豪のβもいるだろうけれど僕とは立場が違う。僕のような爵位を失った家のβが来てもよい場所じゃない、そう思った。
「修一朗さん」
思わず前を歩く修一朗さんに声をかけていた。
「どうかしたかい?」
「やっぱり僕は来ないほうがよかったんじゃないでしょうか」
「どうして?」
「だって……」
チラチラと周囲を見回す。どう考えても自分がいていい場所とは思えない。僕がそばにいたのではきっと修一朗さんに恥をかかせてしまう。
「ここに僕はふさわしくありません」
「そんなことはないよ」
「でも、」
「きみは僕の伴侶だ。こうしたパーティには夫婦同伴で来るのが普通だと知ってるだろう? それとも千香彦くんは僕が寂しく一人で来たほうがよかったと思っているのかい?」
「そんなことはありませんけど……」
結婚しているのに妻を同伴しなければ不仲なのかと噂が立つ。結婚は家同士の結びつきでもあるから、両家がよくない関係ではと勘繰られることになるだろう。そうした噂を立てられるのは家にとって喜ばしくない。なによりそうした噂から足をすくわれることもある。
「たしかに連れて来るんじゃなかったと思わなくもないけれどね」
修一朗さんの言葉にドキッとした。顔が強張るのを感じながらそっと修一朗さんを見上げる。
「見てごらん。誰も彼もが千香彦くんに注目している。なかには明らかに不埒な視線を向けてくる人もいる。ああした輩の視線にまでさらされるのかと思うと、連れて来るんじゃなかったと後悔しそうだよ」
まさかの内容に頬が熱くなった。たしかに視線は感じるけれど、それは僕を品定めしているだけだ。
「あぁほら、また千香彦くんを見ている輩がいる」
どうしよう、大広間中から見られている気がしてきた。そう思った途端に怖くなった。修一朗さんは「婚姻届が受理されたのだから、きみのことをΩだとみんな思っているよ」と言っていたけれど、はたして本当にそうだろうか。
このなかに寳月の家のことを知っている人がどれだけいるかはわからない。けれど知っている人なら「あいつは本当はβだ」と思っているはずだ。修一朗さんとの結婚は新聞にも載るくらいだから、噂が噂を呼んで「本当はβらしい」という話が広まっているかもしれない。
(もしここで寳月の息子は実はβだと騒がれたら大変なことになる)
僕だけでなく修一朗さんまでおもしろおかしく指を指されてしまうだろう。男のβをΩだと偽って囲っている男だと、おかしな趣味を持つαだと嘲られてしまうかもしれない。
(絶対にβだとばれないようにしなくては)
グッと喉が詰まるような気がした。体の怠さや熱っぽさに構っている場合じゃない。しっかりしなくては、悟られないようにしなくては、そう何度も自分言い聞かせていると「よくいらっしゃいました」という男性の声がした。
「これはこれは、本日はお招きいただきまして……」
修一朗さんの反応から、この人がパーティの主役なのだとわかった。一歩下がったところに着物を着た男性が立っている。美しく優雅で華奢な雰囲気、それに首に着けた漆黒の首飾りからすぐに許嫁のΩだとわかった。
(やっぱり本物のΩは違う)
立っているだけで目を引いた。βの僕にはわからないけれど「とてもいい香りがしそうだな」なんてことまで思ってしまう。表情やたたずまい、雰囲気すべてが“これが本物のΩだ”と言わんばかりの姿に居たたまれなくなった。
「すみません」
ちょうど話が途切れたところで修一朗さんに声をかけた。「どうしたんだい?」と僕を見る修一朗さんに「風に当たってきます」とだけ答え、修一朗さんが何か言う前に頭を深々と下げてからその場を離れる。
(こうして見ると、首飾りを着けているかわからなくてもΩだってわかるものなんだな)
姉以外のΩが身近にいたのは中等科までで、あの頃は第二次性を意識することなんてなかった。当事者たちは気にしていたようだけれど、βの僕には別世界の話でいちいちαかΩかなんて考えたこともない。
けれど、いまなら考えなくても痛いほど感じる。本物のΩはまったく違う。Ωのように美しいと言われてきた僕だけれど、それは顔だけだ。本物のΩは顔も雰囲気も何もかもが“Ω”だった。
(羨ましい)
人の間をすり抜けながらそんなことばかり考えた。本物のΩが羨ましくて仕方がない。綺麗な顔じゃなく、僕もΩとしての性が欲しかった。たとえ自由に外出できず学問を学ぶ機会が与えられなかったとしても、Ωとして生まれ修一朗さんの隣に立ちたかった。
(僕はどうしてΩに生まれなかったんだろう)
大広間の端まで来ると庭に面した大きな掃き出し窓が空いていた。日が落ちて外はすっかり寒くなっているけれど、大勢の人たちが集まっているから部屋の中は暖かい。その暖かさから逃げるように庭に出た。
少し進んだところに梅らしき木があった。まだ年も明けていないというのに、気が早い花が一輪、二輪咲いている。見つけた花を見て、自分の格好を見下ろした。
今夜着ている三つ揃えのスーツは修一朗さんが仕立ててくれたものだ。色は美しい銀鼠で、用意してくれた首飾りには修一朗さんのタイピンとお揃いの宝石があしらわれている。「よく似合っているよ」と修一朗さんは褒めてくれたけれど、こうしたパーティ用の服を着たことがない僕には馬子にも衣装でしかない。
(僕は桜どころか梅にさえなれない)
僕は偽物のΩだ。いくら首飾りをしていても本物にはなれない。優秀で美しく素敵な修一朗さんの隣には、偽りなんかじゃない本物のΩがふさわしい。
(Ω用の首飾りだって偽物の僕に似合うはずがない)
首に張りつくようにぴたりとしたΩ用の首飾りを指で撫でた。姉の桜色のものより濃い紅色だからきっと目立つだろう。せっかく修一朗さんが今日のためにと用意してくれものだけれど、身に着けているのが苦しくて仕方がなかった。
(やっぱり僕には無理なのかもしれない)
修一朗さんの役に立てるかもしれないと少しだけ自分に期待していた。けれど実際は惨めな気持ちになるだけだった。男のβでしかない僕にはΩの代わりなんて務まらない。ここに来てそれがよくわかった。
首飾りを撫でていた手を下ろし、代わりに左手薬指にある指輪を撫でた。あれほど嬉しかった指輪の存在がいまは重くて苦しい。お揃いの指輪を修一朗さんがはめているのが苦しくて仕方がなかった。
(どうして修一朗さんは僕をここに連れて来たのだろう)
たしかに夫婦同伴が普通だけれど、婚姻届を出しただけで式は挙げていない。それを理由に断ることもできたはずだ。「いや、僕が深く考えずに頷いたのが悪かったんだ」と反省しながら指輪を撫でる。
「あら、あなたは……」
不意に聞こえてきた声にドキッとした。こうした場所に来たことがない僕に声をかけてくるような知り合いはいない。一瞬高等学校の級友かと思ったものの、聞こえてきた声は女性だ。男女が同じ学舎で学ぶのは中等科までで、高等学校には男子しかいなかったから級友じゃない。
振り返ると華やかで美しいご令嬢が立っていた。知り合いではないようだけれど、なんとなく見覚えがある。「誰だったかな」と思い出そうとしたところで「寳月の」とご令嬢がつぶやき、「あっ」とようやく思い出した。
(そうだ、この人は……)
僕に声をかけてきたのは都留原家のご令嬢だった。




