燻る熱2
自分の部屋に戻ってからも薫子さんと瑠璃子さんの言葉が頭から離れなかった。とくに瑠璃子さんが最後に口にした「運命の相手は離れられなくなるのよ」という言葉が何度も頭をよぎる。
(修一朗さんは僕を運命の相手だと言ってくれた。でも僕はβだ。だけどもしΩになれたら……)
修一朗さんは僕から離れられなくなる、ということだろうか。背中がぞくりとした。
(僕が後天性Ωになれば、修一朗さんは一生僕から離れられなくなる)
どんなに美しくすばらしいΩが現れても奪われない。かっこよくて美しくて、どんな人よりすてきな修一朗さんは永遠に僕のものになるということだ。
頭の中がとろけるような気がした。お気に入りの椅子に座り、窓の外に視線を向ける。空気が澄んでいるからか窓の外がキラキラ光って見えた。あぁ、なんてすばらしいんだろう。修一朗さんを僕だけのものにできる日が待ち遠しくて仕方がない。窓から見える景色をうっとりと眺めていると、空気をつんざくようなヒヨドリのピーッという鳴き声がしてハッとした。
(……僕はいったい何を……)
僕はなんてことを考えたのだろう。傲慢すぎる内容にゾッとした。もし後天性Ωの話が本当だったとして、僕がそれになれるとは限らない。そもそも修一朗さんは物ではない。“僕だけのものに”なんて失礼極まりない話だ。
とんでもないことだと思っているのに、頭の中には僕だけを見ている修一朗さんの顔が何度も浮かび上がった。僕だけを見つめる姿にどうしようもなく心が震える。
(お腹が熱い……)
修一朗さんの顔を思い浮かべるたびにお腹の奥がじわじわと熱くなる。その熱が奥のほうでぎゅうっと一つの塊になるのを感じた。痛いわけじゃないけれど、感じたことがない熱さに右手でお腹をそっと撫でる。
お腹の中に溜まった熱がパッと飛び散った。線香花火の火花が飛び火したかのように今度はうなじが熱くなる。熱いだけじゃない。ピリピリとした静電気のようなものも感じた。
お腹を撫でるのをやめ、右手を後ろに回してシャツの襟台から指を差し入れた。すぐにビリッとした鋭い刺激が肌に広がる。まるで修一朗さんに触れられているときのようだ。撫でているうちにお腹がまた熱くなってきた。ジリジリした熱が少しずつ下りてきて、股間のあたりに集まるのを感じる。
(やめなくては……こんなことをするなんて、僕はなんてはしたないんだ)
やめろと頭の中では思っているのに指が止まってくれない。僕がいま感じているのは間違いなく快感だ。まるでうなじを使って自慰をしているような状態が恥ずかしくてたまらない。それなのにどうしても指を止めることができない。
(僕はいったいどうしてしまったんだ。それともこれが欲求不満というやつなんだろうか)
一瞬、修一朗さんに相談しようかと考えた。けれどすぐに駄目だと否定した。こんなことを相談するなんて恥ずかしすぎる。それに年末まで忙しいと言っていた修一朗さんをこんなことで煩わせたくない。
修一朗さんは今日も仕事で品川に行くと言っていた。その後銀座に行き、大手町に寄ってから帰ってくるという話だ。週末も忙しそうで、僕との散歩の時間も随分短くなっている。
(もし欲求不満だったとして、それなら自分でどうにかすればいい)
ようやくうなじを撫でていた手を止めることができた。何度も深呼吸をくり返し、なんとか股間の熱も収まった。だけどジリジリとしたうなじの熱は消えないままだ。もう触れていないのに肌が粟立つような感覚もする。結局うなじとお腹の奥の熱が冷めることはなく、僕をジリジリと焦がし続けた。
夕方近くになり、使用人が「修一朗様がお帰りになりました」と呼びに来た。すぐさま身なりを整えて廊下に出る。不安な気持ちを沈めるには修一朗さんに会うのが一番いい。やや急ぎ足で庭に面した廊下を通り過ぎ修一朗さんの部屋へと向かった。少し強めにドアを叩くと、すぐに「どうぞ」と聞こえてきてホッとする。
「お帰りなさい」
「ただいま」
帰ってきたばかりだからか修一朗さんはまだスーツ姿だ。相変わらず外国の映画俳優のようなかっこよさに見惚れてしまう。本当はすぐにでも駆け寄りたいのをグッと我慢し、代わりに一番近いところにあるソファに腰を下ろした。
(いきなり抱きついたりしたら心配をかけてしまう)
一度は我慢したもののやっぱり落ち着かない。目の前に修一朗さんがいるというのに、それだけじゃ物足りなくてどうしようもなかった。焦れったいような苦しいような、そんなおかしな気持ちがわき上がり、どうしようもなく修一朗さんに触れなくなる。
「もしかして姉に会ったかい?」
「えっ?」
「かすかにだけれど姉の香りがする」
いつの間にか修一朗さんが目の前に立っていた。「うん、これは姉の香りだ」と言いながら上半身を屈めてクンと鼻を鳴らす。
「昼に、少しだけ」
そう答えると「なるほど」と言った修一朗さんが頬にチュッとキスをした。途端に薫子さんたちがキスをしている場面が頭に浮かぶ。自分たちもあんなふうに見えているのかもしれない。顔が熱くなるのを誤魔化すように頬を撫でた。
「どうりで上機嫌なはずだ」
そう言いながら修一朗さんが「はぁ」と大きなため息をつく。
「どうかしたんですか?」
「さっき廊下ですれ違ってね。そのとき笑いながら僕を見るからどうしたのかと訝しんでいたんだ。なるほど、千香彦くんに会ったのなら上機嫌だったのも頷ける」
「上機嫌だなんて……あの、何かおっしゃっていませんでしたか?」
「何かって?」
「うまく挨拶できたのか心配で」
「それなら心配しなくていい。あんなに機嫌のいい姉を見るのは久しぶりだからね。まったく、時機を見て顔合わせの場を設けると散々説明したのに、辛抱できずに覗き見した挙げ句勝手に会うなんてね」
「覗き見……?」
「中庭で会ったのだろう? 廊下から庭を眺めるのが好きなんだと先日うっかり話してしまったから、これ幸いと覗きに行ったのだろう。あのときの笑顔に嫌な予感がしたんだけれど、まさかそんなことをするとはね」
そうさせてしまったのは僕のせいだ。そう思い、「すみません」と謝ると修一朗さんが「どうして謝るんだい?」と驚いた顔をした。
「やっぱり先に挨拶をしておくべきでした」
「千香彦くんが謝ることは何もないよ。きみを兄や姉に会わせたくなかったのは僕の我が儘だ」
「でも、」
「下手に会わせて千香彦くんが影響を受けたらと心配だったんだ」
「心配、ですか?」
「あの人たちも強いαだからね。できれば僕だけの力でと思って……あぁいや、千香彦くんは気にしなくていいよ」
よくわからないけれど、修一朗さんには修一朗さんなりの考えがあるのだろう。
「でも、それももう大丈夫そうだ。もう少ししたら兄にも会わせてあげるよ」
「わかりました。あっ、その前に行儀作法を教えてもらってもいいですか?」
「行儀作法?」
「はい。正式な場に出ることがなかったので何も身に着けていないんです。それで薫子さんにも失礼な態度を取っていなかったか心配になって」
「薫子さん?」
修一朗さんの声が少しだけ低くなった。どうしたのだろうと改めて顔を見ると、なぜか眉間に皺を寄せている。
「なるほど、それであのご機嫌具合だったというわけか」
また大きなため息をついた。先ほどよりも深く、それに表情も少し固い。
「大方、あの人にそう呼んでほしいとねだられたのだろう?」
「は、はい」
いつもと少し違う様子に緊張して返事がつっかえてしまった。
「そうやって言いくるめ、僕の前で千香彦くんが“薫子さん”と口にする。それに嫉妬する僕を想像して楽しんでいるのだろう。まったく、タチの悪い姉だ」
どうやら修一朗さんは薫子さんに対して怒っているらしい。すぐにそうだとわかったものの、カフスを外しながら背を向けた修一朗さんに胸が苦しくなった。タイを外しているのか腕や肩が動く背中を必死に見つめる。
修一朗さんが離れるだけで胸がざわついた。心細いような泣きたくなるような気持ちになるのはどうしてだろう。僕から離れないでほしい、そばにいてほしい。そんな子どもじみたことを口走りそうになり唇をグッと真一文字に結ぶ。
「まったく姉には困ったものだよ。気を紛らわせたいのだろうけれど、だからといって僕の大事な千香彦くんにまでちょっかいを出さないでほしいものだ」
外したタイを置くためか、ポールハンガーの前に修一朗さんが移動した。ますます遠のく後ろ姿にどうしようもない焦燥感に駆られた。
「姉は早く瑠璃子嬢と結婚したくてしょうがないんだ。だけど一条翁から瑠璃子嬢が十八歳になるまで結婚は駄目だと釘を刺されてしまってね。それで焦れているのは同じαとして理解できる。気を紛らわすために興味のあることに首を突っ込みたいのもわかる。おかげで事業では大いに役に立っているのも事実だ」
「まぁ、先月瑠璃子嬢が十八を迎えたから姉も落ち着くだろうけれど」と言いながら修一朗さんが振り返った。いつもどおり微笑む顔にドクンと鼓動が跳ねる。いつものように僕を見てくれているだけだというのに、どうしようもなく嬉しくて耳までカッと熱くなった。
「千香彦くん?」
名前を呼ばれただけで背中がブルッと震えた。じわりとした熱がお腹の奥から背中を這い上がり、うなじをじわっと熱くする。どうしよう、このままじゃ部屋にいたときのようにおかしな気持ちになってしまう。ジリジリした熱がうなじとお腹の奥を焦がし、それが少しずつ股間に集まるのがわかって膝をもじもじさせてしまった。
様子がおかしいことに気づいたのか修一朗さんが近づいてきた。目の前に立ち、僕を見下ろす姿にさえトクトクと鼓動がうるさくなる。
(修一朗さんがそばにいる……修一朗さんが僕を見ている)
たったそれだけで胸がいっぱいになった。どうしようもないほどの多幸感で息が苦しくなる。
「そろそろかな」
「修一朗さん……?」
自分の声がフニャフニャしていて恥ずかしい。それでも目を逸らさずに見つめていると大好きな手が頬に触れた。
「兄も姉もおとぎ話だと笑っていたけれど、そんなことはなかった。現にきみはこうして甘く香り始めている。Ωの姉を持つという血筋や僕というαの存在の要因も大きいのだろうけれど、僕はそれが一番ではないと考えているんだ」
座面に膝をついた修一朗さんが身を屈めた。グッと近づいてきた綺麗な顔にぼぅっと見惚れる。
「僕ときみは運命の相手だ。だからきみはこうして甘い香りを漂わせるようになった。僕と千香彦くんの想いが、おとぎ話を真実に変えたんだ」
焦点が合わなくなるくらい修一朗さんの顔が近づいた。ゆっくりと目を閉じると目尻からポロッと涙がこぼれ落ちる。それを修一朗さんの指が優しく拭ってくれた。続けて唇に温かくて柔らかいものが触れた。
(僕は修一朗さんが好きだ)
好きで好きでたまらない。次々とあふれてくる想いを伝えたくて自分から唇を押しつけた。
笑うような吐息を感じた直後、下唇を甘噛みされてうなじがゾクゾクッと震えた。もっと噛んでほしい。もっと触れ合いたい。もっと、もっと……底の見えない「もっと」という貪欲な気持ちが体からあふれ出そうになる。
「んっ!」
不意にうなじを撫でられて声が漏れた。唇を噛まれたときより強烈な痺れのようなものを感じて体が震える。何度も肌を擦る指の感触にお腹の奥がカッと燃えるように熱くなった。
気がつけばしがみつくように修一朗さんのシャツを掴んでいた。座っているのにそうしなければ崩れ落ちそうだったからだ。そんな僕の状態に気づいてるだろう修一朗さんは、それでもうなじを撫でるのをやめようとしない。何かを確かめるように何度もうなじを撫で、そうしながら僕の唇を吸い続けた。
「も、ぅ……」
唇の隙間から吐息のようにそう吐き出した。これ以上うなじを撫でられたらどうにかなってしまう。いや、もうとっくにおかしくなっていた。お腹の奥がジクジクして苦しい。股間もどうしようもないくらい熱かった。ズボンの中はきっとみっともないことになっているに違いない。
「もうすぐだ。もうすぐ千香彦くんは大輪の花を咲かせる」
「しゅ、いちろ、さん」
「いつかこうなればいいと、初めてきみを見たときから思っていたんだ」
「しゅう、んっ」
「明香莉ちゃんには悪いことをしたと思っている。でも、僕は自分の心に嘘をつけなかった。明香莉ちゃんはそれでいいと笑ってくれた」
「しゅういち、ろ、さ、っ」
「僕は最初から千香彦くんが欲しくてたまらなかったんだ」
「しゅう、っ」
囁く修一朗さんの唇が僕の唇を擦るせいで返事をすることができない。何か大事な話をしているような気がするのにうまく聞き取ることができなかった。修一朗さんの吐息と唇の感触に目眩がして訳がわからなくなる。
「きみは僕だけのものだ」
ギュッと抱きしめられた。すぐにふわっと爽やかな香りが鼻をくすぐる。
(……とても甘い香りがしている……なんていい香りだろう)
何度も嗅いだことがあるというのに、ここまではっきりと甘さを感じたのは初めてだ。これも修一朗さんが愛用している香水の香りなのだろうか。
(……違う……これは修一朗さんの……)
何かが頭に浮かんだ。けれどすぐにふわふわした気持ちにかき消されてわからなくなる。修一朗さんの甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、愛しい背中をぎゅうっと抱きしめ返した。




