結婚
冷たい風がぴゅうっと吹き抜けた。首を少し縮めながら「はぁ」と息を吐くとすぐに真っ白になる。庭の紅葉はすっかり落ちてしまい、寂しくなった庭木を見るといよいよ冬が始まるのだと実感した。
「手袋が必要だったかな」
そう言いながら修一朗さんが左手を掴んだ。僕の手ごと温かな外套の下に引き込み、そのまま優しく指を絡める。嬉しいやら照れくさいやらで、巻いてもらった襟巻きを口元まで引っ張り上げてにやける口を隠した。
「こう寒いと庭の散歩もままならないね。そろそろ散歩はやめて家の中から眺めるだけにしようか」
「大丈夫です。それに修一朗さんと一緒なら暖かい、ですから……」
僕の返事に修一朗さんが「んん」と咳払いのような声を出した。恥ずかしいことを言ってしまったと思わず俯いてしまったけれど、修一朗さんがどんな顔をしているのか気になってちろっと隣を見る。目元が赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
「それじゃあ昼間の一番暖かそうなときに散歩することにしよう」
「はい」
屋敷の外の出ることがない僕にとって、たとえ庭でもこうして二人で歩けるのは嬉しい。外套の下で修一朗さんの手をギュッと握り締めた。すると僕の薬指にある指輪がかすかに指に食い込んでトクンと鼓動が跳ねる。
(本当に結婚したんだ)
昨日、修一朗さんが役所に婚姻届を出しに行った。僕も一緒に行きたかったけれど、噂を聞きつけた新聞記者たちが待ち構えているかもしれないということで部屋で待つことになった。
小一時間ほど経って帰って来た修一朗さんの手には、いま僕の左手薬指にはめられている指輪があった。「本当は式で渡すんだろうけど、早くつけたところを見たくて」と言いながら、僕の手を取って指にはめてくれた。宝飾品に詳しくはないけれど、おそらく白金の指輪に宝石はダイヤモンドに違いない。
(姉さんが持っていたカタログに同じような指輪が載っていたのを見たことがある)
姉がニコニコと笑いながら「絶対に千香ちゃんに似合うと思うの」と言って見せてくれたのは、銀座にある有名な宝飾店のカタログだった。表には“天景堂”という店名と“結婚準備号”という文字があったのを思い出す。
てっきり自分がほしくてカタログを持っていたのだとばかり思っていた。けれど姉は最後まで僕のことばかりで自分がほしいとは言わなかった。
結局、姉が修一朗さんをどう思っていたのかはわからないままだ。修一朗さんは「戦友、同志のような関係だよ」と言っているけれど本当にそうだったのだろうか。こうして幸せを実感するたびに姉のことが頭をよぎる。姉の幸せを横取りしたんじゃないかと思って胸が痛くなることもあった。
(僕の気持ちに気づいていたなら言ってくれればよかったのに……)
そうすれば僕も姉の気持ちを聞くことができた。いや、姉に修一朗さんとのことを尋ねるなんてことはできなかっただろう。それでもと、つい思ってしまう。
(僕はこんなにもウジウジした性格だっただろうか)
寳月の家にいたときはこんなふうではなかった。それとも修一朗さんに関係することだけウジウジしてしまうのだろうか。こんなことじゃいつまで経っても修一朗さんにふさわしくなれない。なんて情けないのだろうと自分に腹が立ってくる。
「やっぱり寒いかい?」
「えっ?」
「急に黙ってしまったから寒いのかと思って」
心配顔の修一朗さんに慌てて「大丈夫です」と答えた。
「熱も微熱程度ですし、いまだって寒くありません」
「本当に?」
「はい。いただいた襟巻きと、それに左手がとても温かいから平気です」
繋いでいるのとは反対の手で襟巻きを少しだけ引っ張って見せた。襟巻きは毛糸で織られたもので、英国の知人に勧められて手に入れたものだと教えてくれた。英国はこの国よりもっと寒く、たくさんの羊を飼っている貴族もいて織物もさかんなのだという。
(いまの華族で農園を持っている家はどのくらいあるんだろう)
腰に刀を差す武士がこの国を治めていた時代は城持ち大名が各地を治め、都に住む貴族も土地をあちこちに持っていた。でもいまは帝がこの国のすべてを治めている。昔のように領地と呼べるような土地を持つ華族はいない。
それでも一部の華族は遷都後も地方に土地を持ち続けていた。そうした人たちは工場だのなんだのを作って儲けていたという話で、寳月の家も昔は北陸に大きな土地を持っていた。そこを拠点に大陸との貿易で財を成したけれど、戦争をきっかけにそれも叶わなくなった。いま力を持つ華族や富豪は土地ではなく財を使ってさらに財を増やすという方法を取っているらしい。
「本当は両手とも繋いで歩けるといいんだけどね」
そう言いながら修一朗さんが襟巻きを摘んでいた僕の手を取った。そうして両手で僕の両手を包み込み、「少しは暖かくなるかな」と言って微笑む。
(珠守はわらしべ長者のように財を増やしたのだと本に書いてあった)
少し前に修一朗さんが書斎として使っている部屋の本棚で一冊の本を見つけた。書店で売られている本とは雰囲気が違っているのが気になって尋ねると、珠守家の歴史をまとめた本なのだという。
そういえば寳月の家にもそうした本があった。本家と分家筋用に特別に作られた本だと聞いたけれど、父があの本を開く姿は一度も見たことがない。
僕は珠守家を知るよい機会だと思い、修一朗さんに許可をもらって読むことにした。本によると、平安の世では殿上人だった珠守家も時代が下るにつれて家格が下がり、貴族と名乗るのもはばかられるような状態にまで落ちぶれたのだという。ところがあるとき一族にαが生まれ、そのαが当主になった途端に様変わりしたのだそうだ。たった一代で公卿と変わらない財と地位を手に入れたのだとも書いてあった。
(それ以来、珠守家に生まれるαは優秀な人が多いと書いてあった)
修一朗さんもそうしたαに違いない。そんな修一朗さんの隣に立つだけのものが僕にあるだろうか。ただの男のβでしかない僕が隣にいても本当にいいのだろうか。
(僕はまたウジウジと……いまは考えないようにしよう)
婚姻届は無事に受理されたと聞いた。つまり修一朗さんと僕は正式な夫婦になったということだ。今朝の新聞には“ついに珠守のプリンスが結婚!”とはやし立てるような記事があった。あの記事を読めば誰もが僕をΩだと思うだろう。けれど僕はβだ。偽りのΩとしてこの先も生きていくことになるのだろうか。
(それでいいじゃないか)
修一朗さんも珠守家の人たちもそれでいいと言ってくれている。寳月の家が何か言うことはこの先もないだろう。このままでも僕は修一朗さんのそばにいられる。それでいいじゃないか。
それでも僕の中には不安が……いや、違う。これは不満だ。Ωじゃない自分への不満が少しずつ募っていく。いつの間にか僕は「後天性Ω」というものを心から渇望するようになっていた。
「年が明けたら忙しくなるよ」
再び外套の下に僕の左手ごと入れた修一朗さんが歩き出した。
「内輪の式ではあるけれど洋装にするか着物にするか迷っていてね。その衣装合わせの日程をいま調整しているところだ」
「もしかして……」
嫌な予感がして繋いだ手をギュッと握る。それに気づいた修一朗さんが「無駄遣いではないよ」と言って眉尻を下げた。
「式の衣装は普段の服とは違う。一生に一度のことだから後悔しないようにしっかり選びたいんだ。そのためにも何着か仕立てようと考えている」
「どのくらい仕立てる予定なんですか?」
「着物が二着とスーツが三着かな」
「そんなに……もったいないです」
「もったいなくなんてない。僕はこの手で千香彦くんを最高に美しくしたいんだ。もちろん記念写真用の衣装も考えている」
「修一朗さん……」
思わずため息をついてしまった。僕を思って用意してくれるのは嬉しいけれど、僕のために無駄遣いはしてほしくない。つい金銭的な心配をしてしまうのは寳月にいたときの癖だ。貧乏じみたままではいけないとわかっているけれど、役に立たない自分のために金銭を使わせてしまうことに気が引けて仕方がなかった。
「千香彦くんのために使うお金は無駄なんかじゃないよ」
僕が何を考えているかわかったのだろう。こんな貧乏くさい結婚相手で失望したりしないだろうか。心配になるものの、やっぱり僕にそんな贅沢はできないと思ってしまう。
「僕は千香彦くんだから結婚したんだ。千香彦くんの価値は僕が一番よく知っている。千香彦くんに使うお金は決して無駄なんかじゃない」
「でも、僕は……」
「じゃあ、こう考えよう。僕はいま千香彦くんに投資しているんだ」
「投資?」
「将来の千香彦くんはいま使っている金銭以上のものを僕に与えてくれる。そう思ってお金を使っているということだよ」
「僕にそんな大金返せるはずありません」
「たとえ話だよ。それに返してもらうのは金銭だけとは限らない。形のないもの、目に見えないものということもある」
「目に見えないもの……」
「一番のお返しは千香彦くんが僕のそばにずっといてくれることだ」
そう言って抱き寄せられた。勘のいい修一朗さんのことだから、僕が後天性Ωについて考えていることに気づいているのだろう。それどころかΩになれない自分に不満を抱いていることにも気づいているに違いない。だから投資なんて話をしたのだ。
(修一朗さんは本当にいまのままの僕でいいんだろうか)
修一朗さんの背中に両手を回した。外套をキュッと握り、それからぎゅうっと抱きつく。
(僕はΩになれないんだろうか)
Ωになったからといって修一朗さんの役に立つわけじゃない。それでもΩになれるのならと考えずにはいられなかった。
(Ωになれば、少なくとも修一朗さんの子どもを生むことができる)
華族にとって優秀な子どもを得ることは何より優先されることだ。Ωになれば、きっと優秀な修一朗さんによく似たαを生むことができる。
(……それに、修一朗さんと強い絆を結ぶことができる)
βのままでは決して手に入らない“つがい”という絆。僕はそれがほしくて仕方がなかった。
(僕はこんなにも欲深くなってしまった)
修一朗さんのためと言いながら、実際は自分が修一朗さんを独占しただけだ。そんな自分に呆れてしまった。僕はこんなにも浅ましいやつなのだと知っても修一朗さんは呆れないだろうか。
醜い自分が嫌になり、それでもΩへの渇望を捨てきれないまま深呼吸した。すっかり嗅ぎ慣れた爽やかな香りが鼻をくすぐる。香水だとわかっているのに「これがαの香りだったら……」なんて考えてしまう自分に笑いたくなった。
(そういえばなんていう香水なんだろう)
百貨店で売られているものだろうか。それとも外国から取り寄せたものだろうか。
(それに最近少しだけ香りが変わったような……)
爽やかな香りは同じだけれど、その中に少しだけ甘いものを感じる。以前も感じたことがあるけれど、あのときより甘さが増したような気がした。それとも寒くなると香りの感じ方が変わるのだろうか。
(僕がΩだったら修一朗さんのαの香りがわかるのに)
Ωやαの香りは生涯変わらないのだと聞いている。そう考えるとやっぱり香水の香りで満足なんてできない。
(僕はΩになりたい)
そう思いながらもう一度深呼吸をし、爽やかで甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。




