変化2
「千香彦くんは庭が好きだっただろう?」
「僕がですか?」
どういうことだろうと庭を見る。そんな話をしたことがあっただろうか。もう一度修一朗さんを見ると、ちろっと視線だけをこちらに向けて微笑んでいた。
「明香莉ちゃんと花摘みをしているのをよく見かけたよ」
たしかに小さい頃は庭で姉とよく花摘みをしていた。けれど修一朗さんが来ているときにしたことなんてあっただろうか。首を傾げていると「庭にいるときの千香彦くんの笑顔が忘れられなくてね」と庭に視線が戻った。
「ここでも庭を眺めれば落ち着くんじゃないかと思って、少し遠回りだけれど僕の部屋への道順をこの廊下にしたんだ」
「そうだったんですか」
遠回りに感じていたのは気のせいじゃなかったらしい。だけど理由まではわからなかった。思ってもみなかった話に胸がくすぐったくなる。
「そうそう、あの辺りに寳月の庭にあった水仙や芍薬を植えたから来年は楽しめるはずだよ」
「わざわざ植えたんですか?」
「思い出の庭に似ていれば少しでも楽しめるんじゃないかと思っただけだよ。年が明けたら菊の花の用意も始めようと思っている」
修一朗さんはやっぱり優しい。そんな修一朗さんと並んで庭を鑑賞できることが嬉しくてたまらなかった。修一朗さんの横顔をじっと見つめていると、何かを思いついたようにパッと目を見開いて僕を見た。
「そうだ、菊なら鉢を並べればいますぐにでも鑑賞できる。たしか叔父のところで大菊の厚物を育てていたはずだ。管物も美しいからそれも取り寄せようか」
「いまからですか?」
「寳月の庭には秋になるとたくさんの鉢植えが並んでいただろう? 少し遅いけれど、まだ咲いている鉢もあるはずだ」
毎年恒例となっていた庭の様子が頭に浮かんだ。秋になると姉の部屋から見えるところに鉢植えの菊が並べられ、重陽の節句の前日に花の上に綿を置くのが僕の役目だった。そうして菊の露を含んだ綿で姉の口や手足を拭い邪気を払うのだ。
(そうすれば姉さんは元気になるんだと、小さい頃は本気で思っていたっけ)
真剣な顔で手足を拭う僕を、姉はいつもニコニコと笑顔で見ていた。最後に食用の菊花を使ったお茶を一緒に飲んで重陽の行事が終わる。そういえば、お茶を飲みながらいつも「千香くんにはこれからきっといいことがたくさんあるわ」と言っていたのを思い出した。
(もしかして、あれは僕の邪気払いでもあったのだろうか)
菊花のお茶は姉のために用意されたものだったはずだ。それを姉はこっそりと僕にも飲ませてくれていたのだろう。そうして毎年、僕に降りかかる邪気が遠のくようにと祈ってくれていたに違いない。
「千香彦くん?」
「……秋になると、姉と一緒に菊花を眺めていたことを思い出しました」
「それじゃあやっぱり取り寄せようか」
「咲いている菊を動かすのはかわいそうですから来年にしませんか?」
「そうか、そうだね。来年も一緒にいられるのだから焦る必要はないか」
照れくさそうに修一朗さんが笑った。
「来年は結婚して初めての秋だし、記念にあちこちの菊花展を観に行くのも楽しそうだ。そうだ、御苑の菊花拝観ならいまからでも観に行くことができるよ」
御苑の菊花拝観は帝室の方々が楽しまれるもので、たしかごく限られた華族しか参加できないはずだ。寳月の家が参加していたのは戦前の話で、そうした場に行けるのだと話す修一朗さんに驚いた。
(やっぱり珠守家はすごい)
そんなすごい家柄の、次男とはいえ優秀なαの修一朗さんのそばにいてもいいのだろうか。何度となく頭に浮かんでは不安になる。同時に「それでもそばにいたい」と抑えがたい欲がわき上がった。
やっぱり僕は強欲だ。「焦る必要はないか」と笑う修一朗さんより僕のほうがよほど焦るような気持ちになっている。
「これじゃあ千香彦くんに呆れられてしまうな」
「そんなこと……」
「菊の花より先に考えないといけないことがあるというのにね」
「考えないといけないこと、ですか?」
「僕たちの結婚のことだよ」
結婚と言われてドキッとした。
「年が明けて、梅が咲く頃には式を挙げよう」
式を挙げると言われてますます驚く。
「本当は年内にと思っていたんだけど、兄のところに四人目の子どもが生まれたばかりでね。もう少し大きくなれば乳母に任せられるからと頼み込まれてしまった」
「お子さんのこと、知りませんでした。おめでとうございます」
「四人目ともなると大々的に言うことでもないと兄が判断したんだ。それに義姉も『お祝いと称してご機嫌伺いされるのはうんざりだわ』と言っていてね」
以前聞いた家族の肩書きを思えば、それこそ列を成して大勢が集まることだろう。それではきっと落ち着かないに違いない。
「それで式、というのは」
「千香彦くんと僕の結婚式だよ。僕の両親に兄と姉、兄の奥方と姉の許嫁も出席する。中には『盛大な結婚式を挙げるべきだ』なんてうるさく言う親戚もいたけれど、大事な千香彦くんを見せ物にする気はさらさらないから断った」
「あの、本当にご家族が出席されるんですか? というか、本当に式を?」
「家族は僕たちの結婚に賛成してくれていると言っただろう? それどころかようやく売れ残りの引き取り手が見つかった、なんて意地悪を言うくらいだ」
「でも、式まで挙げなくても」
「式を挙げれば都留原のご隠居も諦めがつくだろう。正直、兄姉もご隠居にはうんざりしていたんだ。ご隠居は珠守家と縁続きになりたいだけで、僕のところに来てもすぐに兄姉に会いたがる。困った人だよ」
そう言って笑いながらも目は笑っていない。そんな表情を見るのは初めてで少しだけ背中が震えた。修一朗さんはいつも優しい。だけど優しいだけでは珠守家の次男としてやっていけないのだろう。それに優秀なαだということは、それだけほかのαとの競争に勝ち抜いてきたということだ。
「あの、都留原家のことは本当に大丈夫なんですか?」
僕の言葉に修一朗さんが一瞬真顔になった。その顔に「しまった」と思った。いくら許嫁だと言われても僕が珠守の家のことに口を出すことは許されない。
「問題ない。僕の婚約者は千香彦くんだけだ。ご隠居にもそう伝えたし、もう朝っぱらから屋敷にやって来ることもない」
「まさか、僕のことを伝えたんですか?」
「もちろんだよ。それに僕が結婚することは公にしている。これでうるさく言う人たちも少しはおとなしくなるだろう」
「公にって、僕を婚約者だと公表したんですか?」
驚き続ける僕に修一朗さんが「驚いた顔も可愛いね」と言って笑った。
「僕は早く千香彦くんは僕のものだと言いたかったんだ。おかげで寳月の長男はΩだったのかと噂話で持ちきりのようだ」
「そんなこと……僕がΩじゃないことは大勢が知っています」
「僕が婚約したと言えば誰もがΩだと思う。それに、そのほうが都合がいい。誰もが千香彦くんはΩだったのだと思ってくれれば手出しをしなくなるだろうからね」
「手出しなんて誰も、」
「いいや、世の中何が起きるかわからない。だけど、珠守修一朗の婚約者であるΩとなれば誰も手を出さない。そんなことをすればどうなるか火を見るより明らかだ。αの所有するΩに手を出せばどうなるか、同じαでなくても誰もが理解できる」
修一朗さんの目が日差しを反射してキラリと光った。表情は穏やかなのになぜか背中がブルッと震える。恐怖なのかαの威圧なのかわからないけれど、そうしたものによく似た何かを感じた。
「でも、父が何もいわないはずが……」
「お父上は何も言わない。口を閉ざしていれば寳月は珠守に連なることができる。千香彦くんが僕と結婚することこそがお父上の望みであり、そのためならあの世まで口をつぐんでくれるだろう。ほかの親戚筋も何も言わないよ」
「寳月の家はそうでも、ほかの華族がどう思うかわかりません」
「どんな家柄であっても口出しはさせない。これは珠守の家のことであり、僕が決めたことだ」
「修一朗さん、」
「それに兄も姉も千香彦くんに夢中なんだ」
修一朗さんの顔が照れくさそうな表情に変わった。
「千香彦くんのような美しくて可愛い弟ができると大喜びでね。下手をすれば僕より興奮しているくらいだ。義姉も喜んでいるし、姉の婚約者もきみに会いたがっている」
まさかと思いつつもなんて答えたらいいのかわからなかった。戸惑いながら「そ、そうですか」と少し俯くと、修一朗さんが「そうした千香彦くんの様子も可愛い」と言って笑う。
「兄や姉が『これはよい縁談だ』と言えばとやかく言う人はいない。帝室の方々に何か言われてしまえば仕方がないけれど、帝室の方々が華族の、それも当主でもない次男の結婚にいちいち口を出されることはない」
修一朗さんが僕の手をギュッと握り締めた。
「僕はただ千香彦くんと結婚したいだけなんだ。そのためにはなんだってしよう。だけど無理やり千香彦くんを隣に置こうとは思っていない。僕は心の底から想い合ったきみと結婚したいんだ。千香彦くん、改めて聞きたい。僕と結婚してもらえるだろうか」
手を握ったまま修一朗さんが体を動かした。体ごと僕に向け、じっと僕を見つめる眼差しは真剣そのものだ。
(修一朗さんに僕はつり合わない。わかっているけれど、それでも僕は……)
僕も修一朗さんに負けないくらい結婚したいと思っている。βがαと、しかも男の僕が男性の修一朗さんとなんて本来あり得ないことだ。だけど結婚できる状況になりつつあることに夢を見た。修一朗さんがこんなにも真剣に動いてくれているのに僕が一歩踏み出さなくてどうする。
「僕は修一朗さんのそばにいたいです。修一朗さんと結婚したいです」
スルスルと言葉が出てきた。迷いも戸惑いも“修一朗さんが好きだ”という一番強い想いの前に消えてなくなった。
(いや、心の中には残っている)
これからもきっと何度も不安になったり戸惑ったりするのだろう。それでも僕は修一朗さんのそばにいたい。堂々と僕の旦那様なのだと言いたい。修一朗さんを僕だけの人にしてしまいたい。体の奥から抑えがたい感情が沸々とせり上がってくる。
「役所への届け出は年内に済ませよう。そうしないと安心できない」
「安心できないなんて、僕はどこにも行きませんよ」
あぁ、嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。笑顔でいたいのに目頭が熱くなってきた。
「魅力的な千香彦くんが誰かに奪われるんじゃないかと気が気でないんだ。心の狭い男だと笑ってくれてもいい」
「そんな、嬉しいと思いこそすれ、笑うだなんて」
手を引かれたかと思えばそのままギュッと抱きしめられた。腰を浮かせたときに足が当たったのか、椅子がカタンと音を立てて後ろにずれる。それを気にすることなく僕を引き寄せた修一朗さんの首筋に、おずおずと顔を埋めた。
(……修一朗さんの香りがする)
いつもの爽やかな香りにホッとした。そっと息を吸うと、爽やかな中にほんのり甘い香りがしていることに気がつく。
(もしかしてシャボンの香りかな)
修一朗さんは僕から甘い香りがすると言っていた。シャボンとは違うという話だけれど、修一朗さんからも香っているということはシャボンに違いない。珠守家のシャボンはとてもいい香りで欧州からわざわざ取り寄せているのだと聞いた。
(修一朗さんと僕はいま同じ香りがしているのかもしれない)
そう思うとたまらない気持ちになった。トクトクといつもより速い鼓動を感じながら、もう少しだけと肌に鼻先を近づける。
(これからもこの香りをずっと嗅いでいたい)
そんなことを思いながら僕からもぎゅうっと抱きしめ返した。




