変化1
珠守の屋敷に来てからふた月ほどが経った。来たときは紅葉が始まったばかりで、庭のあちこちで金木犀が咲いていた。それが少しずつ散り、香りも消え、朝夕は随分冷え込むようになった。そうやって季節が変わっても修一朗さんはまったく変わらない。
「少し庭でも眺めようか」
忙しいはずなのに今日もこうして散歩に誘ってくれる。ただ一つ困ったことがあった。修一朗さんが僕を抱きかかえようとしていることだ。慌てて「大丈夫です」と断ったけれど、「でも」と言ってなおも腰を支えようとする。
「熱は大したことありませんし、ちゃんと歩けますから」
修一朗さんを見ながらはっきりとそう告げる。すると渋々といった感じで今度は手を差し出した。
「手を繋ぐのはいいかな?」
「……はい」
本当は少し恥ずかしい。だけど手を繋ぎたいのは僕も同じだ。そっと右手を差し出すと、すぐに温かい手に包まれた。
僕は最近よく熱を出すようになった。寳月の家では風邪一つ引かなかったのにと心苦しくなる。お医者様の見立てでは病気ではないとのことで、修一朗さんも「いろいろあって疲れが出たんだろう」と話していた。
それでも心配なのか修一朗さんは以前にも増して僕の様子を見に来るようになった。もちろん一緒にいられるのは嬉しいけれど、横抱きに抱きかかえて連れて行こうとするのはさすがに遠慮したい。
(それに比べれば手を繋ぐだけだし……いや、使用人に見られて恥ずかしいのは変わらないかな)
恥ずかしいけれど嬉しい。嬉しいけれど、僕とそんなふうにしていていいのかと心配になる。
(男のβと手を繋ぐなんてと思われないだろうか)
そのせいで修一朗さんが悪く言われないか心配だった。それでも修一朗さんの手を離そうとしない僕はなんて欲深いのだろう。
「今日は日差しが暖かい。念のため上着は持ってきたけど寒くないかい?」
「大丈夫ですよ。それに今日は熱もそれほどありませんから」
「それならいいけれど」
僕を見る修一朗さんは眉尻が下がりっぱなしだ。
(姉さんのことを思い出しているのかもしれない)
僕自身、姉のようになるのではと不安に思うこともあった。けれど熱以外に問題はなく、お医者様も大丈夫だろうと言っている。宮家に呼ばれるような高名なお医者様だというし、きっと修一朗さんが言うようにいろいろあったから疲れが出てしまったのだろう。「早くなんともなくなるといいんだけど」と思いながら廊下を歩く。
「ここなら朝から日が入っていたから暖かい。それにほら、庭の様子もよく見える」
修一朗さんの部屋に行く途中の廊下に背の低い椅子が二つ置いてあった。いつも椅子なんてないのに、もしかしてわざわざ用意してくれたのだろうか。廊下といっても縁側のような状態で、けれど掃き出し窓はすべて閉まってるから寒くはない。修一朗さんが少しだけ窓側に寄せてくれた椅子に二人並んで座った。
「もし寒くなったらすぐに言うんだよ? ほら、この上着はとても暖かそうだ」
「……修一朗さん、また新しいものを買い求めたんですか?」
「この色も形も千香彦くんにぴったりだと思ったら買わずにはいられなかったんだ」
「お願いですから無駄遣いはしないでください。それに暖かい上着ならもう十分いただきました」
「この冬はとても寒いと新聞に書いてあった」
「そうだとしてもそんなに必要ありません。それに着ていく場所もないですし」
それなのに相変わらず修一朗さんは僕のためにと服や着物を買い求める。僕の返事に納得できないのか、修一朗さんが深い紅色の上着を撫でならが「でもね」となおも言葉を続けた。
「これはほら、ビロードのような艶もあってほかの上着とは違うんだ。それにこれなら着物の上から羽織っても袖が邪魔にならない。いま流行りの外套風の作りで無駄にはならないと思うんだ」
まるで叱られた子どものように困り顔で話す修一朗さんに思わず頬が緩んだ。そんな僕を見て修一朗さんもニコッと微笑む。
修一朗さんが持っている上着の色は、外国では“ワインレッド”と呼ぶらしい。僕の髪や目の色は明るめで外国人に近いからよく似合うと修一朗さんはご機嫌だ。
「ありがとうございます。大切にします。でも、もう上着は必要ありません。こうして修一朗さんの隣にいれば十分暖かいですから」
椅子に座ったまま修一朗さんに少しだけ寄りかかった。肘掛けがないからお尻を少しずらせば左腕をぴたりと修一朗さんにくっつけることができる。少し前の自分ならこんなことはできなかった。したいと思っても周りを気にして絶対にやらなかっただろう。
(いまも気にならないわけじゃないけれど……)
それでもそばにいたい気持ちのほうが強くて、ついこんなことをしてしまう。修一朗さんは「千香彦くんの我が儘は大歓迎だ」と言ってくれるけれど、本当に呆れたり嫌になったりしないだろうか。
不意に爽やかな香りが鼻をくすぐった。これは修一朗さんの香りだ。朝から香水を付けているなんてとてもお洒落だ。それもこうして近づかないとわからないくらいほんのりした量で、だからか香りを感じるとそれだけ近くにいるのだと実感できて嬉しくなる。
「千香彦くんは随分変わったね」
「そうですか?」
「寳月の屋敷にいたときより堂々としている。それに話し方も笑顔も生き生きとしているように見える」
「そう、でしょうか」
やっぱり厚かましかっただろうか。触れていた左腕を離すとすぐに手を掴まれた。そのまま修一朗さんの膝に載せられ、キュッと握り締められる。
「少し大胆になった千香彦くんに僕はいつもドキドキさせられている。この変化が僕のせいだとしたらもっと嬉しいんだけどね。ははっ、僕の自惚れじゃないといいんだけど」
「もしそう見えているなら、修一朗さんのおかげです。でも、本当にいいんですか?」
「何がだい?」
「僕とこんなことをするのはやっぱり……」
修一朗さんは僕を正式な許嫁だと言ってくれている。だけど僕はβで、しかも男だ。どうしても世間体を考えてしまう。
(それに僕では珠守の家につり合わないと、どうしても気が引けてしまうんだ)
珠守で過ごすようになり、ますます珠守家のすごさを実感するようになった。次男とはいえそんな珠守家の修一朗さんのそばに僕なんかがいてもいいのか、どうしても考えてしまう。
「僕は千香彦くんがいいんだ」
「……ありがとうございます」
「礼なんて言わないでほしい。それに礼を言うなら僕のほうだよ。こんな僕に愛想を尽かさないでいてくれてありがとう」
「愛想を尽かすなんて……」
「僕は自分が随分強引なことをしていると自覚している。それに後天性Ωなんてことを考えるような男だ。そのことで千香彦くんを不安にさせているのもわかっている」
ちらりと修一朗さんを見た。庭を見ている横顔はいつもどおりだけれど、どこか不安そうに見えるのは僕を心配してくれているからだろうか。それとも自責の念に駆られているのだろうか。
「後天性Ωのことは、正直よくわかりません。でも、もし本当にΩになれるのだとしたら……僕は、そうなってもいいと思っています」
そうじゃない、本当は心からなりたいと思っていた。Ωになれば正々堂々と修一朗さんのそばにいられる。修一朗さんが後ろ指を指されることなく、僕も大勢に「この人は僕の旦那様なのだ」と言うことができる。本当はみんなに修一朗さんは僕の大事な人だと言いたくて仕方がなかった。
(僕はすっかり傲慢になってしまった)
僕の本性はこうなのだと修一朗さんが知ればどう思うだろうか。呆れられたくない、嫌われたくない、どうか僕を好きでいてほしい。修一朗さんに好かれたいという気持ちがあふれそうになる。
窺うように修一朗さんを見ると、修一朗さんも僕を見ていた。眼差しがいつもどおりなことにホッとする。
「僕はどんな千香彦くんも好きだよ。いまのままでも十分魅力的だ。でも、もしΩになったらとつい考えてしまう。千香彦くんがΩだったら迷わずうなじを噛んでいただろう。そうして僕だけの千香彦くんにしていたに違いない。誰にも奪われないように、僕だけのΩにしたいと無理やりにでも噛んでいたはずだ」
修一朗さんが庭を見た。「こんなことを言ったら嫌われてしまうかもしれないけれど」と笑う横顔はどこか寂しそうに見える。
「僕が修一朗さんを嫌うことなんてありません」
「ははは、ありがとう」
「本当ですよ」
「千香彦くんにそう言ってもらえるだけで今日も僕は幸せだ」
心の底からそう思っているのに修一朗さんには伝わっていないような気がした。
(僕はとっくに修一朗さんのものなのに)
βだけれど僕は修一朗さんだけのものになりたい。できるならΩになって正真正銘、修一朗さんだけのΩにしてほしい。こんなことを思ったのは初めてだ。僕はどんどん強欲になっていく。僕の修一朗さんへの想いはきっと底なしに違いない。
「やっぱり庭はいいね」
「えっ?」
急にどうしたのだろうと修一朗さんを見た。




