第7話 指先
リアンは苦しんでいた。
「はいっ! リアン様、ビシバシいきますよ!」
——王妃教育とか聞いてない。
なまじ体育会系のスパルタ教育だからか、リアンはすぐに適応してしまっていた。
婚約の話が出て来た時から付きっきりでの教育である。
「体幹があり軸のぶれなさは評価しますが、その代わり手や足の先に意識が向いていないですわ」
「そうですねぇ、水面でバタつく鳥のようです」
「指先に力を入れてください! そうすれば崩れません」
指導係は二人。
一人はザ・家庭教師という見た目の三角メガネの女性。もう一人はおっとりとした儚げな見た目の毒舌な女性だった。
彼女たちは一介の貴族令嬢よりハイレベルな所作や礼儀作法を要求する。それもそのはずだ。タイムリミットは数日後の夜会である。
「休憩にいたしましょう」
「はい……!」
「あらあら。息があがっていらっしゃますわ。次は息を整える呼吸法を同時並行で行ってくださいな」
普段使わない筋肉が刺激されている、とリアンは「うっ」と顔を顰めた。
最初の王妃教育では筋肉痛になったものだ。鍛錬をしているおかげか筋肉痛自体はすぐに治ったが、何よりコルセットの締め付けが難所であった。
「リアン様、この国の来賓のお名前は覚えられましたか?」
「一応、頭に叩き込みました」
「素晴らしい」
「あのリスト……誰が作成したのですか?」
「それはチェルシーの方ですわ」
三角メガネをくいっとあげたパテラが、隣に座るチェルシーに目を配る。彼女が微笑むと、口元にあるほくろが怪しく光った。チェルシーは「張り切っちゃった」と言いながら冷えたスパークリングを飲んでいた。
「醜聞がたくさんあったでしょう?」
「そう、ですね」
「夜会で踊り歓談する紳士や淑女は三つの顔を使い分けなければなりません。醜聞というのは毒の顔であり、武器でもあり、争いの火種を避けるためのものです。割り切りましょう」
「わかりました」
無知——彼女たちが最初にリアンに会ったときによぎった言葉である。
彼女たちはリアンが貴族令嬢としての立ち振る舞いがあまりできていないことを感じ取っていた。確かに要求するのはハイレベルであったが、最初は普通の貴族令嬢ができることから始めたのだ。
「まぁ未来の王妃に無礼を働く方はいらしゃらないとは思いますが」
枯れかけた花が水を吸収するように、打てば響く才を持ちながらも所作がぎこちない。指導係の二人は口にこそ出さなかったが、「親や家庭教師からきちんとした教育を受けることができていない」と判断したのだった。
実際のところそれは真実であった。
リアンの父親は母親が亡くなった後からぱったりと貴族令嬢の教育を施さなくなった。彼女は子供の頃の知識のまま社交界に顔を出していて、装備なしで戦っていたようなものである。
「今回は自国のみですが、当日は他国からも来ます。その時の対処法もまた今度お教えいたしましょう」
「チェルシーは他人を転がすことに長けていますからね」
「こら、パテラ。あなたはお堅すぎるの」
ふふふ、と笑い合う二人をリアンは眺める。
ユーモアと皮肉。お手本のような会話だった。
「そろそろ時間ね。再開いたしましょう」
リアンがまた「うぅ」という顔をする。
すると「当日はその顔をなさらないように」という鋭い声がすぐさま飛んできた。
彼女たちは「終わったら服の採寸等ありますから、それを楽しみに頑張りましょう」などど言うが、リアンにとってそれは稽古の延長でしかない。
「指先! よくなっていますが、まだぎこちないです。力を入れすぎなので柔らかく!」
「あらぁ、石像かと思いましたわ」
王妃教育の後のことに考えを巡らせているとパテラの叱責とチェルシーの毒舌が矢継ぎ早に続く。
リアンは「剣……」と呟いた。
それが聞こえたパテラは「では剣舞だと思ってくださいませ!」とピシャリと言い切った。
△
剣ダコはない。筆ダコもない。
だというのに人生で一番手と指先が疲れていた。
「力ってどうやって入れるんだっけ……」
手をグッと握るが力があまり入らず、閉じたり広げたりを繰り返す。
窓を見上げれば夜空には星が所狭しと並んでいた。
ベッドに立てかけた剣を見る。
「……」
リアンは気付けば、剣を掴んで部屋の外へと出ていた。
扉の前に衛兵はいない。普通の王宮ではあり得ないことだが、全て「竜帝の居住区域だから」という言葉で片付いてしまう。
夜の王宮は、とりわけリアンの寝泊まりしているところは静かだ。
天井の高い廊下には、夜灯の魔石が静かに青白く灯っており、大理石の床にほのかな光を落としている。風が通るたび、厚いカーテンがゆっくりと揺れ、壁の金の装飾が微かにきらめく。広すぎる空間に、足音だけが小さく響いた。
息を潜めれば、まるで王宮そのものが眠っているようだった。
やがてリアンは、朝の鍛錬でいつも訪れる小さな庭に辿り着く。段差に腰を下ろした。
誰もいないはずなのに、そこはいつも彼女を迎えてくれる、そんな場所だった。
「——こんな夜更けに何をしている?」
リアンは驚かなかった。
王宮内にいるとリアンが一人になったときに、竜帝ヴァハルはいつも彼女の隣に音も立てず現れる。
話しかけるタイミングを伺うように、なぜか気配がずっと隣にあるような感覚がするのは気のせいではないだろう。
「散歩を」
頭上でフッと笑う声が聞こえた。
「王妃教育で絞られているらしいな。指導係二人からの評価が高い」
「光栄です」
草の香りがひんやりとした夜気に混じり、月の光を受けた白い石畳が静かに光っている。頬を撫でる風が心地いい。
周囲を囲む背の高い木々は影を落とし、その合間から星々が瞬いていた。
「もうすぐ、満月の夜がくる」
ぽつりとヴァハルの呟いた言葉にリアンは固まった。夜空の月はもう少しで丸い弧を描く。
まさか——、
薄く開いた口からリアンが言葉を紡ごうとすると、息が声となる前にヴァハルが跪いた。草と服が触れ合う音がひどく寂しい。
「お手を」
これで二度目だ。
ヴァハルは夜会で手を取ったあの日からリアンに触れようとはしなかった。
それが、今。
「なにを?」
恐る恐るリアンの指先が、差し出されたヴァハルの手のひらにのる。
小さな点のような触れ合い。
ヴァハルはじっと手を見ると、節くれた親指の腹で指先を撫でた。
「労わろうかと」
指先にわずかに熱が灯ったような感覚が走る。リアンが戸惑いかけたその瞬間、ヴァハルはその手をすくい上げ、丁寧に、唇を添えた。
「っ……」
乾いた夜風の中、そこだけが静かに熱を孕んでいた。唇が離れたあとも、そこに何かが残っているようで、リアンは反射的に手を引こうとする。しかしその動きをヴァハルの指がそっと止めた。
「君の剣が僕を守ってくれると共に、僕もこの手を守ろう」
低く、喉の奥で鳴るような声が、まるで誓いのように響いた。
そして彼は、リアンの掌をそっと返し、その中心へもう一度、今度は深く——まるで祈るように唇を押し当てた。
吐息混じりの温もりが、掌に染み込む。
「……やめて、」
自分の声じゃないみたいだ。リアンの声はかすれていた。けれどそれは拒絶ではなく、ただ心の揺れが言葉になっただけ。
ヴァハルは顔を上げ、まっすぐ彼女を見つめた。
「愛してる」
愛情を示す言葉のはずなのに、ヴァハルのそれは懇願の色を含んでいた。
リアンは思わず息を呑む。彼の瞳に映るのは、騎士ではなく、一人の女性としてのリアンだった。
「それで……力の入れ方は思い出せそうか」
ヴァハルの唇がかすかに、そして意地悪げに釣り上がる。
いつから聞いていたんだろう、という気持ちと妙な気恥ずかしさで唇を噛み締めた。
胡乱げなものを見る目でリアンはヴァハルを睨むと、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
「——……今ならグーで殴れる気がします」
ヴァハルの方から手を引いて、リアンは確かめるように自身の手のひらを閉じたり開いたりした。
その頬は未だ紅い。視線が右へ左へと動いていおり、動揺しているのは明らかだった。
「なるほど。幸せ番生活になるにはほど遠いな」
「それとも頬に一発のパーがお望みですか。そっちの方が痴話喧嘩っぽいですよ」
「僕の番は照れ屋さんらしい」
誰のせいで——、という言葉をリアンは飲み込んだ。
認めてしまうような気がして。
「……うるさいです」
ぽつりと呟いたリアンは、拗ねたように顔を逸らす。けれどその横顔は、先ほどまでとは違って、どこか柔らかい。
ヴァハルはそんな彼女を黙って見つめたまま、微かに口元を綻ばせた。
夜風が、ふたりの間を静かにすり抜けていく。
——その手のひらに、残る温もりの意味を、リアンはすでに知っている。
足元に揺れる草花が、ふたりの影をそっと重ねる。
離れることなく、けれど急ぎすぎることもなく。
確かに、何かが歩き出していた。