第5話 提案と影
夜会はビッグニュースを作り出した。
上へ下へ、てんやわんや。右も左も噂に拍車をかけていた。
「リアン、こちらへ」
そして現在。
花騎士の室内着を纏ったリアンは緊張した面持ちで席についた。彼女の「失礼します」という声に実戦の時のような勇ましさはない。
対面ではなく、促されたのは竜帝の横である。そもそも対なる椅子など置かれていなかった。
「好きな食べ物はどれだい? このタルトは美味しいよ。あぁ、紅茶にシュガーは必要かな」
——誰だ、コイツ。
とっさに出てきた感想はそんな失礼なことだった。
鋭利な美貌をとろけさせ、机に並ぶ宝石のようなデザートを説明する、国のトップ。
リアンは手に取ったカップが震えていないか三度ほど確認したぐらいだ。
そして、今。彼女は目の前にいるが天空の覇者と畏れられる竜帝ヴァハルということを忘れようと現実逃避を始めていた。
ガワだけは貴族の令嬢であり花騎士というのを取り繕っているが、その実、「運命の番……?」という自問自答が脳内でずっと回っていた。
「甘いものだけじゃなくて、軽食もある。ホットサンドにもできるよ」
なんだろう、これは。既視感がある、とリアンは思い返した。
「……餌付け?」
ぽつりと呟いた言葉に室内の動きが止まった。冷酷と恐れられる竜帝の世話をする使用人たち(歴戦の猛者たち)が動揺した歴史的瞬間であった。
同様に、リアンの小さな言葉に対して、ヴァハルも驚いたように目を瞬いた。
「なるほど、これが……習性とは恐ろしいな」
「習性?」
「確かに、餌付けで間違いはない」
「そうですか」
「そうですか、の一言で終わらすな」と同じ部屋で待機していた使用人数名の心が一つになった。
だが彼らの会話に入り込めるわけもなく、黙って初々しいカップルを見守るような、それでいて火山の噴火が起きる前のような緊張感が漂っている。
夜会の次の日の昼。だというのに、もうすでに噂が広がっているためリアンは迂闊に外にも出られず情報も得られていない状況だった。何よりあの一言で貴賓扱いだ。
「ところで竜帝陛下」
「なんだい」
「運命の番、とおっしゃいましたよね」
「あぁ」
「どうやってわかるのですか」
「……言っても信じないか、僕のことを怖く思ってしまうかも。それは僕の本意ではない」
「かまいません」
リアンの大きな瞳に射抜かれて、どうしようもなくヴァハルは「うっ」という顔をした。
言いたくなさそうだ。
そして年相応の青年のような仕草で考え込んだあと、彼は口を開いた。
「簡単に言えば、そうだな……運命の糸だ」
「……!」
「それが僕たちの間にある」
「運命の糸」
「信じがたいだろう」
「いえ、信じます」
リアンは満月の夜にしか見えない。だが竜帝ヴァハルはとんでもない魔力を保有している。常に見えている、という発言はあながち間違いではないだろう。
「信じるのか。驚いた」
「いつも見えているのですか」
「好奇心旺盛だな。そうだ今も見えている。日によって見え方は異なるが」
満月に見える自身の糸と、竜帝ヴァハルが見えている糸は別物かもしれない、と思いながらもリアンは少し嬉しくなった。
それは「自身の見えているものが”真実”である」という確信を得られたからだ。
常に隣国を指し示していたあの長い長い糸を思い出す。次の満月はもう近い。リアンは「運命の相手」とやらを、言い換えるのなら「幸せを願っていた相手」を探す気満々であった。吉と出るか凶と出るかはおいといて。
「一つ、提案がある」
するとヴァハルが真剣な面持ちでリアンを見つめた。茶化せるような雰囲気でもなく、自然と視線が絡み合う。
「なんでしょうか」
運命の番、だとヴァハルが言っているだけでリアンにその自覚はない。
彼のそれをわかっているのだろう。夜会で手を取った時から決して触れはしなかった。
数秒間、ヴァハルは黙った。
「僕は……、」
落ち着かせるような息遣い。
リアンは急かすわけでもなく、何をいうのだろうと純粋な疑問を持って耳を傾けた。
その後ヴァハルの口がゆっくりと開かれる。
「君と幸せ番生活がしたい」
「なんですか。その浮かれトンチキな生活は」
人って支離滅裂なことを言われるともう一度聞き返したくなる生き物なんだな、とリアンは改めて思った。
「もう一度聞いてもいいですか?」という問いかけに返ってきたのも同じ回答である。
「そもそもこれは提案ではなく、願望です。あなたの」
「確かいそうだ」
「本気で言っていますか?」
「本気だ」
「そうですか」
数名の使用人の視線が交わる。「また言ったぞ」と。「そうですか、の一言で終わらすな」と炎に触れようとする子供を止めたくなるような衝動に駆られながらも、使用人たちは黙ってことの成り行きを見守っていた。
リアンとて、もしこれが同じ花騎士であれば「いきなり何言ってんだ」とどついている所である。
「運命の番。僕の半身。どうか——」
研ぎ澄まされた剣のような美貌が、柔らかさのある麗しい顔へと変貌する。これでもかと溶かすように。
「頷いておくれ」
きっと膨大な魔力と権力と強引さがあるから、神話時代の尊き人々は竜帝に「運命の番」なんていう甘い言葉で縛っているのだろうな、と思いリアンは遠い目をした。
「頷くも何も、こちとら既成事実を作られているんですよ」
人前で「運命の番」だなんだと宣い、手を取り、跪いた。既成事実そのものだ。
「やってくれましたね、竜帝陛下。わざとでしょう」
生意気な物言いにヴァハルが笑う。
彼の「すまない」という言葉はイタズラの成功した子供のようだった。
△
薄暗い寝室。
月明かりの下で見える竜帝ヴァハルの相貌に、無意識下で息を殺す者は多い。それは使用人であったり、臣下であったり、暗殺者であったりする。
「——クシュ。いるのだろう」
「なんだバレてたか」
小さな影が風のような身軽さでヴァハルの隣に立った。
「首尾は」
「上々。あちらの王様は話がわかるタイプだ。それにリアンのねーちゃんの名前を出した時も訳知り顔だったぜ」
「そうだな。かの王はのちの歴史家に”賢王”と呼ばれるだろう」
「竜帝様にリアン・アシュランを差し出したから? あっ今はソルティベートか」
「運命の番に理解を示したから、だ」
クシュは「ほらよ」と言いながら紙をヴァハルに渡した。封蝋には隣国の王家の紋章が表現されてる。王から直々の手紙というわけだ。
その内容を見て「なるほど」とヴァハルは呟くだけだった。
「それにしても聞いたぜ〜? 運命の糸、だったけか」
クシュが揶揄うように笑う。「俺、その場にいたら笑っちまっていたかもな」と目を細めた。
ほのかな光のもとで小さな影が不気味に歪む。
「何が言いたい」
「運命の糸? そんな可愛らしいものじゃないだろう、我が王よ。鎖と言え。がんじがらめの、決して解ける代物ではない鎖だと」
「今日はよく喋るな」
クシュはヴァハルの周りをくるくると回りながら、まるで童話を口ずさむような軽やかさで彼の発言を否定した。
「あーあ。リアンのねーちゃんかわいそー。この国に足を踏み入れたばっかりに。隣国にいれば我らが竜帝の目から逃れられたのに」
段々とクシュの姿が変わっていく。
「この国は僕らの目と耳と口がある。囲い込まれてしまうのに。かわいそう」
「お前はどっちの味方なんだ」
「もちろん竜帝様さ。眷属だからな」
得体の知れない獣の影と、人間の形を保ったような影が行ったり来たりしていた。
獰猛な目が光の線を作ってやがて消える。
彼本来の姿は「影」そのものだった。
「アシュラン。逃げ出したアシュラン。可愛いアシュラン。楽しみだ。きっと面白いことが起こる」
「彼女は”宿命の聖女”じゃないぞ」
「知ってるさ。だが三百年ぶりだ。この地にアシュランの血が戻るのは。ただその時は偶然戦乱の世で、迷い込んじまったらしくてお嫁さんじゃなかったんだけどな。俺が生かして元の場所に帰してやった」
「やめろ何度も聞いた」
「そうだったか?」
クシュは眷属だ。眷属といっても行えることはそう多くない。人間の姿をとる、動く、話すぐらいで基本的な性能は平均的な人間そのものだ。
だからこそ彼は見守ることしかできなかった。
「……人間でありながら、竜帝の名を冠する歴代の王たちには争いが絶えなかった。だがヴァハル、あんたは違う」
「何が違う。僕も争ってきた。剣に血が染み込むほどに」
「そうかもな。けどこの平和な世もあんたが作った。屍の上の玉座。上等じゃねぇか。普通のヤツが同じことをすれば血と権力に溺れている」
カラカラと笑う様はいささか人間に似つかわしくない。
一度ヴァハルは「お前は妖精の類か?」と聞いてみたが、適当にはぐらかされた。
牙はあまりないがおそらく「あまり良い部類」ではないのだろう、とそこからは黙っている。
「俺は嬉しいんだよ、ヴァハル。絶好の機会だ」
「まるで悪魔の囁きだな」
「へぇ、良い例えだ」
クシュが、普段の姿に戻る。
「何年も前に攫えなかった舞踏会の初恋が手中にいる。あの時は欲望に流されない幼いお前の美点を汚したくなったよ」
「なんだ。恋のキューピッドにでもなるつもりか」
「それもいいな。だけどとびきり良い情報があと一つある。宿命の聖女なんかに興味のない竜帝様に教えておく」
彼は人畜無害そうな顔でにっこりと笑った。
年相応の幼い顔はヴァハルが初めて会った時よりも随分人間くさい。
「彼女も”運命の糸”とやらが見えるぞ」
「は?」
ヴァハルの驚いた顔は貴重だ。
「なんなら竜帝のお膝元に来たんだ。次の満月が楽しだ」
加えて焦る様子も、眷属になってから見れたのは数度のみ。
クシュは「当分酒の肴に困らないな」と思いながら、追い討ちをかけるように笑いかける。
「せいぜい良い言い訳を考えておくんだな」
今度はケタケタと笑って彼は消え去った。その魔力の跡を見て、ヴァハルはまた「は?」と呟く。掠れた声は夜空へと消えていった。




