第1話 プリマとリアン
月明かりが庭園を照らす。
小指に見えるのは眩んばかりに輝く、長い長い糸。
喜びよりも驚きがまさって、あとを辿った。
低い草木の先につながっているはず——、しかし。
満月が、厚い雲に隠される。
その瞬間フッとたちどころに消えてしまった。
視線の先には誰もいない。
昔読んだ童話の終わりよりもあっけない十五の冬。
婚約者が運命の相手ではない、ただそれだけがわかった。
△
アシュランス伯爵家には花の精がいる。
堕天使の間違いではないだろうか、とリアンは思った。
毒の花かもしれないのに、人は蜜があると盲信する。
「どう? お義姉さま! このドレス素敵じゃない?」
甘ったるく、あどけない声が廊下に響く。
目の前でくるりと回転する少女のはしゃぐ声は「褒めて!」と言わんばかりだ。
こてん、と首を傾げリアンに上目遣いする様子は小動物を想起させる。
「えぇ、素敵よ」
スラスラと心にもない賛辞を口から紡ぎ出す。
その言葉に満足したのか「んふふ、ありがとう」と言って、少女はリアンの横を通り過ぎた。
着飾った姿をそっと見る。金の装飾をあしらった髪留めの下でストロベリーブラウンがふわふわと靡いていた。チェリーピンクの瞳は輝いている。
花の精とうたわれる可愛らしい少女はいつだって、邪気のない笑顔でリアンに微笑む。
「……」
対して自分はどうだろう、と窓を見た。
水を通しただけの艶のないブルーブラックの髪と、暗いネイビーブルーの瞳。
身長は貴族令嬢の誰よりも高い。陰で「あのご令嬢の隣には立ちたくない」と何度か言われたほどに。
鍛錬の後だから着てる服は男物で簡素だ。首にはフリルやレースではなく、タオルがかけてある。丈のあるドレスではなく、動きやすいズボン。
リアン・アシュラン。二十一歳。
行き遅れに片足を突っ込んでいる。長年の婚約者はいるが今まで結婚ができず、ずっと婚約状態が続いていた。
しかし、晴れて結婚ができる。
それもこれも妹のプリマが十五になり、社交界デビューをしたからだ。
「やっと……私は結婚できるのか」
リアンはぽつりと呟いた。
他人事のようだが、誰でもない。自分自身に向けて放った言葉である。
結婚という言葉にじんわりと、体が温かいもので包まれた。
長かった、と幼少の頃を思い出す。
あれは約七年前。
昨日のことのように覚えている。
彼女が十三歳の頃。突如としてソレらはやって来た。
リアンの母であり、屋敷の女主人でもある伯爵夫人が死んで二週間も経っていない、ある暗い朝の日。
父は外に囲っていた愛人と、その子供を、「新しい母」と「妹」として連れ帰って来た。
『はじめまして、お義姉さま! 私はプリマ』
暗い玄関ホールに響き渡る、あの明るく、甘ったるい声。
『騎士見習いのかっこいいお義姉さまと暮らせると聞いて、とっても楽しみにしていましたの!』
リアンはその時はじめて、足元が急にガラガラと崩れ落ちるような気がした。
七歳の幼い女の子は無邪気な様子で貴族の礼をとった。ぎこちないカーテシー。礼儀作法を学んでいる証。
一体いつから? そう父に問いかけようとした言葉をリアンは飲み込んだ。
まだ伯爵邸にある死の悲しみは消えていない。それなのに父は、博打に当たった後のような軽やかさでリアンの目の前に現れた。
『……? お義姉さま?』
『リアン。姉として、これからはプリマによくするように。嬉しいだろう? 私も嬉しいよ。私たちは家族だ、いいね。——さぁプリマ。パパが屋敷を案内しよう』
『きゃっ、パパったらいきなり抱っこはやめて。怖いわ。でも本当に素敵なお家! 今日からここに住めるのね!』
自身の父が外に愛人を囲っているのも、母親が異なる義妹がいることも、リアンは知ったいた。病床にいる母から聞いていたから。
精神的にも苦しかっただろう、愛人の子であるプリマが生まれた時から母は今まで以上にみるみると衰弱していった。
父が、騎士道を重んじる母方の血筋を濃くひいたリアンよりも、愛らしく、花の妖精や天使に例えられるその子のほうが好きなことも知っていた。
いや、わかってしまった。
一緒に暮らせば嫌というほど実感する。
『お嬢様。ご当主様がお呼びです』
悪夢の始まりは学園を卒業し、近衛騎士団に入った十八の秋。
急に父に呼び出されたかと思えば、通されたのは応接室。
プリマの母親も席についていた。十二歳になったプリマは外で元気に草花と触れ合って遊んでいるという。
『リアン、結婚はもうしばらく待ってくれないか』
たったそれだけ。
その一言でそこから三年間、結婚できなかった。
婚約者は三歳年下のハミル・テレンティナ。公爵家の三番目の息子。婿入りの予定だった。
この国では十五歳で成人だ。だからこそ貴族は地盤固めのため、早期での婚約や結婚を行う傾向がある。
『ご冗談でしょう?』
『何度も言わせるな。これは決定事項だ』
『それは当主としての決断ですか。……父としての判断ですか』
その会話を境に足掻いてはみたが、無駄だった。
どんなアプローチも水の泡。押しても引いても、返ってくるのは罵声と嫌味だけ。
『口を開けば何でも自分の意見が通るとでも? 騎士団で何を学んだのだ』
『ふんっ、最近は妙に静かだが、まさか婚約者がいる立場で男でもできたか』
『王宮の近衛騎士になったからといって思い上がるな!』
母の守ってきた伯爵邸から離れたくなかった、というのもある。
何より「プリマのお願い」と彼女の両親の思惑が合致してしまっていたのが長期化を助長させていた。
妹のプリマは「かっこいいお義姉さまに社交界デビューの時に隣にいてほしい」とお願いし、彼女の両親は「不器量で身長の高い義姉を隣において、プリマの華やかな社交界デビューに添えたい」と考えていた。
なんとも失礼なことである。
だが実際。
その策略が功を奏すのだから、笑えたものだ。
つい先日のことだ。プリマは華々しく社交界デビューを果たした。あれから何人もの殿方に求婚されているという。
学園にも入学したが、そこでも人気者だそう。
『全部、ぜーんぶ。お義姉さまのおかげよ……ありがとう!』
一瞬だけ見えた、微かな綻び。
そうか。……そうだったのか。
この子はきっと、はじめから——
よぎった考えを消すために頭を振った。
悟られないよう穏やかにプリマを見た。無邪気で明るく、天使のような笑顔が眩しい。
その裏に隠れる、獰猛で、醜悪な素顔が勝ち誇っているようだった。
「……ここまで長かった」
だが、そんな過去もここまでだ。
母との淡い思い出を抱きながらリアンは未来へと進もうと決心した。
しかし、人生とは上手くいかないものである。
満月の夜、”運命の糸”が全てを変えてしまった。
妹プリマの運命の糸が、姉リアンの婚約者であるハミル・テレンティナと結ばれている、という最悪の形で。