35
「ただいまー」
陽が沈み切る前に到着し、ゆきが玄関を開けると、ほぼ同時にゆきの母が呼び出してきた。
「おかえり、わあいらっしゃいませ」
緩やかな口調とはうらはらに落ち着きない行動にも、目雲は取り乱さずに穏やかに対応する。
「初めまして目雲周弥と申します」
「ゆきの母です、お父さんはきっともうすぐ帰ってくるからね。上がって上がって」
「お邪魔します」
不安通りに早速いない父が、来客を喜ばせようとどこか行っているのだろうとゆきには容易に想像できた。
ゆきは目雲に謝りながら上がるように勧める。
二人が上着を脱ぐとそれをゆきの母がもらい受け、廊下の壁にあるフォールフックに掛ける。
ゆきの実家は一般的な四LDKの二階建ての戸建てだ。
玄関を抜け廊下から扉を開けると明るいリビングがあり、その隣が壁付キッチンダイニングで扉正面のリビングの奥は続きの和室のなっていて仕切り襖をあけ放ってしまうと廊下側の扉からすべてを見渡せる作りになっている。和室の横にリビング階段があり、階段下がパントリーになっていた。ちなみに玄関からの廊下の一番奥が水回りになっていて、キッチンからも行ける家事動線になっている。
この家を建てた時にゆきの母の一階はできるだけ遮るものがない空間にしたいという要望でできた間取りになっていた。
ダイニングテーブルに座っていても和室の様子を見ることができ、リビングでも当然和室もダイニングも見渡せる。カウンターキッチンにしなかったのは、ゆきの母が料理しながら何かに注意を引かれるとケガをしやすいから、できなかったというのが正しい言い方だった。
なので、リビングにやってきた目雲がキッチンに立つはるきの背中を見つけるのはすぐだった。
扉が開く音がしたはるきは振り返ると目雲を見て慌てふためいた。
「わっ、ちょ、ちょ、お姉ちゃん!」
はるきの驚きの理由を何となくわかるゆきは取り立てることもない。
「目雲さん、妹のはるきです」
はるきの様子を気にせずゆきが紹介すると、はるきはダイニングテーブルの脇を抜けてゆきの隣に立った。
「あ、はい、はるきです」
「目雲周弥です」
「あ、こ、こんにちは」
「こんにちは」
それが終わるとゆきの母が二人をリビングの大きな座卓へ促す。が、ゆきだけがはるきに捕まった。
目雲に背を向けて、ゆきと同じくらいの身長のはるきがゆきの耳元にぐっと顔を寄せる。
「ちょっと何、あのカッコいい人」
小声で話すはるきにゆきは驚きの理由が思った通りだったと一人頷いた。はるきはゆきが恋愛の条件で容姿があまり重要でないと知っているので、恋人を連れてくると言われて思い描いていた人はもっと違っていたのだろうと想像できた。
きっと優しいと言ったのをそのまま膨らませた人物像ではないかと推測したのだ。目雲は高い身長もあり初対面では柔和な雰囲気を感じづらいのでその反応もゆきには想定内だ。
「なにって、目雲さんだよ。かっこいいよね」
事実を淡々と告げるように言うとはるきが呆れ顔をした。
「その他人事の感じこそなに? お姉ちゃんの彼氏でしょ?」
「ほらほらお客様の前で内緒話しないの、ごめんなさいね」
姉妹の背後に立った母が振り返って謝ると、目雲は綺麗に姿勢よく正座していて軽く会釈する。
「いえ、お気になさらず」
「しかも感じまで良い、想像以上ね」
もう小声でもなくなったはるきは母ごしに目雲をみて堂々と褒めるとゆきの母が張り切った。
「そうよ、そういう話をこれからじっくり聞きましょう」
渋い顔をしたのははるきだった。
「お母さん、それこそ本人達を前にして言うことじゃないよ。ちょっとずつじわじわ探り探り聞き出すんだよ、こういう時は」
「どっちもどっちだよ」
ゆきが言えばはるきが苦笑いで目雲に向けて頭を下げる。
「すみません」
「いえ、大丈夫ですよ」
目雲は微笑むまではいかないけれど柔らかい雰囲気は伝わる。
「ほらゆきも座って。ごめんねー、お父さん意気込んで買い物に行ってまだ帰って来てないの」
目雲の対角に座ったゆきの母に目雲は改めて挨拶をした。
「こちらこそお招きいただきありがとうございます。こちらお口に合えばいいのですが」
目雲が手土産を渡すと、母は嬉しそうに受け取った。
「まあまあご丁寧に、わざわざ。ゆっくりして行ってね」
「もうすぐ夕ご飯じゃないの?」
目雲の隣りに座りながらゆきが聞くと、さっきキッチンで用意していたお茶をはるきが運んできて正面から目雲の前に置く。
「ありがとうございます」
はるきがお茶を促すように手を動かしながら労う。
「どうぞどうぞ、運転疲れたと思いますから、もうずっと座っててくださいね」
目雲とゆきがお茶に手を付けるのを見ながら、ゆきの母が顎に手をやる。
「夕飯の準備はしてあるからいいんだけど、明日と明後日の分ね。何買ってきてくれるかな」
「お父さんのことだから何か大きいのじゃない?」
はるきもお盆をひざに刺すようにしてそのまま正座で座っている。
「おせちも大きいの頼んじゃった。明日来るのよ」
「本当に大きいの好きだよね、今年だって目雲さん増えるだけなんだからさ」
ゆきの父が一体何を買ってくるかの予想をしばらくしていたが、その夕飯後の話をゆきの母が始めた。
「二階のゆきの部屋に布団準備してあるから、一緒の部屋で良かったよね? そこの和室でも良かったんだけど、ゆっくり眠れないかもしれないと思って」
「僕はどこでも眠れますので、ゆきさんが良いところで大丈夫です」
目雲が答えた後ゆきが思案する。
「うーん、確かに一階の和室だと夜遅くまで騒がしいのは間違いないので、目雲さんは二階で寝てください。私はどこでも眠れますから」
別部屋にしようとしてると悟った目雲がつい聞いてしまう。
「嫌ですか?」
「いえいえ、そんなことはないです。誰か一緒でも眠れますか?」
目雲が睡眠をとても大切にしているというのがゆきの認識だ。その邪魔をしたくないからこそ、今まで絶対に夕飯後は帰るようにしていた。
「僕は大丈夫です」
そんな二人の会話を聞いているはるきが不審げな顔をする。
「二人は本当に付き合ってるんだよね?」
「はい」
目雲が返事をするとゆきも頷く。
「うん」
「なんか話し方も余所余所しいし、付き合ってもう三カ月くらいなるのに一緒の部屋に泊まるくらいで。お互い一人暮らしなんだし、お泊りくらいあるでしょ?」
ゆきはしみじみと感慨深さに浸る。
「はるきは大人だねぇ、もう少しで結婚するんだもんね」
「いや、お姉ちゃんが子供過ぎなんじゃん。まさかないの?」
「ないですね、そういえば」
ゆきが目雲を見ると、目雲も頷く。
「ありません」
急に何かを察したはるきが、よそよそしく話し始める。
「え、うん。ごめんなさい、来てもらっていきなり聞く話ではないですね。とりあえず、同じ部屋でいいじゃないでしょうか、ゆっくり話し合いをしてください」
「話し合い?」
ゆきは目雲と実家で話し合わなければならないことがすぐには思い浮かばず小首を傾げたが、目雲の方はすぐに理解した。
「ご実家で何かするようなことはありませんから大丈夫ですよ」
そのセリフでゆきにもピンときた。
「あ、そういう話し合いですか?」
特に恥ずかし気もない様子にはるきの方が慌てる。
「だ、か、ら。お姉ちゃん二階でしてね。目雲さんが気まずいでしょ! お母さんだっているんだからさ」
「私のことは気にしないでいいのよ」
ほほほと笑う母にはるきは突っ込む。
「そういう問題じゃないから」
「じゃあとりあえず荷物だけ持って行こうかな」
はるきがどうにも居た堪れなさそうなことを感じて、ゆきは自分事なのに助け舟を出した。
そして激しく同意したはるきに追い立てられるように目雲と二人荷物を持って二階に行く。
「エアコンはついてるからねー」
階段下からの母の声にゆきが二階からお礼を返した。
僅かにひんやりとした廊下からゆきが普段通り扉を開けると温かい空気が二人を迎え、明かりを点ける。
ゆきの部屋と言っても、すでに客間の様になっていて家具はほとんどない。唯一壁一面が本棚になっていてそこにぎっしりと本が詰め込まれている。
「ゆきさんのコレクションですか?」
目雲が本棚の前に立ちそれを眺める。
「お気に入りですね、これでもかなり整頓した方といいますか、定期的に読み返す本たちなので減りようもないんですけど」
布団は見当たらず、フローリングが広がった殺風景な部屋だ。ゆきが荷物を部屋の端に置きクローゼット開けると、いつもは圧縮袋に仕舞われている布団がふっくらとした状態で二組仕舞われていた。
「さっきの話なんですが」
一先ずそのままクローゼットを閉めたゆきに、荷物を置いた目雲が話しかけた。
「話し合いですね」
振り返りゆきは目雲の前に立ち、普段通り顔を見上げる。
こういう話も恥ずかしそうにしないゆきを掴み切れないままに目雲は話をする。
「僕としては、ゆっくりでいいのではないかという考えです」
付き合いだしてから外で会うことがほとんどで、目雲の部屋に行ったのも数えるほど。その時も宮前と飲む時だったので宮前が帰るタイミングでゆきも一緒に部屋を出ていて、そういうムードになったことがなかった。ゆきの部屋にも宮前と本棚を作りに来た一回だけなので同様だ。
そもそも週一会うか会わないかで、それも丸一日一緒にいることもほとんどなく、目雲の仕事があったりゆきが体調を気遣って土日のどちらかの夕飯だけをどこかに食べに行くという週末も多かった。
ゆきとしても何も急く必要がなく、そもそも会えるようになっただけで十分すぎるほど幸せな時期を未だに過ごしているのだから、もっと深い仲になろうとなどまだ至っていなかった。
「私も強い衝動を抱えているわけではないのでそれで問題ないですよ」
とてもあっさりとしているゆきに、目雲がある懸念を確認する。
「別に複雑な事情があるからではないです」
ゆきの教養の深さを理解している目雲は、自分の何かを思って情事を遠ざけていて、ゆきの方が気を使っているのかもしれないとも考えていた。
ただゆきはその目雲の多分に含みのある言い方にはっきりと返事をできなかった。
「複雑な事情、ですか」
目雲はゆきを座るように誘い、目線が近くなるとそれを告げた。
「いろいろ体のことで問題を抱えていることはゆきさんも知るところですが、夜の生活については何も支障がないということです」
これでゆきには目雲の言いたいことが明瞭になった。
男性機能に異常があるのではないかとゆきが考えてではないかと目雲が心配しているのだと分かり、思わぬ視点だったと膝を打ちそうだった。
「あ、それで私が何か遠慮しているという可能性を示唆してますか?」
「少し」
「うーん、知識として自律神経に強い乱れが生じると、性的機能に減退がみられることは知っています。相談されれば考えますが、それを目雲さんに当てはめていることは今のところありません。それ以外でも何かあるのかと深読みしてることもありませんよ」
それどころか、まだまだ顔を見られるだけで浮かれていて、今以上に一緒にいる時間を増やそうとすら思っていなかったのだから、逆に申し訳なくすらなってきていた。
目雲は一応疑念はなくなったと頷く。
「そうなんですね」
そもそも二人は今も手を繋いだことすらほとんどない進展具合だった。
ゆきは今回のことも実家だし、目雲なら実家で何かするようなことはないだろうと、勝手に思い込んでいたため特に夜どうするかなんて考えるどころか、できるだけゆっくり眠れる環境を作る方にばかり気を取られていた。
「その、思い悩ませてましたか?」
余りに素振りがないのは良くなかったなと反省し始めたゆきを察知し、目雲の方が慌てた。
「悩んではいません、大丈夫です。最初にしたキスが同意を伴なわものだったので慎重になってはいますがそれは自業自得ですから」
言われてゆきは思い出す。
「お別れのキスですね」
「すみません」
ゆきはあの時のことを勿論忘れてはいなかったが、それを変に考えることもしていない。あの意味を聞き出すつもりもない。
けれど、目雲の方がそれを気にしてゆきに違和感を覚えているなら払拭しなければならないとは思った。
「私から何か拒絶のようなものは感じていますか?」
「消極的なパターンは想定しています」
ゆきの行動に何か感じるものがあったわけではなく、目雲が伺ってくれていたのだとゆきは悟る。
「奔放というわけでもないので行動的でもなくて、でもそこも知識だけは豊富なので仕掛けた方がいいならいろいろ試みますよ?」
ゆきの読書は本当に雑食なので様々な艶やかな本も含まれるし、翻訳をする作品に閨事のシーンもあったりで、やろうと思いさえすれば実行できることはいくらでもあった。
目雲はそのことに驚きもしなかったが、柔らかく首を横に振った。
「いえ、できればその主導権は僕に譲ってもらえると助かります。正直、ゆきさんがさっき言っていた衝動というものを僕が抑えている瞬間もあるので、ゆきさんからアクションを起こされると留められません」
そんな雰囲気微塵も感じたことがなかったゆきは自分の鈍感さも呆れながら、目雲の方に感心した。
「隠すのが上手です」
「悟られないようにわざとしてます。これはゆきさんとは勢いではない付き合いがしたいという僕の我儘からです」
勢いでないというのはゆきも意識こそしていないが、自然にそうなっていた。
「なんとなく、ちょっと分かります。私もここのところ毎日が楽しくて充実しているので、焦燥感もなくて、あえて文字通りの触れ合いを避けようとしてるわけでもなくて、本当にただ焦ってないだけと言いますか」
自分の本心が伝わるようにとゆきも言葉を重ねると、目雲も納得して頷いた。
「これまで通り、僕たちのペースで進みましょう。歯止めが利かない日々が将来的にきますから」
「わぁーお」
至って真面目な目雲に敢えて茶化すように言えば、目雲が微笑む。
「一緒の部屋で眠るのはゆきさん的には大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ、目雲さんはどうですか?」
「僕もきちんと自制できます、まだ」
目雲の言い方にゆきが笑った。
「ではとりあえず何もなくただ同じ部屋でゆっくり眠りましょう」