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ゆきの方もひろ子のキャンプへの意気込みともてなしの気持ちは十分すぎるくらい感じ取れていた。
「いろいろ考えてもらってありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。私もね、誰でも彼でもキャンプしたらいいとかは思ってるわけじゃないのよ、そういうの苦手な人がいることも分かってる。目雲だって今迄は冗談で言ったりはしても本当に誘おうとは思ってなかったし。でも私たちが仕事復帰したら目雲はなんか雰囲気柔らかくなった気がしてさ、でもまた最近なんか前とも違う雰囲気で仕事こなしてるって感じだったから、ちょっと心配になったと言うか、息抜きさせた方がいいのかもしれないと思っちゃって」
朋一に続き、ひろ子も目雲のことを気に掛けてくれていたのだとゆきは安堵の息を吐く。
「そうなんですね」
建築事務所の人が増えて負担が減ったことで雰囲気の変化も出てきたのだろうと安心した半面、自分とのことを気に掛けて職場でも暗くなってしまっていたなら申し訳ないと、つい悲しげな顔になってしまったゆきに、ひろ子が不可思議そうに言葉を続ける。
「でもさー、急にお昼のお弁当とか自作し始めてるから、ちょっとよく分からないのよね。ゆきちゃんが何か言ったわけじゃないでしょ?」
全く何も心当たりのないゆきも一緒に首を捻る。
「お弁当ですか? 何も言ってないと思います、料理も趣味ではないと言っていたので私も何故なのかは分からないです」
「仕事だけ人間だったのが、ゆきちゃんと出会って何か変わってより謎が増えたってことね」
「謎なんですね」
ゆきはクスクス笑った。
それをみてひろ子の興味はさらに深まる。
「ゆきちゃん、目雲といて楽しい?」
「楽しいですよ」
「あいつ普段何話すの?」
ほとんど職場での目雲しか知らないひろ子からしたら、それ以外の目雲が想像できなかった。職場の飲み会でも目雲の様子が変わったこともなく、働いている姿のままのプライベートではひろ子には面白みを見いだせない。
ゆきは聞かれて改めて近頃の会話の内容を反芻してみる。
「なんでしょう、最近は車の話が多いでしょうか」
ゆきにも気に入られる車を探しているが故に、会う理由がそれになっているから話題に上ることは当たり前になっている。
ひろ子も目雲が車の購入検討していることは知っているから、その点疑問はないがそれでは親密度は測れないと思い、更に求める。
「他には?」
「天気と、気候と、体調と」
「誰とでもするような話ね」
ひろ子は初対面同士の話を聞いているような気分になっていた。
ゆきも思い返せば納得する。
「そうですね」
「喧嘩とか?」
ゆきは目雲との喧嘩は一体どんなの物になるのだろうかと想像してみた。
「そんな雰囲気にもなったことも今のところなくて。まだ付き合ったばっかりなので今後は分からないですが、たぶん喧嘩にしてもらえない気がします。諭されるとか」
「うわっ、想像できるところが怖いわ」
ひろ子も想像できるのだとゆきも笑う。そしてふと一般的にはどうなのだろうかと気になった。
「瀬戸口さんとは喧嘩なさるんですか?」
「目雲いないし、朋でいいよ」
目雲が敢えてゆきに苗字で呼ばせているわけを聞いていたひろ子が許可をくれるから、言い直す。
「朋一さんとは?」
「朋とはしょっちゅうよ、一緒に暮らしてるとどうしても気になることばっかりで」
「家事とかですか?」
よく目にする話が真実そうであるのかゆきが尋ねると、ひろ子は重いため息を吐いた。
「家事なんてホント、喧嘩の種にしかならないわ。やってあっても、やってなくても。うちはどっちもそれぞれ些細なこだわりみたいなのがあるのよね。分担してるからこそね、小さなことだから守ってもらわないと逆にイライラするのよ」
「些細だからこそなんですね」
ゆきはまだ実感は伴わないがあちこちで目や耳にする話だから本当なのだと頷いた。
一方ひろ子は、思い出すだけで草臥れたように声が沈む。
「そう、お風呂の洗い方とか、ごみのまとめ方とか、そんなことよ。この前なんか洗濯機の埃取るの忘れて怒られたり、油物の食器重ねられて怒ったり」
ゆきは聞いていてそれはもう恋愛の範疇の話ではないのだと理解した。
「生活してる感じですね」
「そうよね、それが生活なのよね」
二人だけの生活でもそうなのに、ひろ子と朋一にはまだ幼い子がいるのだと、ゆきも想像だけでその苦労が忍ばれた。
「さらにお子さんいると大変ですよね」
「まあね、でも自分で選んだ道だから」
ひろ子が納得しているという顔でも疲労が見えるのがゆきも分かった。けれど、だからこそ、ゆきはそのことには触れず明るく笑った。
「しんちゃん可愛いですもんね、ちょっと一緒にいただけの私でもメロメロです」
ゆきはきっと何も知らない会ったばかりの同性にどう慰められても励まされても、ひろ子には不必要なものだ思い、だから選んだ結果の愛らしい存在だけに重きを置いた。
その言葉にスイッチが入ったらしいひろ子は目を輝かせた。
「そうなの! そうなの! めっちゃ可愛いの! もう本当にあのほっぺ、むっちむちの、腕も足も、ぜーんぶ可愛いでしょ!」
「可愛いです!」
そこはもうお世辞でも何でもなくゆきも激しく同意した。
けれど、ひろ子のテンションはそれを維持しなかった。
「でもね、だからね」
ひろ子の少し先ほどとはまた違う沈んだ様子に気がかりを覚えるゆきはそのままを口にした。
「何か心配事でもあるんですか?」
「しんちゃんには何にもないよ、今のところ健康に大きくなってくれてるから、本当に感謝してる」
「じゃあ朋一さんに何か?」
「ううん、あるのは私」
ゆきが話題を逸らしたことでひろ子は逆に話せてしまえる気持ちが芽生えていた。
「ひろ子さん?」
「子供はめっちゃ可愛いの! 可愛いのよ! でも、だからね、なんで保育園預けて仕事してるんだろうって思う日もあるし、でも仕事もね、やっぱり楽しいの。だから仕事に影響が出た時にどうしてって思う日もあるの」
「簡単に割り切れないんですね」
ひろ子は更に手元の缶をぎゅっと握り、じっと見つめた。
「それにね、子供って思ってたより命の危険が近いのよ。病気はもちろんだけど、本当に何でも口に入れるし、高い所に登ろうとしたり、頭から転んだり、ご飯だってアレルギーも心配だしのどに詰まらせないかって、もう寝てるだけでも呼吸が止まったらどうしようって、私もうこんなに心配ばっかりするんだって一時期怖くて怖くて仕方なくて、それでね朋がね、入れ違いで育休入るはずだったに、私が精神的に参っちゃったから同じ時期に休み取ってくれて。私も予定より育休が長くなって、それで目雲にも迷惑かけちゃったんだけど」
本の中では知っていることだったが、実体験を伴った言葉でゆきにその重たさを更に感じさせた。
「そうだったんですね」
「今はもう肝が据わったというか、少し前まで私が気負い過ぎてたっていうか、結局完璧にやらなくちゃってどこかで思ってた気がする」
「人を育てるんだって思ったら、そうなるのも仕方ないですよ」
あまりに重たくなったと感じたのかひろ子は苦い笑いを見せた。
「ごめんね、結婚もまだなのにこんな話」
ゆきは首を振った。
「今日会ったばかりの私にそんな話してくれて、とても貴重なお話です」
「ゆきちゃんはなんか話しやすい雰囲気醸してるよね」
「醸しているのがそんな雰囲気で安心しました」
その言い回しが面白かったひろ子は声を出して笑った。
「ゆきちゃんの風貌で狂気がにじみ出てたら、すごく怖いって」
お互い一瞬想像してゆきとひろ子は笑い合った。
ひろ子が自分の印象を思い出して、肩をすくめる。
「私はさ、なんかしっかりしてるとか、気が強そうってよく言われるわ」
ゆきは今日のひろ子しか知らないので、晋太郎を温かく世話して爛々とバーベキューの準備をして楽しんでいる様子からは、そう見えなかったので素直にそれを口にした。
「今日は陽気なママさんな印象ですけど、職場や普段はまた違うんですね」
ひろ子は初めての評価に目から鱗が落ちたようで、ゆきを感嘆の表情で見つめた。
「そうか、この格好だし、ゆきちゃんにはそう見えるのか」
ひろ子の驚きにゆきも驚いてしまう。
お団子にまとめた髪と思いっきりアウトドアを楽しむこと全振りの服装がとてもよく似合っていたので、そういう以外の印象を抱くのが難しかったゆきは目を瞬かせて頷いた。
「はい」
そうかそうかとどこか嬉しそうなひろ子は、ぐーっと伸びをしてから大きく息を吐いて脱力した。
「私さ、ずっとさ一心不乱ていうと良い感じに聞こえるけどさ、そんな感じで生きてきたんだよね。歳重ねると余計に気も張ってる暮らししてたし、なんか意地になっちゃって。子供のこともさ産む前は効率的にやればできるとか思ってたから、手を抜く方法とかすごく調べたし、実行もしたのね。完璧じゃない完璧を、そういう上手くやれるっていうことを示さないとってさ。けどね、育児って効率とは真逆なのよ。イレギュラーしかないの。そんなこと今まで生きてきてなかったの」
「堅実に生きてこられたんですね」
「どうなんだろ、自分の事だけしか考えてなかったのかも」
とてもそんな言動は見受けれられないゆきは俄かに信じられなかった。
少しの時間一緒にいただけでも、細かい気配りができて、それが目雲に負けず劣らずで、そんな人が二人も言えれば至れり尽くせりだったことは言うまでもない。
そんなことができる人が周りが見えないなんてことはないとゆきには確信を持っている。
「そんな風には思わないですよ」
ひろ子は肩をすくめながら首を振る。
「そんなんだから何でも思い通りにできたのよ」
その凄さがどうやらひろ子には自覚がないように映ったゆきは、まるで我儘だったとでも言いたそうなひろ子につい、その想いを伝えたくなった。
「思い通りにするって簡単じゃないですよ。まず何かしたいって思いつかないといけないですし、そこからつまずく人も多いですよ」
「そう? そんなことある?」
「ありますよ、夢がないとか何がしたいか分からないっていう話聞いたことないですか?」
「あるような、気もする」
ゆき自身も夢というものはあまり持ち合わせてこなかったので、欲望のままに読み漁った本たちから引っ張ってくる。
「青春小説の登場人物にもよくいるので、共感性が高いんだと思います」
「そっか」
「次に思ったことを実現するための構想を正しく描けなければいけません」
これは実体験がゆきにもあった。夢のためではなく生活を円滑に送るための手段習得だったが、より的確に行動するためにはまずその想像が大切だと身をもって学んでいた。
そしてそれはひろ子もすぐに納得してくれた。
「うん、そうね」
「そしてそれを確実に実行する」
「実行する、難しいこと?」
ここがひろ子には実感がなかったのだと、ゆきは詳しく説明する。
「難しいですよ、やってみるって考えるだけでできない人もいます。それにやってみると思ってたのと違うことがあると思うんです、それを想定内として修正できるから、自分で思ってる通りになっていると思えるんです」
ゆきの言葉でひろ子も忘れていたことを思い出していた。
子どもができるまでは、すっかり仕事にも慣れ、人生にもある程度経験を積んでいたので生活で目新しいことはそれほどなくなっていた。朋一との恋愛で考えることは多くなったが、それも若さだけの恋とは全く違い打算も暮らしもと、感情以外の現実を踏まえることは当たり前になっていたから、それに違和感もなかった。
ただそう出来るようになったのは、それまでに様々な経験をしてきたからだと思い出したのだ。
「イレギュラーも想定内か。言われてみれば、私もいっぱい躓いたりしてたわ、そうなってもどうにかしてきたから、なりたいものになれたんだった」
目雲と同様建築士のひろ子は、それを間違いなく自分の努力で選び築いて来ていた。
ゆきがそのことを知る由もないが、自分の想い通りに生きるというのは案外難しいと実感ではないが知っている。それを疑いなく思えるひろ子が如何にしてそう言えるようになったのかは想像できた。
そしてそのひろ子がその経験で補えない存在に困惑していることも同時に僅かにだが理解することもできた。
「子育て経験のない私には何も言えないですけど、自分とは違う意識持っている人の命を守りながら育てていかないといけないって、すごいことだって思います」
ひろ子は今までの誰のアドバイスとも違うその言い方に意識が向く。
「自分と違う意識?」
「一緒だったら楽だなって昔思ったことがあって」
「何、男関係?」
予想だにしない角度からの話題にひろ子はゆきもよりプライベートなこと話してくれているのだと感じていた。
「そんなところです」
笑うゆきにひろ子は突っ込んでも良いのだと感じ取ってさらに言葉を重ねる。
「その男と同じだったら良かったのにって?」
ひろ子が抱いたゆきのイメージとはかけ離れている重い考えに疑問が募る。
「全部がってわけじゃないですけど、一緒だったら危ないと思うこともそれを回避することも当たり前にすると思うんです」
どこか遠くを見ているようなゆきにひろ子は苦笑する。
「どんな男と付き合ってたの」
ひろ子がイメージしている人間と本人との乖離があるとゆきも笑う。
「危ない人ではないですよ、普通の人です」
「普通の人の命の心配する?」
その普通の人を思い出して、ゆきは複雑な笑みを浮かべる。
「心配しなかったら良かったんですけど。私も普通の人なので心配してました」
「ホント、どんな男よ」
ひろ子には全く想像ができない。
「ただの大学生でしたよ、ちょっと冒険好きの」
「その冒険が危ないことだったの?」
「ちょっと」
ひろ子が身を乗り出して、声を潜める。
「犯罪系?」
青少年が陥りそうな危ない冒険を想像したのだと、ゆきは笑いながら首を振る。
「それは流石に。文字通りの冒険です」
「トレジャーハンターでもしてたの?」
映画の中くらいでしか聞かない職業を思い出し、ひろ子が目を丸くする。
「似たようなものですね、世界中を巡るのが大好きで本当にいろんなところに行くんです」
「そんな人いるのね」
「世界にはいろんな人がいるものです」
それにはひろ子も大いに納得できた。
「確かにね、私と結婚したいなんて言う人がいるくらいだもの」
「それは朋一さんが物珍しい人みたいです」
どこをどうみてもゆきにはひろ子が素敵な人にしか見えず、朋一だけがそれに気が付いたとは思えなかったが、ひろ子はゆきの言葉を肯定する。
「珍しいと思うわ、奇特な人もいたものよ」
ひろ子を好きになることを奇特だとするのを朋一が是とするかどうか、ゆきには頷きようがなかった。
「朋一さんが聞いて喜ぶのかどうか私には判断が難しいところですね」
「喜びそうよ」
「そうなんですね」
ゆきが笑う。
ひろ子は屈託なく笑ってくれるゆきの、それだけでない側面を教えてもらえただけで、不思議と自分に自信を持つことができた。
「でもそっか、意識が違う人間か。私は逆にそれをはっきり分かってる方が良いって気がしてきたわ。自分の子供だからって一心同体じゃない、だから先回りして心配し過ぎないことが大事ね」
ゆきの話でひろ子は新たな視点を得て、最近自我が芽生え始めている息子につい過保護になりそうになる自分を律して奮い立たせた。
ひろ子はまた思いっきり伸びをした。今度は満足を体行き渡らせるためだ。
「はぁーーーぁ、久しぶりに話したって感じ」
「そうなんですか?」
「仕事では話すわよ、だから大人と話すっていう欲求は解消されたんだけど。家帰っても育児と仕事の話だし、実家とかでも結局育児と仕事の話になっちゃうし。友達ともお互い忙しくて会ってないけど、きっとそうなるわ。もう育児と仕事の話しかしないの、それしかできなくなっちゃってるの」
「お忙しいんですね」
育児だけに追われている時よりもひろ子としては上手く息抜きも切り替えもできていると実感はあったが、それでも無限ループにはまり込んでいるような感覚に捕らわれることもあった。
「十分なはずなんだけど、なんでだかモヤモヤしちゃうのよ。だから大好きなキャンプしたかったし、みんなでわいわいさ、無駄話したかったの。それがないと私ダメみたい」
人は多面的である方が豊かであるのだろうとゆきも理解できた。
「キャンプでもなくて大人数でもなかったですけど、気晴らしくらいにはなりましたか?」
「もう、最高! いっぱい食べたし飲んだし、女子トークもできたし」
女子トークができていたかはゆきには分からなかったが、ひろ子が少しでも息抜きできたならば、嬉しかった。
「良かったです、私も楽しかったです」
「またやろ! いい?」
「はい、ぜひ」
楽しかった気持ちが伝わるように笑顔で頷いた。
「よし、じゃあ今日はそろそろ片付けて帰ろう。しんちゃんもそろそろお昼寝から起さないと、夜寝なくなっちゃう」
「それは大変です、行きましょう」
夜寝ない子供の大変さを本の中でしか知らないゆきの方が慌てて立ち上がって、ひろ子を笑わせた。