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恋。となり、となり、隣。  作者: 雉虎 悠雨
第一章 隣の部屋に住む人は
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 宮前と定食屋で話した数日後、ゆきは自分が卒業した大学に来ていた。

 自分が所属していたゼミの研究室にノックして入ると、いつ来ても雑多な室内でチノパンとポロシャツ姿で座っていた同期が笑顔で迎えた。


「おう、ゆき」


 そう片手を上げた堺晃夫さかいあきおはゆきの大学の同期で、今はその大学で助手として働いている。研究室で一人パソコンに向かっていて、ゆきの姿を見るといろんなものを跨ぐように近くにやってきた。


 ゆきと同い年なのにすでにやや草臥れた雰囲気を醸しながらも、以前からの好青年然とした佇まいは失われていない。


「こんにちは、あきくん。あれ、浅田教授は?」


 部屋の中に他に人影ないことにゆきは首を傾げる。いつも研究室で教授は資料などいろんなものに埋もれているので、部屋に入っただけでは不在に気が付けなかった。


「言わずもがなだろ、お散歩」


 この研究室のゼミ生がいう教授のお散歩は、本来の散歩の意味ではなく散歩くらいのノリでフィールドワークに出てしまうことからその揶揄も込められた、隠語のようなものだ。


「今日帰ってこない?」

「だろうな。でも心配するな。ちゃんといろいろ預かってる。教授が頼みたい仕事もゆきが必要な資料も準備万端だ」


 室内を見まわす堺につられてゆきも見るが、果たしてそのセリフが真実かどうか物が多すぎて分からなかった。


 ゆきが翻訳の仕事をするきっかけになった浅田類士あさだるいじ教授は研究者としては一流であるが、教育者としては少し欠けていて、それでいてとても生徒に愛される存在だった。


 柔和な雰囲気に絶やさない笑顔は世界中を回る中で身につけた対人スキルらしく、本質はもっとギラギラした人だ。探求心が強く、インスピレーションや勘を行動原理にしている。


 そのため生徒の指導は生徒自身の自主性が物を言うスタイルになっていた。聞かれたことには丹念に答え、ディスカッションも活発に行う。それも生徒側のアクションがあることが前提なので、何もしない学生には何もしない、放任主義とも言えた。

 ただ不思議と浅田教授のもとに来る生徒は、熱心であったり目的が明確にあったり、それぞれが意欲的なことが多かった。その中でゆきは淡々と課題をこなすだけの生徒だったのだが、傍から見れば相当な本の虫だとゼミ内で有名だった。


 浅田教授が学部担当の一人でもあったので、二年生から正式に分けられるゼミ生でなくとも、許可があれば研究室に入ることができたので、ゆきは入学当初からゼミ室や研究室にあるすべての書籍、文献、資料、あらゆるものを入り浸って読んでいた。


 その当時教授と話すことは、読んだものの中で疑問に思ったことの解答が載っている文献や、ゆきがその時に興味のある内容が載っている本はどこにありますかという図書館司書に聞くようなことだった。

 そんなゆきに浅田教授は図書館に書籍の購入申請をしてくれたり、教授自身もいろいろと用意してくれた。そのうちゆきも読むだけでは解消しない疑問を教授と話すようになり、さらに教授は各地を巡ったいろいろな話もゆきに聞かせてくれるようになった。


「会いたかったのにな、教授に」


 ゆきがここに来るといつもそうしているように、一応応接用にと置かれている半分物置きのソファーに腰掛ける。堺もその向かいの同じような椅子に座るとゆきの様子に首を傾げた。


 卒業後も浅田はゆきにいろいろと翻訳関係の仕事を手伝わせていたし、その流れで浅田に資料を集めてもらわなければならない仕事がゆきに直接来ることもあった。だから未だにゆきは定期的に大学に顔を出していた。


「なんだ、何かあったのか?」


 普通にしているはずだが、定期的に会う相手には違和感を抱かせる根拠がゆきには自覚がなく対処できていなかった。


「あったと言うのか、無かったというか、失くしたというか」


 悟られないだろうと濁した言い方をしたゆきに堺はにやりと笑った。


「分かった、失恋したんだろ」


 ピンときたというよりはからかう雰囲気を正しくゆきは感じと取ったが、敢えて不機嫌に見えるように目を細める。


「……あたり」


 恨めしそうな表情なゆきに堺は心底驚いた。


「マジで? 冗談のつもりだったのに」


 少し堺をじっとりと睨んだ後、ゆきは苦笑した。


「すごく落ち込んでるわけじゃないんだけど、教授の顔見てほんわかしたかったな」


 堺とは気楽な関係だからこそ、ゆきが本気で怒っているわけでもないことも、堺がどこかで心配しているのも分かり合っている。

 だからこそ重くならない雰囲気で過ごせると、ゆきは誤魔化さずに本当のことを冗談に乗って言えたのだ。


「あの人の本性知っててほんわかできるゆきは相変わらずだな」


 堺もあえて深刻には返さず、からかうように笑いそれが慰めになる。


「突拍子がないのはいつものことだからね。それも面白いところだよ。そういう話聞くのも楽しいのに、仕方がない次に来た時を期待しましょう」


 さあ仕事の話をしようとゆきが自分のカバンを開こうとすると、堺は待ったをかけた。


「なあ、時間あるなら一緒にランチどうだ」

「仕事の話はしないの?」


 ゆきが聞いている間にも椅子に掛けてあったジャケットを着始めた堺はにこやかに笑う。


「戻ってからでもいいだろ」


 元気づけようとしてくれているのも分かるゆきはその気持ちを有難く受け取ることにした。


「時間あるからいいけどね。じゃあ久しぶりに学食行こうよ」


 ゆきも立ち上がりカバンを肩に通しながら期待の提案をするも、堺は首を振る。


「いや、今日はインドカレーだ!」

「えぇー、カレーも好きだけど、学食は?」

「俺には学食は日常だから今日はカレー。近くに本格な良いところ見つけたんだよ。インドだけじゃなくて東南アジアのカレーをそれぞれの国の人が作ってるんだ。日によって作る人が違うからどの国のが食べれるかは行ってからのお楽しみ。学食は今度来た時に教授に奢ってもらえ」


 二人でゼミ室を出て廊下を歩く。


「分かったよ、そんなの聞いたら食べたくなっちゃった」

「な? ついでにいろいろ話聞かせろよ」

「まだ傷が新鮮過ぎるから失った恋の話以外なら」


 一応忠告すれば、堺は心得ているとばかりに頷く。


「じゃあカレー談義だな」

「他の近況はないの?」

「あるある。とりあえず店に行こうぜ。この時間ならまだ空いてるから」


 二人で外に出ると結局、まだまだ暑い日も多いからカレー日和だ、と始まって、カレー談義になってしまっていた。少し早い昼食中もそれは続き、近況報告は大学へ戻る道でお互いの知り合いがみんな元気にやっているという話くらいで、外出中はもうほぼカレーの話しかしなかった。


「カレーの話しに来たんじゃないんだけどな」


 研究室に戻ってきたゆきが首を捻りながらソファーにカバンを置く横で、堺が書籍や資料や書類あらゆるものをかき分けている。


「カレーは奥が深いからな」

「美味しかったから仕方ないか。よし今度こそ仕事の話をしてください」


 ゆきはカバンから必要な物を取り出し、堺も整頓の傍ら必要な物を探し出せたのか、封筒とファイルを掲げた。


「まかせろ。また行こうな」


 ニカリと笑う堺に親指を立ててゆきはわざとニヒルに笑う。


「それは賛成」


 二人はようやくカレーから離れ、いろんなものが山積みになっているテーブルで、真面目に仕事の話を進めた。


 必要な打ち合わせが終わり、帰り際ゆきが荷物を整えていると堺が改まった様子でゆきの近くに立った。


「失恋したてのゆきに言うのも、なんだけどさ」

「その言い方でもう分かる。真里亜と結婚かな?」


 真里亜は二人の一つ後輩で、大学時代から堺が付き合っている相手だった。

 ゆきが確信を持ってからかうように言うと、堺は照れ笑う。


「正解」

「おめでとう! よかった!」


 ゆきは自分事の様に嬉しかった。


「うん、俺らの切っ掛け作ってくれたのゆきと達治たつじだし」


 達治という名前にゆきは動揺もなく微笑む。失恋したと分かっていてその名前を敢えて出すくらいには、ゆきがその当時をしっかりと思い出にできていると信用してくれているようでこそばゆく嬉しくもあった。


「毎回言うけど私はそこまで何もしてないよ」

「達治の暴走とめてくれただろ」


 その時のことを思い出して、ゆきは深く頷いた。


「それは否定できない」

「あいつだけだったら、どうなってたか分らんぞ、マジで」


 そうかもしれないと思いながらも、ゆきはそれだけじゃないと太鼓判を押す。


「なるようになってたよ、大丈夫。二人はとってもお似合いだから」

「ありがとう。真里亜の話も聞いてやってくれ。俺が先に伝えるからって今日まで黙っててもらったから、喋りたがってる」

「わざわざ会ったときに伝えようとしてくれたの? あきくんはそういうところ律儀だよね」

「そう、大事なところだけはな、きっちりしときたいんだ」

「そうだね、ありがとう」


 少しだけ気持ちに温かさを貰ったゆきは、仕事にさらにやる気を燃やして家に帰った。




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