第62話:しかさんはるなでんかなのであんぜんです!
鹿である。
ルナ王女の侍女であるハンナの持つランプに照らされ、立派な角の生えた一頭の茶色い毛の鹿が、大きな天蓋付きのベッドに横たわっているのが見えた。
目は閉じていて呼吸は一定。眠りについているのがわかる。
「しかさんだー!」
マメーは目を輝かせてベッドの上にぴょんと飛び乗り、その首に抱きついた。
鹿はもぞもぞと身をよじり、だが目を覚ますことはなく頭を枕の上に落とした。
師匠はマメーをたしなめる。
「これ。マメー、動物に飛び付くんじゃあない」
「でもこれルナでんかでしょ?」
野生動物に飛びつくような真似は非常に危険である。マメーも農村に生まれ、森に育っているのだ。それが分からないような子ではない。
ただ、師匠の使い魔の狼やら猫やらの動物には良く飛び付いているので、安全かどうかをなんとなく判断しているのだろう。
今回だってまだルナ王女が鹿に変身したのか、ルナ王女が野生の鹿と置き換えられたのかは分からないのだが、まあ野生の鹿ならここまで近くに気配がすれば寝ていても気がつくものだし、飛び付かれて暴れないはずもない。
この呑気さは、間違いなくこの鹿が人間であることを示していた。
「そうさね。だとしても姫さんに飛び付いてはいけない。ま、せっかくだからついでに首の護符を取ってくれんかね」
「あーい」
マメーは鹿の首の裏に手を回し、ペンダントの護符を外した。呪い返しの儀式の後に師匠がルナ王女に渡したものである。
「あい、ししょー」
マメーは振り返って師匠にそれを渡した。
「ふむ。……〈光〉」
師匠は手元にろうそくほどの小さな魔術の光を生み出すと、護符をそれに近づけて覗き込んだりひっくり返したり始めた。
「あの……どういうことなのでしょう。ルナ殿下はいったい……」
ハンナがおずおずと尋ねた。
師匠はため息を一つ。
「これだけでわかりゃしないさね。ただ、この鹿がルナ王女であることは間違いない」
ぐらり、とハンナの身体がゆれた。
「しゃんとおし。呪いを解くのに失敗したあたしがいうのもなんだが、侍女のあんたがしっかりしてやらんと」
「は、はい。はい、そうですね。私は何をすれば良いでしょうか」
師匠は窓の方を見る。ガラスの窓にはカーテンがかかっていて外を見ることは叶わないが、師匠は言った。
「もうじき明け方かい?」
「はい、そうですね。あと半刻ほどです」
ふむ。と師匠は身体に手を当てて唸り、手近な椅子に座った。
「あたしらはこの部屋にいて、姫さんの様子を見ながら休ませてもらうよ。魔力の回復を万全にさせて貰おう」
「畏まりました」
「夜が明けてすぐは難しいかもしれんが、朝食より前の時間に昨日の面々を集められるかい? ルナ王女の様子は説明しておいておくれ」
ハンナは淑女の礼をとって部屋を出る。
「マメー、あんたも寝てな」
「ふぁい」
マメーはルナ王女に抱きついたまま、すぐに眠りに落ちた。
「さて……」
ハンナの気配が感じ取れなくなったところで師匠は手を振る。その手には宝玉の煌めく長い杖が握られていた。虚空から杖を取り出したのだ。
師匠はおもむろに杖を鹿となったルナ王女に向けるが、逆の手で頭を掻いた。
「鑑定の魔術を使っていいなら楽なんだけどねえ……」
魔法の対象となったものの情報を知ることのできる鑑定の術は、実のところ王族に使うことが禁じられている。これは国の法ではなく、魔女の法として。
かつて一国の王太子が国王と血が繋がっていないことをその魔術で知った魔女がぽろりとそれを口にしてしまったがために、内戦がおきて一国が滅んだ例があるためだ。
ハンナにはああ言ったが、実際には魔力はもう完全に回復している。ルナ王女にこっそり鑑定の魔法を使おうとしたのだ。だが、それが露見した時のリスクなどを考えて、やはりそれはやめることにした。
「……〈眠り〉」
師匠は鹿となったルナ王女に眠りの術をかけてその眠りを深くし、簡単には目を覚さないようにしてから、椅子の上で杖を抱くようにして身を休めてまどろんだ。
そしてしばらくして、部屋の外が騒がしくなって目を覚ました。
「あ、おはよーししょー」
ベッドの上でマメーが言う。夜明けの日差しがカーテン越しに壁を明るく縁取っていた。
「……ああ、おはよう。起きてたのかね」
「うん、いまおきたとこ」
ノックの後にハンナが顔を洗う水や着替えを持って部屋に入ってきた。
「おはようございます。こちらお使いください。陛下以外の方はすでに隣室にいらっしゃいます。陛下も間もなくお越しになるかと」
「あっ!」
マメーがぴょんとベッドから飛び降りた。
「どうかなさいましたか?」
「ゴラピーたちつれてくるね!」
さっき師匠は昨日いた面々を集めろと言っていたのだ。ゴラピーももちろんあの儀式の時にいたのだから連れてこなきゃ。
マメーはとてとてと元いた部屋に向かって走りだしたのだった。