第196話:エピローグ、そしていつかへのプロローグ
「ああ、くそっ。どうしたら」
ハンケ司教は焦っていた。もちろんミウリー司祭もそうなのだが、自分より落ち着かない人間がいると少し冷静になれるものである。また彼は聖術を行使すべく意識をそちらに集中しているというのもあった。
「はぁ……」
ため息をつき、その様子を呆れて見ている少女が一人。ドロテアである。
「まずはあのマメーなる少女を攫う。そしてその身柄を盾にサポロニアンを脱出。そしてマメーの聖女としての力をもって再び成り上がるのだ……」
ハンケ司教はぶつぶつとそう呟くが、言っていることは無茶を超えて支離滅裂である。まだ子供である自分ですらわかるのに、何を考えているのかとドロテアは思う。
ハンケ司教がミウリー司祭に行わせているのは〈転移〉魔術の中でも高難度である〈引き寄せ〉の術であり、遠方にいるマメーを血縁者であるドロテアのもとに呼び寄せようとしているのだ。そもそも、それができなかったから森の中までジョンを連れて行ったのに、成功するとも思えないし、仮に成功したところでマメーが言うことを聞きはしない、そして何より魔女がすぐに駆けつけるであろう。
「ダメですな」
ミウリーはそう言ってため息をつくと杖を下ろした。
「何がだっ!」
ハンケ司教は激昂し、ミウリーは諦観ゆえか、いっそ落ち着いた声で語る。
「いえ、〈引き寄せ〉に失敗したのではなく、そもそも術が行使できませんでした。マメーことエミリアの戸籍が全て破棄されたか書き換えられたようです。おそらくはかの魔女の子という形にしたのでしょう」
「……王都聖堂の戸籍もか」
「はい、全てです。つまりもうこの件はイングレッシオ枢機卿猊下もご存じということです」
神殿が使う転移の聖術は、戸籍という名と関係性を使った術である。それが断たれれば術の行使は不可能だ。故に戸籍の保管とバックアップは厳重であり、枢機卿が認めるか屈さぬ限りそれが全て破棄されるということはあり得ないのだ。
赤くなっていたハンケ司教の顔から血の気が引く。
「……逃げるぞ」
思わずドロテアは呟いた。
「私はどうなるの?」
「お前なぞ、あの娘の姉でないというならもはや用済みだ!」
「……っ!」
エミリアは最も嫌いだった妹である。彼女との繋がりがなくなったと聞いて、そこに喜びはなかった。
彼女の心にあるのは、エミリアとの関係が切れたらもはや無用とされること。自分自身の価値がないことへの絶望であった。
「ああ、いいですね。とても良い絶望です」
突如、部屋に陽気な女の声が響いた。
部屋の隅に、いつからそこにいたのか、壁に背を預ける修道女の姿があった。
「誰だ!」
「……ナンディアか。人払いをしていたはずだが」
マメーの世話をしていた修道女である。黒と白の修道女の服は神に仕える敬虔さを示している。だが、今の彼女の姿勢や、声音。そして彼女の浮かべる笑みからはそれを全く感じられなかった。
「ええ、ですがもう司教でも司祭でもなくなるでしょう?」
「貴様!」
その皮肉にハンケ司教が叫び、ミウリーは眉をひそめ、彼女に向けて慎重に杖を構えた。
「良い絶望と言ったな。……お前、魔族か」
「ご名答ですわ」
魔族とは絶望を、あるいは悲哀、苦痛、怠惰など負の感情と魂を食らい、人に擬態する能力を有する凶悪な力を有する生き物のことだ。人間やその他あらゆる種族の、そして国家や神殿、魔女協会といったあらゆる組織にとっても敵と言うべき存在であった。
ハンケ司教は口をはくはくと動かす。
「……ばかな、魔族がどうしてここに」
「あなたに取り憑いていましたのよ、ハンケ司教。老いたるあなたの権力への執着、そして敗れた絶望。とてもおいしくいただきましたわ」
彼女は蠱惑的な手つきで自らの腹を撫でた。そしてドロテアの方に視線をやる。
「素敵なデザートまでいただけましたし」
この部屋で絶望を感じていたのはハンケ司教だけではないということだ。
司教ははっと気づいたように顔をあげて叫ぶ。
「魔族! 魔族よ! 力を貸すのだ!」
「愚かなことを仰るな司教! あれは人類の不倶戴天の敵ですぞ!」
「だが私が助かるにはこれしかあるまい! 私を救うならなんだって払おうではないか」
ナンディアはすっと顔から表情を消した。
「わたくし、老人の負の感情はもうお腹いっぱいですのよ」
そう言ったナンディアの爪が奇怪に伸びて閃いたかと思うと、ハンケ司教の身体をバターかなにかのように易々と切り裂く。鮮血が舞い、肉が床にこぼれ落ちた。
ナンディアの視線がミウリーに向いたその瞬間、ミウリーは自らに向けて術を発動させた。
「〈転移〉っ!」
そして男の姿はこの部屋からかき消えた。闘争より逃亡を選んだのである。
「老人の絶望と魂は少々胃もたれしますのよね」
部屋に残されたのはそう言うナンディアと、取り残されたドロテアである。
ドロテアは魔族だなんてお伽話の中でしか知らない。魔族より、森の魔女の方がずっと怖い。だから魔族なる女が前にいることには特に何も感じなかった。ハンケ司教が惨殺されたことも、心が麻痺しているのか恐怖を覚えない。ハンケ司教には用済みと言われたことの、そしてミウリーは魔族を前に自分を放置して逃げたことに対しての深い絶望を感じていたからだ。
ドロテアが呟く。
「エミリアのところにいたのよね」
「ええ」
「なんであの子を絶望させなかったの?」
ナンディアは肩をすくめる。
「あなただって言ってたじゃない。あの子は特別すぎるのよ。魔女の庇護下にあって、神の祝福を得ているの。絶望なんてとてもとても」
「でも、あなたなら殺せたでしょう?」
ナンディアはきょとんと瞳を丸くして、けらけらと笑い出した。
「なんで私の邪魔もしてないのに殺さなきゃいけないのよ。私たちは絶望をすすりたいの。殺したって何の意味もないじゃない」
それが魔族という種族の価値観なのだった。
「私を……どうするの?」
「どうもしないわ。置いていくだけ」
ナンディアはきびすを返し、そしてすぐに振り返る。
「ああ、あなたの絶望もごちそうさま。お礼に金貨くらい置いとく?」
ナンディアは嘲るようにそう言った。殺す価値もないことを突きつけること。それがドロテアをより傷つけるとわかっているからだ。
「私を連れてって……!」
ドロテアはそう言い、ナンディアは表情を再び消す。
「私になんのメリットがあるの?」
「なんだって……あげるわ」
ふん、とナンディアは鼻をならす。
「魔族との契約の意味をわかってるのかしら。先にあるのは破滅だけよ」
「私が破滅しても、エミリアだけが特別で、私が無価値なのは許せないの」
「そんなことに魂を捧げるの?」
ドロテアは頷いた。
ナンディアはすんすんと匂いを嗅ぐような仕草をみせた。彼女の魂を嗅いでいるのだ。どうやら、この少女の中には、まだあらわにはなっていないが魔術への才能の芽があるようだ。そう感じた。
ナンディアは運命というものを人間よりは深く知っている。それによれば、特別なものの隣にあったものは、それ自体が役割を得ることがある。これはもしかしたら『そう』なのかもしれない、言い方を変えれば『当たり』なのかもしれなかった。
「いいでしょう」
そう言われると思っていなかったドロテアが、むしろ驚いたような表情を見せる。
「あなた、いや、お前を私の弟子とします」
ナンディアがドロテアの腕を掴むと、二人の姿はかき消え、部屋にはハンケ司教の死体のみが残されたのだった。








