第160話:エベッツィー村の最後
師匠の威圧がびりびりと小屋を揺らす。だが、それも師匠のため息と共に霧散した。
「まあいいさ。お前たちに何か言っても、もう意味はないのだからね」
「……グラニッピナ師よ、よろしいのですか?」
ランセイルが問う。グラニッピナは森にいた神殿騎士二名を無残に殺した魔女である。この村の住人を全員殺そうとするかもしれないとも思っていたのだ。その場合はさすがに止めねばなるまいとも。
師匠は頷いた。
「構わないさね。どうせこいつらはもうここには住めん。どこぞで野垂れ死のうが、あたしやマメーの知らない場所で細々と生きていようが知ったことじゃない」
「住めないとは?」
ジョンが意味を問おうとしたその時である。バタンと小屋の扉が開かれた。一人の村人が息せき切らして倉庫へと駆け込んできたのだ。彼は叫ぶ。
「村長! 森が! 森から!」
師匠やジョンたちは倉庫の外に出る。村人たちは慌てているが、村の中に変化はない。だが彼らが指差す先へと向かえば一目瞭然であった。
森が広がっているのだ。
先ほど師匠とランセイルが横切ってきた、森と村の間にあった豊かな牧草地。その奥、森に近い側から枯れているのだ。そして枯れた先から新たに草木が伸びている。目に見えるような速度で。
森が、その領域を広げているのだ。
「な、なんだこれは!」
ジョンが驚愕し、師匠はそれを鼻で笑った。
「さっき言ったさね。結界を解いたと」
この森には世界樹がある。あれは一種の神のようなものだ。自らの意思で、この村を飲み込もうとしているのである。
ジョンは叫んだ。
「なぜそのような真似を!」
「あんたらが契約を違反したんじゃないか」
「そのような契約など、知らなかったのです!」
師匠は肩を竦める。
「知らなかったなら解かれても問題あるまいに。大体ね、契約の内容を知らなくても、普通に良識ある隣人なら守られるはずのことさ。あんたらが守るべきは、森の魔女に危害を加えない。ただそれだけだったのだから」
ジョンは残っている頭髪をくしゃくしゃと掻きむしった。
「わ、私はあなたに危害を加えていませんぞ!」
「残念ながら、数ヶ月前にうちのマメーは魔女として正式に登録してある。まだあたしの弟子だし見習いではあるが、あの子もれっきとした森の魔女なんだよ。あんたは、『森の魔女』に危害を加えたんだ」
ジョンは埒が開かないと思ったのか、隣に立つランセイルに声をかけた。
「ま、魔術師様! そのローブ、王国にお仕えするご高名な魔術師様と思われますが!」
ランセイルのローブは宮廷魔術師に与えられるものでありサポロニアン王国の国章も縫い取られている。ランセイルは視線を森にやったまま、面倒そうに答えた。
「何だ」
「王国の村が失われようとしています。どうかお救いくださいませ!」
ジョンはランセイルのローブに縋らんばかりである。
「魔女殿がそなたらに危害を加えようとしているのなら止めもするが、契約を正当な理由で破棄するというののどこに止める要素があるというのだ」
「し、しかしこのままでは王国の財産たる村が失われますぞ!」
ランセイルはため息をつき、ジョンを見下ろした。
なるほど、確かに村や住人たちは税を納めるのであるから王国の富であり、それを守るのは王家に仕える魔術師の職務のうちであるのは間違いないだろう。そういう意味では代官のジョンがランセイルに村を守るよう要請することは理にかなっている。
だがまあ、こいつらを守ってやる気には正直ならなかった。
「魔術の素養がある者を森に捨てた人間が王国の財産について語るのか?」
「と、当時はそれは……」
「うむ。仮にそうだとしても、今回お前は魔女殿の下からマメー殿を攫って、王国の魔術師団や魔術学校に送ったのではなく神殿に送っているのだが? 馬鹿にするな、お前のしたのは立派な背任行為だよ」
魔術の才能を持つものが魔女となろうが神殿の聖女になろうが、王国に仕えようが、あるいは流れの冒険者となろうがそれは構わないのだ。だが、代官たる男が才ある自らの子を王国に報告することもなく別の組織に売ったとなれば、それは立派な背任である。
ジョンははくはくと口を開けるが、もはや何も声が出せなかった。
「お前たちの祖がこの地を開拓して何年と何世代が経ているのかはわからんが、魔女殿の契約というご厚意に甘えて村の防備も碌にしていないのはこの村の造りを見れば容易に分かることだ。お前たちの許しを魔女殿に乞うくらいなら、新たに人を募って入植させるさ。魔女殿との交流についてしっかりと言い聞かせた上でな」
ランセイルは顎で前を見るようジョンに促した。
「ほれ、狼どもがこちらを見ているぞ」
森の際からは無数の獣らがその瞳を爛々と輝かせながら、じりじりとこちらへ向かいつつあった。
「ひっ!」
「あんた、逃げるんだよ!」
腰を抜かして倒れかけたジョンを妻のサリーが引き起こした。村の者たちは狼から村を守ろうとすることなく、持ち運べる家財や食料を持って、街道の方に逃げていき、そして一刻もしないうちに村から人の気配は失われた。
彼らの目の前で二頭の狼がたたっと前に出て草原を走ってくる。師匠はゆっくりと腰を屈めて彼らを抱きしめた。
「バウ」
「ワフ」
彼らこそ師匠の使い魔であり、マメーを見つけた二頭の狼であった。
「おうおう、すまんねえ。マメーが攫われちまったんだよ」
二頭の狼は尻尾を垂らし、師匠の顔に鼻面を近づけた。
「何、心配はいらないさ。あたしが追いかけるし、あの子はあれでしたたかだからね」
狼たちはわふわふと鳴いてそれに答えたのだった。








