第158話:師匠は二年前を思い起こす。
「今の音はいったい……?」
ジョンが呟く。彼の家族たちもざわざわと不安げな声をあげた。魔術の知識がなくとも、何か不都合なこと、悪しきことが起こったことは直感的にわかったのだろう。
師匠は軽く肩をすくめた。
「あたしの師匠が百年前に張って、そしてあたしが引き継いで維持してきた、この村に張り続けていた結界を解いただけさね」
「結界……とは?」
師匠はジョンの疑問に答えず、ぐるぐると肩を回し、伸びをする。
「いや、久しぶりに維持している魔術が一つ減って楽になったねぇ」
ランセイルが額を押さえる。馬鹿げた話だと。
魔術は発動の際に大きな魔力を使い、維持にはそこまで魔力を使わないものもある。だが百年と言ったか。そこまでの長期にわたって村一つ覆うだけの魔術を個人で維持し続けているとは常識はずれな話であると。
「グラニッピナ師よ」
「なにさね?」
師匠は機嫌良さげに答える。答える声すら少し若返っているのではないかとランセイルは感じた。
「結界とは、内側にいるものを外の脅威から護るためのものですが……」
これはあえてジョンやその家族らに聞かせるための前置きである。
「師は、あるいはさらにその師はどのような種類の結界を?」
「街道から盗賊がこの村を目に止めぬように、森から狼やら魔獣がこの村を襲わぬように、そして森がこの村を飲み込まぬように。じゃの」
ジョンらはぎょっとした。一方でランセイルはふむ、と納得した。
「なるほど、得心がいきました。この村は柵が貧弱で、衛兵や自警団といった者の姿が見えず、冒険者組合なども置かれているように見えない。どうやって防衛をしているのかと思いましたが……、師が代行されていたのですね」
つまり、王国の最も辺境にある村にしては豊かであるというのは、そういった防衛に手をかける必要がなかったためなのだ。
「お、お待ちください!」
ジョンの妻、サリーが叫んだ。彼女の顔からは血の気が引いていた。
「そのようなこと初めて知ったのですが……!」
「ああ、契約が失念されていたのだろうってのは分かっているよ」
「なぜ教えてくれなかったのですか……!」
「あたしに言わせりゃ、大事な契約なら、なんでそれを伝承してないのかってことに尽きるんだがね」
村の者が森の魔女に護られていると知ることにより、魔女に親しみや敬意を覚えられては困る。そのようにかつての代官だか村長が考えたために秘されたのだろうということは想像がつく。
このサリーという女が知らなかったことに関して責任があるとは思わないが、同情する気も起きなかった。
「なぜそれを解かれてしまったのです?」
「いや、お主らマメーを攫って行っただろうに。契約を反故にされたのだから、そりゃ切るのは当然じゃないかね?」
ジョンが叫んだ。
「あの子は、我々の子なのですぞ!」
師匠は頷いた。
「うむ。知っているとも。ジョンとサリーの子、エミリアさね。だが、あんたらが何と言い訳しようとも、あんたらがあの子を森に捨てたのは変えようのない事実なのさ。そしてあんたたちはエミリアに関する一切の権利は失っていなきゃおかしいんだよ」
師匠はジョンの前の床をダン、と杖で強く突いた。
「……だってそうだろう。あたしが拾わなきゃ、あの子は森で死んでいたんだ」
ふと、彼女は天井を見上げて思い出す。
『バウバウバウ!』
自分の使い魔である狼の一匹がさかんに吠えていた二年前の日のことを。
『なんだい、うるさいね』
調薬の邪魔はするなと言い聞かせている彼らがこうも吠えるということは何事かと思い、ついていった先で見たものを。
『なんだい、汚くてちっちゃいのが転がってるね』
向かった先は森の外縁だ。村と森の境のあたり。そこの木の影に、自分を引っ張る狼の番である雌狼が横たわっており、その腹の上に、一人の少女が横たわっていた。
あまりにも幼く、あまりにも痩せこけた少女であった。そしてぼさぼさの緑色の髪が、灰色の毛皮の上で僅かに上下していた。
『クーン』
狼が少女の頬を長い舌で舐めた。薄く目が開き、琥珀の瞳が彷徨い、老婆を捉えた。
『……だぁ?』
乾き、掠れた声だった。およそ幼子が出して良い声ではない。誰と問うたのだろうが、言葉が不自由なのか。師匠は魔術を小さく呟き、互いの言葉が理解できるようにした。
『魔女さ』
『まょ……たべー?』
魔女は自分を食べるのか? と問うた。村の者が躾に森の魔女を使っているのは知っている。老婆は鼻で笑った。
『あんたみたいなチビを食ったってなんの栄養にもなりゃしないよ』
『ん』
さすがに食べられるのは嫌だったのか、肯定と安堵の意図が流れてきた。
『分かってるとは思うが、あんたは死ぬ』
『……ん』
魔女は杖を構えた。
『死ぬなら安らかに眠らせてやる。生きたいなら飯くらい食わせてやる』
『はぁ……なぃ』
『当たり前さね。今のあんたに払えるものなんざないだろ』
ふん、と魔女は鼻を鳴らす。子供のくせに対価なんぞ考えよってと。
その時、風もないのに木々がざわめいた。そして師匠の頭に小さいものがこつんと当たった。魔女はそれを手に取って首を傾げる。
『……ドングリ?』
まだ秋にはずいぶんと早い。落ちてくるはずもない木の実であった。
幼子は再び目を閉じている。意識を失ったのだろう。魔女は杖を持たぬ手でがりがりと頭を掻いた。
『これが対価か』
森の奥に、二匹の狼と、少女を抱えた魔女が消えていった。








