第157話:師匠、森を立つ。
ランセイルの目の前で、風もないのに木々の梢がざわざわと揺れ、夏であるのに緑の葉がはらはらと落ちていく。彼は唖然として呟いた。
「……これは何としたことか」
「森が嘆き、そして怒っているのさ」
師匠がそれに答える。
「マメーが攫われたってことを分かっているんだよ」
「そんなことが……」
師匠はだん、と杖を突くと大きく息を吸い、魔力を込めて声を放った。
「マメーは必ず取り返す! 大人しくしてな!」
葉は落ちなくなった。だが、森はまだ不自然にざわめいている。師匠はそれ以上を語ることなく踵を返し、懐から銀の鍵を取り出した。ランセイルが問う。
「幼き賢人殿はこの森にとってなんなのでしょう?」
「さてね。あたしにだってちゃんとしたことはわかりゃしないさ。ただ、マメーは植物に、特にこの森に愛されてるのは間違いないさね」
それはランセイルにとって、魔術というものでの理解を超える神秘であるように感じられ、思わず畏敬の念を覚えた。
師匠は彼に構わず、銀の鍵でとっとと家をしまい、空間に穴を開ける。
「ほれ、さっさと行くよ」
「銀の鍵っ……!」
ランセイルの脳内には尋ねたいことが山ほどある。時間が許すなら何日でも師匠とマメーを質問攻めにするであろう。だが今はその時間はないのだ。
二人は〈転移門〉を通り抜けた。
「ここは?」
「森を出てすぐ、エベッツィー村さ」
「ここが賢人殿の生まれた地……」
ランセイルはどこか感慨深げに言うが、どうみても普通の開拓村である。国の辺境にあるにしては豊かではあるだろうが、その程度であろう。
いつも通り村の外れに転移した師匠は、村に向かってさっさと歩みを進める。
ランセイルが彼女を追いながら振り返れば、確かにそこは森の外周部であった。帰らずの森は、滞在している間は長閑に感じていたが、今やランセイルを飲み込もうとしているかのような圧を感じさせた。
「……こっちかね」
怯えたような視線で遠巻きに師匠たちを見つめる村人たちには目もくれず、師匠はまっすぐに村の中心部、代官の家へと向かっていた。だが途中で何かを感知したのか道を外れる。向かったのは小麦倉庫であった。
今は夏であり、季節的には空っぽであるはずのそこに、人の気配が集まっているのだ。
「ふん、邪魔するよ」
「森の魔女!」
師匠が入れば男の声があがった。彼らの着る服は平民のものではない。神殿の貴人に仕える従者たちである。だが師匠や彼らが動く前に、ランセイルが鋭く叫んだ。
「〈束縛〉!」
身動きを封じる魔術である。男たちは床に転がった。
「ありがとさんよ」
「余計なお世話かとは思いましたが」
このような男たちが何人、何十人いたところでグラニッピナが遅れをとることなどあり得ない。だが、今の彼女に任せると、より血が多く流れるであろう。それ故にランセイルは先に動いたのであった。
無論、師匠とて彼がそう思って動いたことは分かっている。確かに冷静さは必要なのだ。師匠はかつり、と床を杖の先で叩いた。
それにびくり、と身を震わせる者たち、ジョン一家である。
師匠の視線が部屋を端から端まで往復する。
「マメーとミウリーはいない。それとあんたらんとこのうるさい娘、ドロテアといったか。それもいないねぇ」
「……なるほど」
二人はそれだけでもう状況が推測できる。ミウリーはジョンとマメーを連れて一度ここに転移し、そしてジョンを置いてどこかにいるドロテアの元に再度転移したということだ。
つまり、ここに残されているジョン一家も従者たちも捨て駒である。ミウリーがマメーをどこに連れて行ったか知っているはずはない。なぜなら師匠たちがまずここに追って来る可能性が最も高いのだ。場合によってはミウリーに嘘を吹き込まれている可能性も高いだろう。
だから師匠は無駄な尋問などしない。
かつり、と杖の音を響かせながら前に歩み出ると、皆が後退る。だが、逃げられないものがいた。
腕を焼かれてうずくまっていたジョンである。
「なあ、ジョンよ」
「……ひっ」
「やってくれたじゃぁないか」
「ひいっ!」
ジョンは悲鳴をあげた。師匠が杖を振り上げ、下ろす。
「〈治癒〉」
師匠はそう言いながら杖の先でジョンの手を突く。ジョンの手の火傷がみるみるうちに癒えていった。
ジョンは呆然と自らの手を見つめ、ジョンの妻は平伏した。
「ああ、感謝します、魔女様……」
ランセイルは眉根を寄せて問う。
「この男を癒してやる価値などないのでは?」
何といってもマメーが攫われたのはこの男のせいである。誘拐の共犯者とでも言えた。しかし師匠はゆるゆると首を横に振る。
「この村にも、この男たちにも価値はあるさ。なんといっても、マメーを授けてくれた」
「それはそうかもしれませんが……」
この村がなければ、そして彼らがいなければマメーは、万象の魔女の唯一の弟子は存在し得なかったのだ。
「だがね、今のがあんたらにしてやる最後のこととするよ」
師匠の身から魔力が流れ出て、小屋の中で吹き荒れた。ガタガタと小屋が軋む。
そう、師匠が怒っていないはずはないのだ。ただ、それを抑えているだけにすぎない。
「は……」
「あたし、魔女グラニッピナはその師匠たる魔女シャルレイアより引き継いだ魔女の契約を、いまここに破棄することを宣言する」
世界が軋み、割れるような音が響いた。








